リクルート回顧録(江副さんとリクルートと私)

      2022/09/01

小野塚満郎さんのリクルート回顧録(江副さんとリクルートと私)ついに完結! 全編を一気にお読みいただけます。

リクルート回顧録(江副さんとリクルートと私) 著者:小野塚満郎

 

Prologue 序章
  江副さんの手 運命の不思議な縁で結ばれて
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第一章  昴
  江副さんの発想・識見・ビジョン  昭和の世に、なぜこんな人が生れてきたのだろう
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第二章  流星
  成長と課題  私はリクルートの「課題解決担当」だった
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第三章  蒼天
  新規プロジェクト 30社を超える関連企業
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第四章  雷鳴
  リクルート事件・バブルの崩壊 江副さんから贈られた一冊の本
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第五章  青雲
  私の履歴書
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年表

 

 

 

江副さんの手の思い出がつなぐ42年

 私が江副さんに初めて1対1で接したのは、入社5年目1974年のことだったと記憶しています。「小野塚君、ちょっと来なさい」と内線電話で呼ばれ、部屋に入っていくと、机の引き出しを開けて封筒を出し、これを使いなさいと手渡すのです。
 私は当時息子の手術でお金が必要でした。江副さんが、私がお金を必要としていることをなぜ知っていたのかはわかりません。一瞬のことでした。返事のしようがありませんでした。私は考える余裕もなく、受け取って自分のデスクに戻りました。この時の江副さんの手を、今でもはっきりと思い出すことができます。この事が、いま私が在る原点ではないかと思えてきます。
 月日は巡って、2013年1月31日の夜9時過ぎ、江副さんの秘書から、江副さんが東京駅で倒れた、日大駿河台病院救急救命室にいると連絡がありました。江副さんはこの日、自らが開発に携わった岩手県・安比高原スキー場からの帰路、東京駅ホームで仰向けに転倒し脳挫傷、日大駿河台病院に搬送されたのです。

 私が第一報を受けたのは1月31日の午後9時頃。新年会の二次会の途中で留守電になっていました。仲間と別れて新橋の事務所に帰り、寝ようと着替えていた時に気が付いたのです。翌日は江副さんのいる安比スキー場へ行く予定でした。

 一瞬思考が止まり、数分間ボーっと立ち尽くしていました。酔いも覚め、次第に冷静に事態を考えられるようになって、急いで着替え、中央線御茶ノ水駅近くの日大駿河台病院へタクシーで駆けつけました。

 江副さんはベッドに横たわっていました。すぐ耳元へ顔を寄せ、大きな声で江副さん江副さんと呼びかけましたが、反応は全くありません。祈る思いで江副さんの手を強く握りましたが、何の反応もありませんでした。絶望が江副さんの手から静かに伝わってきました。そして8日後の2月8日、江副さんはそのまま一度も目覚めることなく、帰らぬ人となりました。享年76歳。初めて社長室で対面したあの日から42年の年月が流れていました。

 
書き残したい――湧き上がる想い
 
 1969年、23歳の時、私は当時まだ無名に近かった㈱日本リクルートセンターに入社しました。その後50歳で前線を退くまでの27年間、さらに6年間のフロムエー監査役を経て、江副さんが亡くなる2013年、後始末の数年を加えた自称「江副さん担当」の20年間を合せれば、ほぼ半世紀をリクルートおよび江副さんと共に過ごしたことになります。

 そして江副さんロスの日々が積み重なっていく中で、江副さんの真実を書き残したいという想いが次第に強くなっていきました。並外れた先見性や実行力、人の能力を見抜き育てる力など、異能の天才江副さんが今もし存命であれば、混迷する日本の現状をどう斬ってくれるだろうかと想像したりします。

 良いことも悪いことも、江副さんが日本の経済界とリクルートに残した功罪を真摯にふり返ることで、未来を照らす一助になれば幸いです。それが至近の距離から長く江副さんを見続けた一人として、私が果たすべき責務ではないかと思っています。

 

 

 

 江副さんが稀代の天才経営者であるのは間違いありません。なぜこんな人が生まれたのか、存在するのだろうと、つねに不思議に思っていました。
 第一章では、私が半世紀近く江副さんの傍にいて見聞きしたことを綴りました。江副さんの不可思議な行動や面白エピソードを通じて、常人には理解しがたいその人間像に迫っていければと思います。

なぜ東京大学教育学部なのか

 江副さんは1936年(昭和11年)大阪市生まれ。甲南中学・甲南高校を経て、1960年(昭和35年)に東京大学教育学部教育心理学科を卒業しました。なぜ教育学部を選んだのか、ある会合で江副さんの高校の同級生からその理由を伺ったことがあります。

 その人が言うには、「江副は東京大学教育学部を受けて合格、入学しました。私は難しい学部を受けて失敗しました。高校時代、江副より私の方が成績は良かったんですけどね…」とのこと。そして、なぜ教育学部なのかというと、「江副は学部と言うより、東大というブランドが欲しかったのではないかと思います。将来事業家になるには東大卒と言う肩書がどうしても必要だと考えたのではないでしょうか」と笑いながら教えてくださいました。
 つまり江副さんは高校生の時から、将来事業家になることを見据え、東大への入学もその手段の一つだったというわけです。

芽生えた起業への想い
 江副さんがリクルートを創業したきっかけは、経営難に陥っていた東京大学新聞から経営の立て直しを依頼されたことに端を発します。その手段として、大学新聞に企業からの求人広告掲載を提案し、営業を始めました。これが、大学生への求人広告の始まりです。東大在学中のことですから、昭和30年前後の事と思われます。この企画はその後他の旧帝大、早稲田大学、慶応大学新聞へと広がっていきました。大学生への求人広告が、ビジネスになると心の奥に秘めた時期だと思います。

リクルートの原点「企業への招待」

 リクルートは、学生に就職情報を提供する会社としてスタートしました。それまで大学生の就職活動は、教授の推薦か、学校に掲示される求人情報=試験日情報が中心で、それに東洋経済が出していた、会社四季報をチェックして企業内容を知るのが唯一の手段でした。

 そんな時代に、江副さんの友人がアメリカの大学で配布されていた就職情報誌「プレースメント」を持ち帰り、それをヒントに創刊したのがリクルートブック「企業への招待」です。人材を求める企業と仕事を求める学生たち、両者のニーズを結びつける新しい情報誌ビジネス。今では当たり前ですが、当時としては画期的だった"広告だけの本”の原点です。
 当時情報は無料、ただで受け取るものだというのが常識でした。その分、情報にお金を出して利用するという感覚は弱かったと思います。それを江副さんは、広告そのものをコンテンツにした就職情報の専門誌を発行し、正確で大量で早い提供という三原則を基本方針としたのです。その第一歩がリクルートブックであり、そこから次々と情報のジャンルを拡げ、事業領域を拡げていきました。そのお手本はアメリカの経済であり、社会でした。

