万葉集から演歌まで 好きな詩・短歌・俳句・歌詞を教えて下さい。  (012 琵琶湖周航の歌 田中功也 )

      2021/05/23

田中 功也

 醤油の町・千葉県野田市で小学校3年を終えた昭和30年3月、同じ県内で江戸川を挟んで東京と隣接する市川市に転居した。東京日本橋の会社に勤める父の通勤が大変だったからである。片道2時間から1時間を切るまでに短縮された。

 田舎の学校から都会近くの洗練された学校に転校し、先ず驚いたのが同じクラスに少女雑誌から抜け出たような女の子が何人もいたことである。ただただ感嘆し、胸をときめかせながらその可愛さ、愛くるしさに見とれていた。席替えの時が来る度に隣になるのを期待してドキドキしたものである。4年から6年まで、クラス替えもなく、今でも男女ほぼ全員をフルネームで覚えている。あらゆることが刺激に満ち、物珍しく、楽しく過ごした3年間だったが、ただひとつ苦痛だったのが音楽の合唱の時間だった。

 声変わりする前で、周りの子たちは皆ソプラノ、メゾソプラノ、ボーイソプラノのきれいな声で歌っている。私のひときわ低い声は耳障りで、ある時、「低い声で歌っているの誰?」と囁き交わす女の子の声が聞こえて、以来、口パクとなる。授業でも、学芸会でも、卒業式の練習でもずっと口パクで通した。(鉄棒から落ちて膝を骨折し、卒業式は欠席した)。高校になってようやく周りの音域と合うようになり、声を出して歌えるようになったが、それでも周囲の様子をうかがいながら遠慮がちに歌っていた。

 会社に勤めるようになってからも人前で歌うのは極力避けてきたが、ある時、洋画部(油絵を描くクラブ)の少人数の宴会で、お酒がはいっていたこともあり、羞恥心と遠慮が消え、森繁久彌の『琵琶湖周航の歌』を4番まで朗々と歌ったところ、思いもしない称賛を浴びた。

 森繫の枯れた歌声と、歌詞、メロディーが好きで、大学のときから折に触れて歌い込んでいた。カラオケのない時代、自分のペースで歌えたことも幸いしたのかもしれない。爾来、同じ森繫久彌が歌う『知床旅情』とともに持ち歌となり、機会があると人前で歌っている。

 『知床旅情』には格別の思い出がある。昭和49年5月、新婚旅行で訪れた知床の宿で、露天風呂につかり1人で声を張り上げて歌った。因みに披露宴には斎藤利久君に出席してもらい、奥さんにはエレクトーンの演奏で花を添えてもらった。

琵琶湖周航の歌  大正6年(1917年)  作詞:小口太郎  作曲:吉田千秋

 我は湖(うみ)の子 放浪(さすらい)の
 旅にしあれば しみじみと
 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
 滋賀の都よ いざさらば

 松は緑に 砂白き
 雄松が里の 乙女子は
 赤い椿の 森蔭に
 はかない恋に 泣くとかや

 波のまにまに 漂えば
 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
 行方定めぬ 波枕
 今日は今津か 長浜か

 瑠璃の花園 珊瑚の宮
 古い伝えの 竹生(ちくぶ)島
 仏のみ手に いだかれて
 眠れ乙女子 安らけく

 矢の根は深く 埋もれて
 夏草しげき 堀のあと
 古城にひとり 佇めば
 比良も伊吹も 夢のごと

 西国十番 長命寺
 汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去り
 黄金の波に いざ漕がん
 語れ我が友 熱き心

 第三高等学校(京都大学の前身)では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後恒例行事になり、昭和15年頃まで行われていた。三保ヶ関から西岸を北上する時計回りのコースで4泊5日もしくは3泊4日の日程。使われたボートはフィックス艇。固定座席で、漕手6人、舵手1人、他に1~2人でチームを組んだ。

左:作詞者の小口太郎  右:琵琶湖周航の歌の舞台

 「琵琶湖周航の歌」の歌詞は大正6年6月、三高ボート部に所属していた小口太郎が琵琶湖周航の途次に作り、今津の浜で披露、その後補完されて大正7年6番まで完成。曲は吉田千秋が大正4年に作曲した「ひつじぐさ」のメロディーを借りたもの。三高の寮歌として広まった。小口は26歳、吉田は24歳で早世している。

 

 

 

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