初めての海外旅行――フランスの思い出

      2021/12/01

竹田 範弘

 

初めての海外旅行―フランスの思い出

は じ め に

 田中功也君の素晴らしい紀行記をいつも楽しませてもらっています。今回の「春のフランス花紀行」は、私が旅した場所のことも含まれていて、懐かしさを覚えます。私の海外体験は2度のフランス旅行と甥の結婚式でのハワイ行き、それとボランティアでのフィリピン滞在及び10年後の再訪です。初めての海外旅行は、私と妻とがそれぞれに想いを持つフランスでした。

 私はフランスの近代史に興味を持ち、ヴィクトル・ユーゴーやロマン・ロランの小説を愛読していました。妻は仏文学を履修しフランス・パリにあこがれていました。

 旅行は平成12年(2000年)のことで、私が陸上自衛隊を定年退職する直前の10月上旬でした。初めてのことで何の知識もない私達は、「パリだけに1週間」と予定を決めました。あちこちでは落ち着いて私達の想いを感じ取ることが出来ない、と考えたのです。航空券とホテル予約はHISに頼みました。色々と調べて、妻はフランス大使館(観光局)も訪ねて話を聞いてきました。知識が増えた私達は少し欲張って、パリのホテル7泊の中で、南仏のニース行き(1泊)とロワール川沿いの古城見物(日帰り)を加えることにしました。大変嬉しく楽しい旅で、よく覚えています。真剣で時に間の抜けた道中記を書きますので、読んでいただけたら嬉しいです。

 

わくわく半分緊張半分で早朝のパリに降り立つ 

 2000年10月2日夕、キャセイパシフィック航空で成田を発ち、香港で乗り換えて、翌日になった未だ暗い早朝のパリに着きました。機内食も美味しく食べて疲れも感じませんでした。

 緊張を覚えながらも嬉しい気持に満ちていました。緊張の中には「ひったくり、置き引き、スリ」への警戒心もありました。空港ロビーの指定位置に集合したHISのお客は、2組の若いカップルと私達でした。迎えのHIS日本人職員に案内されてマイクロバスで市内へ向かい、次第に夜も明けて来ました。途中で順次ホテルに降ろされ、一番都心のバスチーユ近くブレゲ・サバンのホテル・イビスibisuに、私達が最後に降り立ちました。

◆夜明け前のパリに降り立つ。

 

花の都パリのメトロは香水の香り?

 

 いよいよ第1日目で晴天。朝のホテル着でチェックインには長時間待つので、荷物を預けて出掛けました。先ずは陸軍士官学校へ。ホテル近くのブレゲ・サバン駅から地下鉄に乗り、該当路線のエコール・ミリテール駅で下車しました。地下鉄構内の体臭と香水を混ぜたような匂いには驚きましたが、何度も重ねるうちに「これがパリの歴史の匂いだ」と思うようになりました。切符はカルトという回数券を購入しました。

 この旅行では鉄道・地下鉄利用のほかは歩き回ることにしていて、予習した妻の頭にはパリの市街図が刻まれていました。ナポレオンが眠る「アンヴァリッド」などを見物してナポレオンを偲び、セーヌ川まで出て国民議会を観たあと遅い昼食をとり、ワインのほろ酔い気分でカルチェ・ラタンまで歩きました。

◆アンヴァリッドでナポレオンを偲ぶ。

 パリで最古のサン・ジェルマン・デ・プレ教会を拝観のあと、有名なカフェ「レ・ドゥー・マゴ」でコーヒーと店の空気を味わいました。この日はパンテオンを遠望しながらこの地区を歩き回り、薄暗くなってからホテルに帰りチェックインしました。パリに居るとの実感が湧いて来ました。

◆左:1885年創業の歴史あるカフェ「レ・ドゥー・マゴ」にて。「レ・ドゥー・マゴ」は、ヴェルレーヌ、ランボーをはじめ、サルトル、ボーヴォワール、カミュ、ピカソ、ヘミングウェイなど、世界に名だたる芸術家や文豪たちが常連に名を連ね、毎日のように熱い談議を繰り広げていたそうです。右:カルチェ・ラタン界隈。奥の方にパンテオンが見えます。

 

素晴らしい美術館群。ミロのヴィーナスを写真に撮る。

 

 2日目も晴天。先ずはルーヴル美術館を見物しました。世に知られる数々の絵画に目を奪われました。ミロのヴィーナスの彫像を取り囲んだ人達がカメラを向けていたので、私も撮りました。

 

◆ミロのヴィーナスには人だかりです。

 その後チュイルリー公園で休憩してオランジュリー美術館に行きましたが、工事中で閉館だったのでセーヌ川を渡ってオルセー美術館に入り、ミレーやルノワールなどの名画や彫像などを鑑賞しました。ルーヴルもオルセーも本当に素晴らしいと実感しました。