最初の10年は苦労の連続
 リクルートは1960年(昭和35年)3月に、大学新聞広告社として創業、10月に法人化しています。60年安保の年です。経済成長はめざましく、企業の求人攻勢が積極的になり、リクルート創業にふさわしい年だったと思われます。しかし事業が上昇ラインに乗るまでには、かなりの苦労があったと聞いています。私が入社する数年前までの10年弱の期間、貸机業をしたり、家財道具を売って資金繰りをしたり、賞与を払えなくて株式を分けたりしたそうです。

窮すれば変ず、変ずれば通ず
 私がリクルートに就職したのは、1969年(昭和44年)4月、創業から9年目です。それまでのリクルートは中途採用のみ、新卒採用は昭和43年からで、私は大卒採用2期目でした。社名は株式会社日本リクルートセンター(営業していると、日本レクレーションセンターとか陸送センターとかによく間違えられました)で、年商は数億円。社内の雰囲気は学校の延長で、上司、役員の呼び方も、肩書で呼ぶことは無く、名前を「さん」付けで呼んでいました。つまり社長になっても会長になっても江副さんです。これは77歳で亡くなるまで変わることはありませんでした。

 昼休みになれば、将棋盤を持ちだして早打ち将棋、7月8月の営業が暇な時期は、夏休みの雰囲気でした。この社風がリクルートの卓越した人材を育てた基盤でした。「自由と自主性と責任」これらをバランスよくコントロールしたのです。社訓「自ら機会を創り出し機会によって自らを変えよ」が、それを体現しています。江副さんの好きな言葉「窮すれば変ず、変ずれば通ず、通ずれば即ち久し」が思考と行動の指針でした。

江副さんと不動産取引
 江副さんは不動産事業が好きでした。きっかけは、アメリカの不動産会社T不動産です。T不動産はニューヨークの貧民街の土地を買い占めていきました。その不動産が10年後20年後に大化けしていたのです。土地買収は大成功を収め、現在の会社の土台を作りました。余談ですが、その資金の出どころはユダヤ資金だと言われています。現在のT氏に影響を与えていると考えられます。
 江副さんはなぜか、この不動産取引のことを知っていて、その取引事例を参考に、日本で大都市の中心にある駅裏の土地を買っていったのです。以前は赤線地帯と呼ばれていた土地で、安かったのです。そこに大きなビルを建てていきました。大阪、名古屋、京都、広島、博多、神戸、大宮、仙台と、次々と建設していきました。駅裏ばかりではありません、良い土地があれば買い、ビルを建てていきました。買う目的の一つは、不動産は値が下がらないという神話、不況になった時売却して資金を回収、経営を助けるのだと。バブル崩壊の時、正にその通りになりました。バブルが崩壊しても、土地を安く買って建てたビルは、利益を出して売ることができました。リクルートの子会社を支援する資金になりました。当時銀行は不動産取得資金の貸し付けは積極的だったのです。まだバブルの始まる以前の事です。

リクルートGINZA8ビル建設検討役員会
 1979年(昭和54年)銀座8丁目土橋交差点に、キャバレーショウボートの跡地を取得し、170億円かけてビルを建てる構想を提示した時のことです。江副さんは役員会で趣旨を説明、まだ売り上げが200億円のころに、170億円の借入金をしての買い物です。役員会は全員が反対でした。
 そこで江副さんが話したことは「リクルートは成長する、社員は増えていく、そのスペースが必要だ。内幸町に建設予定の大和生命ビル(高層ビル)の半分は必要だ。その家賃は年間で数十億円になる」と、リクルートの成長を予測、確信していたのです。これを聞いた営業担当の役員二人が「分かりました、営業部門は頑張ります」と答えたのです。銀行向けに10年の事業収支見通し、資金繰り表を手書きで作成、銀行に提出、170億円の借入金を実現させました。その資料を大事に残してあります。
 1981年(昭和56年)3月、リクルート銀座ビル通称G8は竣工しました。私が作成した10年収支予測表を、大事に保存しています。結果、リクルートの実際の業績結果は計画を上回りました。

人材育成にかける予算は無限
 江副さんは人材を得るために、あらゆる努力をしていました。採用費にかける金額は10億円をこえていました。高校、大学の新卒、中途採用、ヘッドハンティング、あらゆる手段を講じていました。そしてこの人材を上手く配置して、リクルートを大企業に成長させる基礎を作りました。各所の人材が生きているのです。
 あるとき私は、教育研修部門担当の役員から、人材バランスシートの話を聞きました。確か本にも書かれていたと思います。私は難しい本を読むのは苦手でしたが、この考え方=人材バランスシート論には納得しました。人材バランスシートとは、人材を、資産になる人、負債になる人、資本になる人、稼ぐ人、使う人に分けて、能力・性格を分析し配置していくのです。
 江副さんは、この人材を成長させるための手段としての研修が大好きでした。研修にかける予算も、無制限と言って良いと思います。代表的な研修はROD研修、リーダーシップ・オーガニゼイション・ディベロップメント研修です。新人、入社2~3年生、リーダー、課長、部長、役員すべてが研修対象でした。2泊3日の泊まりこみで、深夜に及ぶ研修です。
 プログラムは、自分の行動を4つの大きな因子に分け、それぞれに10数項目の質問が設けられています。この質問に後輩、自分、上司が5段階評価をつけ、その評価を比較します。3つの折れ線グラフを作成し、差が出てくる項目を選んで、差の原因を自己分析するのです。そしてこの分析結果が正しいか、グループ討議が始まります。この討議が癖ものでした。皆が納得するまで延々と続くのです。深夜いつまでも、最後に泣き出す人も出てくる研修です。私も何回も受けました、並行してこの研修のトレーナーも務めました。リクルートのマネージャーは何でもする、研修者でありながら指導もしていたのです。
 この研修が人材を育てました。自己分析能力の向上です。自分を冷静に見る習慣と能力を身に着けることができたのです。リクルートで育った人材は、今も多方面で活躍しています。リクルートは学校としても優れていたのです。
 孔子の教えに「過ちは誰でも犯す、この過ちを過ちと認めないことが本当の過ちだ」というのがあります。江副さんは、過ちを問題にしませんでした、過ちを経験し、正して次の成功に繋げれば評価していました。

趣味の株取引

 江副さんは株取引が趣味で、もはや趣味の域を超え、一種の依存症のようになっていました。始めたのはリクルートを創業して間もなくの頃だと思います。目的は資金稼ぎとは口実で、その実態は麻薬のような甘い誘惑だったのではないでしょうか。100を超える銘柄の売り買いをしていたようです。
 当初は、私を経理部に呼んだ上司が、株式台帳を作り管理していました。江副さんが株の売り買いを判断するのは夜中です。仕事が終わり、接待が終わり、全てが終わって社長室に戻って、指示が出ていたと思います。上司は毎晩遅くまで会社に残っていました。江副さんの家は会社で、社長室が居間でした。逗子から麻布に転居しましたが、ほとんど寝に帰るだけだったと思います。上司が忙しくなり、対応できなくなると、上司の秘書が担当になり、台帳をつけるようになりました。
 リクルート事件は、別稿で書きますが、江副さん個人の株式取引にも影響が出ました。株取引の対税務上の規則は詳しくは知りませんが、税務上取引件数、回数に制限があったのです。制限を超えると、利益に税金がかかるのです。ということは、制限内では利益に税金がかからない、そんな時代もあったんですね。江副さんは、国税局から子会社名義での取引も江副さんの取引と数えられ、件数が増えて多額の納税義務が発生し、請求書が来ました。裁判中のことです。江副さんは払いませんでした、延滞税だけ払っていました、資金が無いわけではありませんので意地で払わなかったのだと思います。裁判が終了して払いました。

失敗に終わった通信事業への参入

 通信の自由化――公共企業体が独占していた電気通信事業が民間に開放され、電電公社がNTTとして民営化されることが発表された時、江副さんは素早い動きを見せました。いち早く第2種通信事業者の認可を取り、通信事業に乗り出したのです。私が関連会社室長に就任した1985年(昭和60年)の事です。
 それは江副さんに取って、まさに「第2の創業」とも言える意気込みでした。社運をかけて取り組んだ新規事業への情熱は並々ならないものがあり、江副さんは私たちの顔を見るたびに「コンピュータを勉強しろ」、「COBOLを覚えろ」と、大変でした。並行して、これまで文系に偏っていた大卒者の採用に技術系大卒者の採用を加え、コンピューターがすぐに使える即戦力の中途採用を積極的に推進しました。そして、これらの人材が後のリクルートを支える大きな力になったのです。
 通信事業展開のためには、全国展開が必要です。通信ネットワークを築くためには、拠点を全国に拡げることが不可欠で、そのためには多額の資金が必要でした。その額すべてを合計すると、1千億円を超えていたのではないかと思います。この事業は結果として失敗、撤退しました。自由化初期には多数の企業が参加しましたが、今残っているのは数社です。
 この投資に多額の資金を使い、大きな損失を出しました。しかし、その中でも大きな割合を占めた技術系人材の確保は、リクルートにとって大きな財産になりました。リクルートはこの先行投資により、いち早くデジタル化の波に乗り、事業転換に舵を取ることが出来たのです。

リクルートには当てはまらない「企業の寿命30年説」
 「企業の寿命は30年説」というものがあります。企業が変化に対応せず30年の年月が経つと、衰退し消えていく運命にあるという意味です。
 変化の一つは環境の変化です。新たな時流に適応できなければ企業は消滅します。もう一つは経営トップの姿勢です。社歴が長くなり成功体験が積み重なっていくと、つい「これまでこの方法でうまく行ったのだからこのままでいい」と考えがちです。この姿勢が衰退へ導きます。そうならないためには、考え続けるしかありません。江副さんは考え続ける指導者でした。

江副さんの記憶の倉庫
 江副さんの記憶力は相当なものでした。そしてその記憶力の活かし方には、特徴がありました。江副さんの脳の中は、情報のジャンル・テーマごとに、収納場所が細かく分かれていました。何かを考え、検討、判断するとき、そのテーマの収納場所を開き、すべての情報を取り出し、生かし考えて、会議や相手との会話に生かしていました。その間他の収納場所の扉は閉ざされていました。
 江副さんが何かの思考に没頭しているとき、他のテーマで相談に行っても、答えません、他の人に振ったりします。そのくせ相談した人が、江副さんが振った人に判断してもらい物事を進めると、後で江副さんに「誰が決めた、判断した」と怒られることがたびたびありました。
 江副さんは、自分が関心あること、重要なことには全て関与しようとしました。特に総務のイベントの社員総会、運動会、忘年会、全社部課長会等々には頭を突っ込んでくるので、総務担当役員は苦労しました。江副さんを知り尽くしていた、心理学者の大沢さんは心得ていて、江副さんから大沢さんと相談してと言われて部下が相談に来ても、答えませんでした。

未来ある若者を道連れにしてはならない
 江副さんがリクルートを離れて、新しい会社を立ち上げていた時期のことです。江副さんから財務ができる若い人材が欲しいので紹介してくれと依頼されました。私は自分の優秀な部下を江副さんの会社に転職させようとしました、部下も了承し、江副さんに伝えました。
 ところが江副さんはなんだかんだ難癖をつけ、「君はダメだ」と言うのです。江副さんは、ダイエーに自分のリクルート株を譲渡した時点で、リクルートは自分の手から離れたことを承知していました。自分とリクルートとの関係が、時間とともに距離ができるだろうことを予想し、そんな自分がリクルートの優秀な若い人材を引き抜いてはいけないこと、道連れにしてはいけないことを承知していたのです。そんな江副さんの思惑に気づいた私は猛省しました。私の人生で最大の過ち、危うく大切な部下の一生を台無しにするところでした。

ゴルフは散歩
 江副さんは、裁判が終わって執行猶予の期間、新橋事務所で執筆活動や好きな仕事の不動産開発・マンション事業を行う以外、冬は安比へスキー、暖かくなるとゴルフ場へ"散歩"に出かけていました。ゴルフは散歩だというのです。私たちとゴルフをするときは、ボールがグリーンに乗ったら一回だけパットをして、ホールは終わりでした。
 ところが学生時代の親友とのゴルフでは態度が一変、ヘリコプターで到着し、一人では降りられず皆に抱えられていましたが、ゴルフがスタートするとシャキッと歩き、パットも最後まで打ちました。やればできる人だと分かりました。