◆オルセー美術館へセーヌ川を渡る。

◆オルセー美術館。もとは鉄道駅舎兼ホテルでした。

 夕方リヨン駅に行って、翌日のニースまでの高速鉄道TGVの指定席券を購入しました。海外からの旅行者用レイルパスは予め入手していました。

 

ニースの海岸でトップレスの女性に遭遇

 

 3日目も晴天。リヨン駅からTGVに乗り南仏へ向かい、広く続く平原や農耕地と家畜、点在する家々などを眺めながら快適でした。

◆リヨン駅ホーム。南仏への始発駅です。

 マルセーユで乗り換えたあとコート・ダジュールに出て、山側や地中海の景色を楽しみながらニースに着きました。ガイドブックで調べていたホテルに投宿して、街から海岸へと散策しようと出掛けました。高級ホテルが並び映画にも出た海岸でベンチに座って海を眺めました。

 妻が「キャッ」と声をあげたので何かと思いましたら、浜辺の水着の人達の中に初老と思われる女性のトップレス姿があり、少し驚きました。寒いのではないかと思いましたが、日光浴だったのです。明るいうちに市街の南側の山に登ってニースの全景を眺め、旧市街に降りて屋外の席で夕食を楽しんで、ゆっくりホテルに戻りました。

◆ニース旧市街で夕食。ニース風サラダも味わう。

 

 

 

  ◆ニースの海岸。ベンチに座り
  ビーチを眺めていると…

 

シャンソニエ「オ・ラパン・アジル」でシャンソンを満喫 

 

 4日目も晴天。早朝に道路清掃車の音で目を覚まし、シャワー・洗面してチェックアウト。2人しか入れない小さなエレベーターで降りて、旧市街の方を散策しました。朝市でリンゴとトマトを買って公園で食べましたが、小さいリンゴがとても美味しかったです。

◆ニース旧市街の朝市。多くの海山の物で賑わいます。

 二ース駅の付近を巡ってから食事をし、昼頃のTGV直通便でパリに戻りました。ホテルで休んだあと、夕刻に地下鉄でモンマルトルに行き、坂の中腹に昔からの「オ・ラパン・アジル」の家を難なく見つけました。階段席の古い堅い板の長椅子に腰掛けて、昔集って来たと言う著名な画家達やここでも歌ったと言う名をなした歌手達のことを想い、また私達が若い時に日比谷公会堂で聴いたシャルル・アズナヴールを思い出したりしました。時がたつのも忘れて、熱っぽくまたしんみりとシャンソンを楽しむことができました。

 

◆オ・ラパン・アジルは、モンマルトルのソール通り22番地にあるシャンソンのライブハウス。かつてはモンマルトルに集う画家、シャンソン歌手、詩人、作家など芸術家たちのたまり場だったそうです。※写真はネットから拝借

 閉店になり外に出てタクシーに合図しても停まりません。深夜の下町なので地下鉄利用を避けたのでした。私達の後で店を出て来たお客が離れたところに集まっていて、私達を呼び寄せてくれました。そこに行くと、「乗り場はここだ、乗りなさい」と先に乗せてくれました。ルールを知らなかったのです。この旅行で1回限りのタクシー利用でしたが、親切な気遣いを大変嬉しく思いながら無事ホテルに帰り着きました。

 

運河・下水道などを巡り、フランス革命と19世紀の時代を想う。 

 

 5日目は曇天、雨は降らず。私達は歴史的な想いでパリを体感したいと思っていましたので、この日は先ずサン・マルタン運河の観光船で地下水路も通り3時間ほど進んでから下船。当時の土木技術に感心しながらパリ中心部まで歩いて戻り、次にセーヌ川沿いのパリ下水道博物館を見物しました。中は整備されてきれいなのですが、私達二人は「レ・ミゼラブル」の情景を想い口にしました。

左:サン・マルタン運河。地上部の水路を進む。右:パリ下水道博物館。鉄球はゴミの堰き止めに使われました。

 更にカルチェ・ラタンを再度ゆっくり回って、ロマン・ロランの出身校「エコール・ノルマル(高等師範学校)」を捜し当てて感慨に耽りました。また、俗に学生食堂と言われるレストラン「ポリドール」で食事をしていましたら、「ドイツから来て日本に帰る」と話す、お金がなさそうな男子の大学生に会い御馳走しましたが、話が進んで「ルイ・ヴィトンで母に幾つも土産を買う」と聞き及び、旅気分が少し醒める思いがしました。(笑い)

◆エコール・ノルマル(高等師範学校)

 

ロワール川沿いの古城も「歩け歩け」で見物

 

 6日目も曇天、時々雨が降る。オーステルリッツ駅から普通便に乗車してロワール川沿いの古城見物に出掛けました。駅から徒歩で行けるアンボワーズ城とブロワ城です。アンボワーズではパン屋さんで小さいバケットを買って食べました。この旅行で文句なしに美味しいと思ったのはフランスパンでした。バケットのサンドイッチは何度も食べました。