半径1メートル以内に入るな
 私が現役を引退、子会社の監査役をしていた時期、暇で江副さんの会社を手伝っていた頃のことです。ある日突然事件が起きました、江副さんが電話で私を怒ってきたのです。初めてのことでした。江副さんの怒りの内容は、私からすると青天の霹靂、全く筋違いの事でした。
 その当時江副さんは、ある人物を攻撃し続けていました。攻撃された彼は、何をやってもだめでした。私と弁護士で、彼をサポートしましたが、無駄でした。江副さんが目を付け、苛めの標的にされた彼に逃げ場はなかったのです。彼は会社を辞める判断をしました。そういう時期だったので、江副さんは次なる苛めの相手を探していて、どうやら私が候補になってしまったようなのです。私が江副さんの"半径1メートル以内"に近づいてしまったのです。私は、江副さんの前から姿を消しました。私を次の攻撃対象に決めたのだと判断したからです。消えた後、江副さんから電話や人を介して「来るように」と厳しい追及がありましたが、応えませんでした。
 当時江副さんは、好きな株投資で損失を出していました。金庫番の女性では、対応できないほどの大けがでした。私は毎日、赤坂の江副個人事務所へ行き、女性のフォローをしていました。江副さんは新橋の江副育英会のオフィスが常駐場所で、赤坂には来ませんでした。レポートを作成し、江副さんに届けていました。夜になると、江副さんから電話があり、ありがとうの言葉をかけられました。
 この事件以降、私は江副さんを冷静に観察できるようになりました。真の江副象が見えてきた気がしていました。それから、江副さんとの仲は友人的なものになり、付き合いの主軸は仕事から遊びへ、ゴルフやスキーへと移っていきました。

人前では痛いと言わない
 新橋の江副育英会事務所でのことです。行くと江副さんの顔面が、額から鼻先にかけて腫れあがって痛々しい姿。近くの第一ホテルからの帰途、つまずいて顔からアスファルトの地面へ倒れたとのことです。手をついて防御も充分にできなかったのか、顔先から突っ込んだので、無残な姿になっていました。
 気がついたのですが、歩き方がつま先から、突っ込むような歩き方でした。パーキンソン病の始まりだったような気がします。本人は少しも痛がらず、平気な顔をしていました。そうです、江副さんは痛みを感じない人、痛いと言わない人でした。少なくとも人前では。以前、安比スキー場で足首を捻挫して、自宅で役員会議をした時も、足首に重たいものを乗せて、部屋の中を歩きまわっていました。

愚痴を言うと論破される
 1996年(平成8年)頃の話です。現在のマンションに住んで3年目の頃です。マンションは西にベランダがあり、リビングから冬になると真っ白な富士山が見えました。
 マンションの西には広い敷地に2階建ての産婦人科病院があり、広い庭がついていました。そこに大京不動産が10階建てのマンションを建てたのです。当然富士山は見えなくなりました。そのことを江副さんに愚痴ったところ、江副さんから軽くいなされてしまいました。
「小野塚君、駅傍の広い土地は、いずれマンションが建つこと解らなかったの?」
「産婦人科は経営が不安定だから、売られる可能性は高いよ」
「広い土地は、いずれ高い建物が建つと考えておくべきだったね」
等々と、理詰めで畳みかけるように言われたのです。

 リクルート在籍中、仕事面では数多くの難題に対峙して乗りこえてきたと自負していますが、江副さんとこの話をしたのをきっかけに、ようやく気付かされたことがあります。これからの人生は、自分で先を考え生きていかなくてはいけないのだと。

ただ一人先生と呼んだ人

◆リクルートの旧社名ロゴ

◆1964年東京五輪シンボルマーク

 リクルートが開発した安比高原スキー場のグランドデザインを担当したのは、アートディレクターの亀倉勇作先生です。1964年東京オリンピックのポスターをはじめ、数々の名作デザインを世に送り出した日本の現代グラフィックデザイン界の第一人者です。リクルート創業時からのお付き合いで、リクルートの旧社章『カモメ』も先生のデザインです。
 江副さんが唯一先生と呼び、江副さんに対して唯一強く意見を言えるのが亀倉先生でした。事件で江副さんが長い裁判を開始したとき「江副さん、早く裁判を終えて、経営者に復帰しなさい」と何度も何度も言っておられました。リクルートの重要会議に同席する一人でもありました。
 江副さんは、安比の総合デザインを亀倉先生に依頼しました。安比ホテルの黄色、ゴンドラのブルーと黄色、部屋の小鳥たちのデザイン、国道からの入口に立つトーテムポール、安比スキー場案内パンフ、全て先生のデザインです。
 先生もスキーが大好きでした。安比の広いゲレンデを大きくゆったりと滑る姿は見事でした。ゲレンデをいっぱい使って、端から端へ、大きく大きく滑るのです。ご高齢にもかかわらず、この体力、パワーはどこから生まれるのかと感服していました。レストランで厚いステーキを召し上がっているのを見て、納得したものです。先生のスキーでの行動は、午前中滑ると昼前には一度上がり、着替えてレストランでゆっくり食事というようにゆとりを感じました。この姿を見て江副さんも見習うようになっていきました。
 1997年のスキーシーズン、亀倉先生が安比スキー場で転倒し、頭を打って数か月後に帰らぬ人となられたことは、痛恨の極みというしかありません。私の部屋には今も小鳥のデザインがあります。いつまでも眺めて飽きることがありません。江副さんは、かけがえのない大きな心の支柱を失ってしまったのです。

異能の天才――江副さんと織田信長

 江副さんの考えや行動は、戦国時代の覇者・織田信長と似たところがありました。数々の大胆な変革を成し遂げた風雲児でありながら、天下統一を目前に躓いた信長。リクルートを創業し、時代の寵児と賞賛されながら、「リクルート事件」で表舞台から姿を消した江副さん。功罪両面を併せ持ち、人の評価でも好きと嫌いが相半ばする点もよく似ているような気がします。

日本の戦を変えた「長篠の戦い」

 日本の軍事戦術を根本から変えたと言われる「長篠の戦い」。織田信長は鉄砲を駆使した近代戦術で、勇壮無敵と謳われた武田の騎馬軍団を打ち破りました。1575年の事です。海外から情報を得た信長は、火縄銃の扱い方をいち早く習熟し、また数を揃えることで100%勝てる圧倒的な軍隊を作りあげたのです。

 並行して、城の周囲に楽市楽座を設け、商業の発展を促し、そこから得る利益で軍隊を強化しました。それまで農業兼務だった兵隊をプロ化した、戦闘専門の部隊です。さらに堺での鉄砲作りに、高性能で修理が可能な分業制を取り入れ、大量の武器を確保できる体制を作りました。堺も利益を得ることで、生産増に応えることができたのです。つまり信長は、外国の情報を基に、長期的展望に立って、戦略戦術を練り、常勝軍団を作り上げたのです。

 江副さんも同様でした。アメリカ経済の躍進ぶりを見、10年20年後の日本を予見して、経営戦略を立て、事業として成功100%の戦いを進めて行ったのです。鉄砲の代わりは、資金と人材でした。

驚くべき二人の共通点

①二人とも情報を得ることに長けていました。

 戦をするにあたって信長には、相手方の動きを読む卓抜した力がありました。また、宣教師などから外国の情報を得、戦略に取り入れました。
 江副さんも、事業を拡大する際にアメリカ経済の動きを注視し、P.F.ドラッカーを愛読、新聞を下から読む(まっ先に広告欄をチェック)等、情報を得ることに努力を惜しまない人でした。また、細かいことですが、毎週月曜日部長会議などがあるときは、1階から階段で上がり、各フロアを回り、女子社員の間をめぐって、何らかの情報を得ることを習慣にしていました。そして、一度決意すると、あらゆる手段を講じて達成へと結びつけました。

②人材活用に壁を作りませんでした。

 信長はあらゆる人材を受け入れ、使えなくなると容赦なく外して行きました。江副さんも中途採用に積極的で、プロパーの社員、たとえ部長クラス、役員であっても、使えないと判断すると地方や子会社に外していきました。

③信長は本城を作りませんでした。

 信長は幾つもの城を建設しましたが、ここが本拠地という「本城」を持たず、その目は世界に向けられていました。江副さんも、ビルを建てても「本社ビル」とは呼びませんでした。

④二人とも派手なイベントが好きでした。

⑤ストレス解消のためつねに“苛め”の対象となる人間を用意していました。

 選ばれた人間はたまったものではありません。

⑥自分の関心事の意思決定には、人の意見に耳を貸しませんでした。

 信長は、部下が勝手なことをして戦に勝っても褒めなかったそうです。江副さんも同じ、自分の関心事、特に総務マターの事が好きで、それを総務部長などが相談なしに進め、決めるとあとで怒っていました。

⑦粘着質でしつこい性格

⑧根は弱い人間    等々

 あの戦国時代に、なぜ織田信長という異能の天才が登場したのか。農耕民族の日本において、戦後の混沌とした昭和の時代に、なぜ江副さんという攻撃的な人が育ったのか。今でも解き明かせない謎です。

 

33年前、日本経済は
江副浩正という稀有な才能を失った。

 1989年リクルート事件発生、2014年江副さん逝去。江副さんの逝去は今から8年前ですが、それよりさらに25年前に、日本経済は江副浩正という稀有な才能を失ってしまったと言えるかもしれません。
 もし、江副さんが事件で躓くことなく、その後も経済人として思うまま辣腕をふるっていたら、たぶんYahooもなかったし、楽天も、ソフトバンクも現在のような形では存在していなかったのではないかという人がいます。なぜか、それはリクルートがそうした事業をやっていたのではないかというのです。そんな「たられば」に答えを示すことなく、江副さんが私たちの目の前から立ち去ったことを、残念に思わずにいられません。

 

 

 

志布志ファーム研修

 私は昭和44年にリクルート入社、福岡営業所で2か月間研修ののち、6月に東京営業部3課に配属されました。ここで3年半勤務した昭和47年9月、鹿児島と宮崎の県境にある町・志布志の牧場兼農場へ研修に行きました。

◆志布志湾

 当牧場兼農場が作られたのは、小松左京の『日本沈没』がベストセラーになっていた頃のことです。目的は江副さん曰く、「自然災害が起きた時、農場を持っていれば社員が食べ物に苦労しないですむ…」から。もう一つは、研修好きな江副さんのことですから、この牧場に部単位で農場手伝い研修に行かせることにしたわけです。研修半分レクレーション半分でした。研修の最後はたき火を囲んで歌い、喋ったものです。農場の運営は、社員の希望者が行っていました。学生時代から希望していたとのことでした。

 不動産好きな江副さんのしたことです。後のオイルショック時期、志布志湾が石油開発=石油貯蔵基地になり、志布志近辺の土地が高騰、ファームはクローズしました。クローズしに部下と二人で清算仕事をしました、帰りに霧島温泉で1泊した記憶があります。※志布志ファームについては、第3章に記しています。

営業から突然経理へ異動

 ファーム研修を終えNビル(その年の8月に竣工したリクルート最初のビル、西新橋ビル)の営業部フロアに戻ったところ、営業部長溝渕さんから「小野塚君、明日から君は経理部門で働いてもらう」と言われ、茫然としたのを覚えています。すぐに経理部長奥住さんが来て、君に頼みたい仕事があると4000万円の未入金リストを渡され、『回収してくれ』と一言。これが、私のリクルートでの、トラブル解決担当=リクルートが急成長を遂げたがゆえに、そのプロセスで起こるさまざまな「課題解決担当」の始まりでした。江副さんが亡くなるまで続きました。この人事の背景に、江副さんがいたのではないかと、憶測しているのです。

70~80時間の残業で給料が倍に

 経理部でまず所属したのが「受注管理課」、売り上管理、請求、売掛金回収が仕事です。急成長が始まったリクルート、経理部に行くと、入社して数年の高卒の若い男子・女子社員が、伝票集計、請求書作りで毎日残業、売掛金回収どころではありませんでした。手作業で処理していた時代です。そんな状況の中、部長が誰かいないかと江副さんに相談し、私に白羽の矢が立ったのではないかと思います。

 幸いにも4千万円の未回収の売掛金は、不良売掛金ではありませんでした。対象会社の経理を訪問、支払われた請求書と入金をチェックさせていただき、未回収分を再請求、2か月で回収した記憶があります。
この人事異動で経理部門へ行っての最大の変化は、給料が倍になったことです、なんと月に残業が70~80時間、毎日3~4時間の残業があったのです。若い男女が猛烈に働く要因の一つだったと思います。営業マン時代、残業はゼロでした。売掛金の回収には、電車や車での集金もありました。小切手、手形が主でしたが、偶に数万円の現金もありました。リクルートの営業マンは、郊外の小さな会社にも営業していたのです。

 私の役割は、売掛金回収、売り上げ管理です。東京だけではありません、北海道から九州まで、全国の事業所、営業所が対象でした。売り上げ管理、営業マンの売り上げ管理、整理です。当時オイルショック等で、売上キャンセルが発生しても、営業部門は売り上げ取り消しの申告をしませんでした。江副さんから、真の売り上げが知りたいと要望があり、営業マンから直接ヒヤリング、実態を把握しました。営業マン経験者だからこそできた仕事ではないかと思います。入社5年も過ぎるとベテラン社員です。営業課長等の意思は無視して、営業マンから直接数字の実態を聞き把握していきました。