 アンボワーズ城と近くのレオナルド・ダ・ヴィンチ邸宅を見物し、ロワール川でカヌー遊びする若者を眺めて、今昔の時代の流れを想うとともに、異国を旅することが出来る喜びを感じました。パリに戻っての夕食は東南アジア料理にしましたが、ココナッツミルクが入ったデザートを食べたら気分が悪くなり、少し店で休んでから帰りました。雨にも降られて歩き回ったので少し疲れたのでしょう。不調はこの時だけでした。

左:アンボワーズ城。ロワール川に架かる橋から望む。 右:ブロワ城。3つの建築様式で出来ています。

 

旧市街中心部を歩き回って、パリの想いを胸にしまう。

 

 7日目は最後の日、晴天に恵まれました。パリの街並みをしっかり記憶に留めたいと思い、旧市街中心部を歩き回りました。老舗デパートのラ・サマリテーヌの屋上でパリの全周を眺望し満足でした。

◆老舗デパート「ラ・サマリテーヌ」の屋上に上がる。

◆「ラ・サマリテーヌ」屋上からエッフェル塔方向を望む。

 凱旋門とシャンゼリゼ大通りでは、写真で見た革命記念日のパレードが目に浮かびました。ヴォージュ広場では、回廊の一角のヴィクトル・ユーゴーが住んだ家の前に立ち、その生きざまを身近に感じました。「レ・ミゼラブル」もここで書かれたそうです。

 

◆ヴィクトル・ユーゴーが住んだ家の前に立つ。

◆日本へ帰る日の朝、ヴォージュ広場を見納める。

 この旅も終わりかと思うと、行き交うフランスの人達に親しみを覚えました。翌日、HISの日本人女性職員に空港まで送ってもらい日本に向かいました。HISの方はフランスに魅せられた30才くらいの独身の人でしたが、その後どうされたかな、お元気でいらっしゃるかな?と思うことがあります。

 注:革命記念日のパレードでは、軍学校の先頭を切ってエコール・ポリテクニーク学生隊が行進しますが、1973年のパレードでは、前年入校した初の女子学生アン・ショピネ嬢が旗手を務めて大喝采を浴びました。200年以上の歴史の中のエポックと言えます。

 

切なさもちょっぴり――フランスの思い出あれこれ

①街中の小さい銘板にフランス国民の気概を感得する。

 街中を歩いていて、ふと壁に貼られた小さい銘板に気付くことが何回かありました。書いてあるのは第2次大戦中のことで、「誰々、〇年〇月❍日、フランスのため、ここに斃れる」というものでした。レジスタンスの戦士のものでしょう。心に響くものを強く覚えました。

②地下鉄でスリに当たられ半身でかわす。

 5日目か6日目に電車に乗り込みドア近くに立ちましたが、発車直前に「チャリン」と足
元に音がした瞬間、若い男が外から私にぶつかって来ました。とっさに半身にかわしましたが、その男は直ぐ飛び降りドアが閉まりました。側に座っていた中年の黒人男性が自分の上着のポケットに手を当てて「大丈夫か?」という仕草をしたので、すぐその意味を理解し、自分のポケットに手を当てて「大丈夫!」と答えました。コインを投げて気をそらせ、瞬時にすり取ろうとしたものでした。あの瞬間によく反応出来たものだと今も思います。

③子供にお金をせびられる。

 リヨン駅に指定席券を買いに行った時、身なりは普通の5、6歳くらいの女の子が寄って来て、手を差し出して「お金をくれ」と言います。女児の目つきが気になり周りを見渡したら、離れたところから母親?らしき人がじっと見ていました。また古城見物でブロワ城に向け歩いていたら、ローラースケートで遊んでいた中学1年くらいの男の子が、さっと近づいて来て手を差し出しました。どちらも何とも言えない気持になりました。「私はお腹が空いています」と書いた紙を置いて街中の道端に座っている大人の物乞いの方が気楽に眺めることが出来ました。

④自動販売機は殆ど無い。トイレはどうして貧弱?

 自動販売機は街中では見かけず、地下鉄のホームに少しありました。約20年前のパリのことではありますが、日本は便利過ぎで目障りだと思いました。一方で、当時のパリの一般のトイレはどうして貧弱なのかと思いました。ナポレオン3世のパリ改造もそこまでは手が回らなかったのかも知れません。公衆トイレは使わず(使えず?)、レストラン・カフェ以外では有料トイレを利用しましたが、日本の街中のトイレがいかにきれいかを認識しました。

⑤英語を口にしないフランス人

 何回も感じたのですが、フランス人は英語を話したくないようです。フランス語に誇りを持っていることはよく知っていましたが、変な仕草でとぼけられると感じよくありませんでした。妻も仏語を話すのは全く自信がないので、大事な時は筆談を試みました。

 初めてのことは自然と熱心に取り組みます。また記憶も強く残ります。私達にとっては「行ってみたい」と夢見ていたフランス・パリでしたから、嬉しい気持で一生懸命でした。
大切な思い出です。

(了)

 

 

 

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