営業マンの足を止めるな

 受注管理課の次は財務課です。受注管理課の仕事に目途がついた1年後財務課へ、現金出納、社内預金、資金繰表作成をすることになりました。現金出納では毎日高卒の女性が夜遅くまで残業していました。江副さん指示で、現金出納は毎日出金です。社内預金引き出しも毎日です。江副さんの『営業マンの足を止めるな』の考えです。営業マンは交通費が必要です。その日暮らしの社員が多いのがリクルートでした。(社内預金金利は6パーセント、便利で利回りの良い預金でした、決算時に日分で細かく利息計算していました)前日提出された、交通費・経費等の支払伝票を翌日午後には出金するのです。100件以上の件数だったと思います。毎日銀行に現金引き出しに行きます。一日締めて伝票残と金庫残のお金が合うまで残業でした、夜9時、10時過ぎは当たり前でした。銀行と一緒です。それを出金時に、間違いが無いか判明する仕組みを考えました。必要な現金を必要な金種で、銀行から引き出してきたのです。出金封筒に入れて、お金が余るか不足すれば間違いが分かるという仕組みです、銀行の協力を得て行いました。

 これで残業の原因、悩みは無くなりました。しかし絶対的仕事量の多さは増えるばかり、結果残業は減りませんでした。毎晩タクシーで女性社員を京王線つつじヶ丘にある寮へ送り、八王子狭間まで帰る日が続きました。

働きながら税理士資格を取得した女子社員

 こんな中、特異な高卒女性社員がいました。残業ゼロ時間、そう、5時に退社、夜間大学へ通っていました。9時―5時の仕事時間、生産性の高い勤務時間でした。寮生活をしながら、仕事と勉学を両立させていました。
 彼女の後輩への指導の一コマ、勤務中後輩の電話での受け答えに、「もっと大きな声で話しなさい」と注意していました。はっきり、大きな声で受け答えしないと、答えていることが正しいか間違っているか判らないからです。
 やがて彼女は税理士資格を取得、リクルート退職後は税理士として独立、結婚、子育ても、山歩きの趣味も続けていました。現代の女性の鏡のような存在です。リクルートにはこのような人材がたくさんいました。人材を産む環境がありました。江副さんならではの、環境作りでした。
 江副さんは給与の銀行振り込みは反対でした。時代が変わり、さすがに毎月の給与の銀行振り込みは認めましたが、ボーナスだけは、現金支給にこだわっていました。その趣旨は、男子たるもの、家の主として、給与を現金手渡しで女房に渡すことが重要だという、今なら男女差別ととられかねない考えです。賞与支給日には、芝信用金庫から現金を引き出し、芝信の部屋を借りて袋詰めをしました。

 ある時資金繰り表を作っていたら、マイナスになります。どう計算しても、赤字になる。部長に報告、部長が銀行を駆け回って何とか、1億円借りることができ、乗り越えました。

事務処理の合理化に努めた経理課時代

 財務課の次は、経理課です。当時の事務処理の電算化は一部でした、試算表、バランスシートは、伝票をソロバンで集計、手組していました。1か月分の伝票を手分けして、日計表、月計表を作成、前月末残に加算減産、試算表を作っていました。この日は完成するまで残業でした。競争で楽しんで処理していました。ベテラン社員がいて、最後は彼が仕上げていました。
 経理課の仕事は増える一方でした、子会社化も進み始め、その経理もしました。やがて関連会社課、関連企業室へ成長し、私が日本中、世界中を飛び回ることになりました。別稿で書きます。
 経理課時代の事です、ベテラン営業経験者のメンバーが一言、『営業部門の業績評価、営業マンの業績評価で、利益率が高い商品を売っている人と、低い商品を売っている人の評価が、売上高評価で同じなのはおかしい、利益高で評価すべきだ・・・』と言ったのです。そこで考えたのがPC会計、プロフィットセンター会計=部門別会計の仕組みです、別稿で紹介します。後に部門別会計課へ成長しました。
 経理課時代に勉強したことがあります、税務会計です。簿記の簿の字も知らない私が、税務会計の分厚い本を読みながら、税務申告書を書いたのです。

 その理由は、江副さんが決算期変更を指示してきたからです。11月末決算を一か月決算、三か月決算、二回もして、今の3月末決算にしました。会計士の谷尾先生に相談しながら、会計全書を片手に勉強、大間違いをしながらも、修正申告をして乗り越えました。営業所が全国にありましたから、地方の申告書も含めると、30近くは書いたと思います。お蔭で税務に詳しくなりました。失敗は成功の元です。
 リクルートは、失敗は問題にしませんでした、失敗しても取り戻せば高評価をしていました。社員が成長する大きな要因です。その時知った事ですが、3か月決算は赤字です。赤字だと前年度の納付した国税が還付されたのです。地方税は戻ってきませんでした、翌年度納税額との調整でした。国税の還付金は億単位です。
 納税を手形でするよう指示されたことがあります。私は芝税務署、東京都税事務所、大阪府税事務所、愛知県県税事務所を訪問、交渉し認めさせました。経理課時代は勉強時代でした。
 何故手形で納税したのか、それは、オイルショック、ニクソンショック、ドルショックと言われ、一時的に不況の風が吹き、企業が内定取り消し、採用手控えが起きた時のことです。リクルートブック等の売り上げが落ち、時期も後ろにずれていきました。当然売上金の入金も後ろにずれ込みました。江副さんは不動産投資に積極的で、納税資金等で借りていた資金を、それに使っていましたから、資金不足が生じていたのです。

20を超える金融機関との付き合い

 経理処理、税務の仕事については、優秀な仲間が来て担当してくれましたので、私は財務課へ再度行くことになりました。
 江副さんは、銀行との付き合いに大きな関心を持ち、大事にしていました。年末年始の届け物、機会あるごとの会食など、積極的に行いました。江副さんが行くのは部長と二人で、相手は銀行トップクラスの方達でした。役員、支店長以下と対応するときは部長、私も同席、お酒が飲めない部長の代わりの飲む役割を務めました。取引のある金融機関は、銀行、生命保険、損害保険合わせると、20を超えていました。平日会食と週末のゴルフ接待、月に4~5回、年にすると数十回です。こちらが接待をすると、必ずお返しがあります。今思い出すとよく体が続いたなと思います。家庭のことなど、全く女房任せでした。

 江副さんが事業を成長、拡大していくのに資金は、絶対必要条件でした。リクルートの収益力は高く、金利負担力は十分にありました。資金は借りられるだけ借りようというのが、江副さんの方針でした。当時の銀行金利は6~7パーセントの時代です。今思うと夢のような金利です。定期預金等の利息も同様に高く、ある程度の預金をすれば、定年後は年金生活にプラスして、その預金利息で豊かに暮らせると信じていた時代です。

金融機関からの信頼を得た『営業報告書』

 経理課時代は、経理事務=伝票処理、試算表作成、税務、利益管理等、知識を習得した時代でした。そして決算時期になると、営業報告書作成という役割がありました。リクルート100ページを超える、中身の濃い営業報告書を作成していました。主な内容は各事業部門報告、特に営業部門のデーターペースの詳細な内容でした。目的は社員に会社の業績を詳細に伝えること、リクルートは情報公開100%の会社です。社員あってのリクルートです。同時に金融関係はもちろん、印刷会社等取引先に配布することも大事な目的でした。江副さんの考えです。
 この営業報告書、創業時からしばらくは、原稿全てを江副さんが作成していました。私の知らない時代です。やがて江副さんが原稿を書く余裕がなくなり、私が担当するようになりました。各部門担当役員に原稿を書かせ、それを江副さんが推敲していました。
 時期になると毎晩8時か9時ごろから、読み合わせが始まります。社長室で二人、私は黒と赤の鉛筆を持ち、江副さんが口頭で修正していくのを、記入、訂正していきました。何度も何度も行ったり来たり、「小野塚君読んでみて」と言われては、書き直していました。そのたびに原稿が読みやすくなっていきました。副詞、形容詞が削られていくのです、主語述語が、ハッキリしてきました。勉強になりました。前後の流れが繋がって行きました。何度も何度も読み返しをしながら、深夜遅くまで、こんな毎日が何日も続きました。
 江副さんが自分の考える事業展開をして行くために必要なのは資金と人材です。資金を得るために、最大限の努力を重ねていました。営業報告書の配布で重要なこと、それは銀行に配布すること、その効果は絶大でした。金融機関から信頼を得たことです。私が財務部長時代、銀行の方から営業報告書の高い評価を耳にしました。彼らがリクルートへの融資申請稟議書作成に大きな役割を果たしていたのです。

東京五輪後の不況を経て高度経済成長期に突入

 江副さんの事業展開に必要なのは、資金と人材でした。資金を得るためにはあらゆる努力をしています。昭和47年8月に最初の自社ビル・西新橋ビルを竣工しています。これを手始めに、新大阪ビル第一、第二、名古屋ビル、福岡ビル、広島ビル、大宮ビル、フロムーAビル、RCPビル、G8、G7と次々と支社、営業所、関連会社ビルを建設、取得していきました。相当の資金が必要、借入金が必要でした。金融機関から信頼を得るためには、あらゆる手段を尽くしました。そのベースになったのが営業報告書です。オリンピック後の不況、オイルショック、ニクソンショックを経て、所得三倍増方針が政府から出て、やがて高度経済成長時代へ突入、リクルートは、大きく成長していきました。

 

 

 

 受注管理課、財務課、経理課の実務を通して多くの知識を得ました。並行してプロジェクト事業、新しい仕事の開始、子会社化が進みました。江副さんの発想は止まることがありませんでした。

 部門別会計課の設立、PC会計制度の推進、部門・営業所の子会社化に沿って関連会社課を設立し経理関連業務を引き受け、鹿児島志布志有明ファーム事業、竜が森開発事業、岩手観光ホテルの経営、安比総合開発事業への参加など、経理部門はこれらすべてに関与し、私も関与しました。

部門別会計課設立、PC(プロフィットセンター)会計を推進

参考にした松下方式

 経理課時代、営業経験ありのベテラン社員の一言から考えだされた仕組みです。部門、マネージャーの業績評価を売上高から利益高に替えたのです。部、課、営業所をその単位で会社とみなし、損益計算書を作りました。売上、原価、一般管理費が課単位、部単位で集計できる仕組みを作ったのです。その結果、売上高、利益、成長性、収益率、新規獲得率等々が、課、部、営業所単位で比較評価できるようになりました。
 この仕組みを理解してもらうために、社長である部課長との勉強会を、東京はもちろん、全国の営業所に出かけて行いました。部課長が成長したことは言うまでもありません、利益に対する関心が高まりました。この仕組みづくりには見本がありました。それは松下電器、松下幸之助の経営でした。大阪まで行って勉強してきました。

てんやわんやの発表会場

 私の優秀な部下、仲間達が、売上高、利益高、成長率等々、結果を整理・グラフ化し、目で見て業績の良し悪しが分かり、比較できるようにしました。それを、毎年決算が終わると、全社決算マネージャー会議で結果を発表するのです。会議は泊まりがけで、ホテル等で行いました。第一回は、箱根の富士屋ホテルだったと記憶しています。大広間のステージに上がり、分析を数時間かけて報告し、各課、各部を評価したのです。初めての事です。
 私は喋るのが苦手で、心臓をドキドキさせながら、喋った記憶があります。途中からコントロールが利かなくなり、私が知っていることを、良いも悪いも、PCの内情をべらべらしゃべり始めたのです。会場は笑いと、掛け声で一杯になりました。2時間たっぷりです。最後に優秀課長、部長を発表、表彰、多額の表彰金が出ました。会議が終わって、夜の宴会時、大変だった記憶があります。喜ぶマネージャー、怒るマネージャー、私のそばに来て、なんだかんだ言っていくのです。当時私は、今で言う花粉症で苦しんでいました。アルコールも入って、頭の中はメチャクチャでした。
 この仕事『PC会計』を私は3年間続け、決算部課長会で講評、優秀経営者を発表しました。江副さんはどう見ていたか。「喜んで、楽しんでいた」のではないかと思います。僕の尻を叩いて、励ましていました。一方のとある営業担当取締役は、『小野塚君、夜暗い道を歩くときは注意しろ』と私に言いました。若い課長が、部門、マネージャーの評価を好き勝手に喋っていたのですから、怒りたくなるのも当たり前です。しかし優秀な社員が多いリクルート、あっという間にこの制度・仕組みは効果を発揮し、会社の業績は上がって行きました。
 この仕組みを作りあげたのは、優秀な部下、仲間でした。5~6人の課員が、時期になると毎晩深夜近くまで分析をまとめ、発表スタイルを考えていました。リクルートで現役の30年間、私は常に優秀な部下、仲間に支えられて仕事をすることができました。その最初の仕事がPC会計でした。
 この仕組みの評価基準検討会は、江副さんを入れて行いました。江副さん何かと言っていた記憶があります。その中の一つ、提案した事項があります。この仕組み、PC収支全てを合計すると、リクルートの営業収支と一致するのです。PC単位の利益額は、相当な額になります。そのまま表示したのでは、各PC長は自信過剰になります。江副さんの事業拡大、不動産投資に利益は欠かせません、PCから本社費という名目で、負担させることにしたのです。その率は江副さんが決めました。その結果、決算部課長会で発表する数字は、適正?なものになりました。
 部門別会計課は私の後、二代目、三代目と続きましたが、部門評価の役割が終わった時点で解散しました。

関連会社課設立、のちに関連企業室に昇格

分社化30数社の経理事務を一括管理

 私は昭和56年(1981年)、36歳の時に「関連会社課」を作っています、「部門別会計課」と兼務。5年後の昭和61年、41歳の時に「関連会社室」を経て「関連企業室」へと名称を変更、昇格させています。最初財務部と兼務でしたが、関連企業室に名称変更したとき、専任になりました。江副さんがリクルートを分社化させて行った流れです。
 何故分社化したのか、江副さんから何らかの説明があったと思いますが、覚えていません。先に作ったPC会計、会社の中を部単位、課単位に会社とみなして管理する仕組みを作った流れからすると、事業ごとに会社を分けていくという発想は、元々持っていたのだと思います。分社化させた会社の経理事務は、関連企業室で一手に引き受けました。全国の営業所を販売会社化したものも含めると、30社を超えていたと思います。大規模な不動産会社コスモスとノンバンク・FFだけは別で、経理、財務業務は関与しませんでした。人間関係は繋がっていました。
 最初がリクルートコンピュータープリントです。リクルートは紙と鉛筆で事業する会社です、メーン商品はリクルートブックです、写植打ち、原稿整理が重要で、リクルートの工場でした。採用テスト・研修事業、中途採用情報誌事業、アルバイト情報誌事業、映像研修事業、人材斡旋事業、派遣事業、旅行事業、竜が森開発、やがて大阪と名古屋支社を除く全国の営業所を順次販売代理店化していきました。
 設立登記の際、全ての会社で私が監査役になりました。戸籍謄本を取るのが大変でした、本籍は北海道虻田郡倶知安町でした。父から八王子に移すように言われ、今は八王子市椚田町です。会社は、アメリカ、イギリスにも作りました、ニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドンです。最終的に会社数は30社を超えていたと思います。月次決算、期末決算、資金手当て等一手に引き受けていました。

 当初経理部には、財務課、経理課、受注管理課がありました。私は受注管理課、財務課、経理課と移動し、部門別会計課、関連会社課を設立兼務、経理部次長で、財務課と関連会社課を兼務していました。成長したリクルートは、経理部を、経理部、財務部、販売管理部そして関連企業室に分けました。同時に私は関連企業室長専任になり、私が最も自由に動き回った時代でした。国内、海外を歩き回りました。

関連会社報『グループネットワーク』を発行

 リクルート社内報『カモメ』と競争できる内容の関連会社報『グループネットワーク』、月次決算マンスリーレポート「MAPS」を発行しました。ここに一冊の本があります。小野塚満郎の企業探訪・三十番勝負です。毎月出す関連会社報に私のトップインタビューを掲載した総集編です。MAPSは、会社トップへの月次決算報告です。メンバーにコメントも書くようにさせました。メンバーは30人以上いたと思います。一人が一社を担当、経理事務統括、損益計算書作成、貸借対照表を作成し、見させていました。入社してすぐの人にも担当させました。彼らの成長は著しいものがあり、関連企業室は経理全般の人材の宝庫でした。

リクルートコスモスとファーストファイナンスの興亡

 最大の子会社は、リクルート事件の引き金となったマンション販売の不動産子会社コスモス。当初は環境開発という名称で、総務部の中で事業を始めていました、江副さんの手元の、総務のメンバーで事業をしていました。のちに休眠会社を利用し会社としてスタート、その後にリクルートコスモスに社名変更しました。江副さんは、不動産が好きでした。大きな資金が動き、利益も大きい物でした。江副さんは『でかいこと』が好きだったと思います。
 一方で、不動産取引は目利きが重要なことも知っていました。土地の価値を評価、予測することです。江副さんを見習う人がいました。港区の大手不動産会社森ビルの創業者です。学者から不動産事業経営者になられた方です。リクルート創業の場所、それは第一森ビルの屋上の小屋でした。
 関連企業室が経理事務等関与しなかった会社が二つ、リクルートコスモスとファーストファイナンス(FF)です。規模と事業内容から、私の関与する会社ではありませんでした。バブル時代の不動産事業は、目利きも不動産知識も必要ではありませんでした。資金は銀行から湯水のように流れ込んでいました。不動産は買ったもん勝ちの世界でした。江副さんは裁判中の身であり、直接経営への参加はできませんでした。コスモスはバブルの世界へ突き進んでいきました。
 もう一つ大きな会社、FFはノンバンク事業。銀行でない銀行です。親しくなっていた銀行の方を迎えて、社長になっていただきました。この会社の設立理由として、江副さんの言い分は、『銀座の女性たち、収入はあるのに、銀行ローンが借りられない、そういう女性たちがマンションを購入する際の資金を貸す』でした。コスモスのマンション販売に役立てるための『ノンバンク=銀行』だと。江副さんの真の目的は、今ではもはや確認できません。コスモスに続き、株式を上場させる計画もありました。リクルート事件、バブル崩壊で計画は挫折しました。
 FFの銀行からの借入金は、バブル崩壊時点で七千億円ありました。コスモスがマンション販売用用地取得のための、資金調達が必要だったのです。さらにこの会社は、コスモス用だけでなく、いわゆる独自のノンバンク事業を、拡大していました。この二社を合わせた、バブル崩壊による負債一兆円をリクルートが肩代わりする、その返済計画作成プロジェクトが作られました、第四章で書きます。
 関連会社の役員人事では、江副さんの思いが働いていました。仕事ができる人、人望がある人でも、社長にしないケースがいくつかあったのです。しかし、その方達は全く気にしないで、実質、会社トップの立場を維持、会社運営をされていました。江副さんの性格を知り抜いている方達でした。名目社長になった方、口を出すようなことはありませんでした。

鹿児島志布志有明ファ-ム事業

 江副さんは、昭和47年鹿児島県志布志にリクルートファームを開園しています。私がリクルートに入社して3年目です。ファーム開園の目的は、日本に大災害が起こり、食べ物に困った時に、『リクルートの社員が生活していけるように』と言っていました。『日本列島沈没』という本が出版、話題になっている時でした。
 江副さんの好きな研修、ファーム研修が始まりました、社員が部単位で泊まりがけで行き、畑を耕し、牛の世話をする研修です。志布志は遠い所でした。東海道線、山陽線、日豊線、一日かけて行く場所でした。飛行機を使った部もあったと記憶があります。ファームの責任者は、社員から募集、希望者の中から選ばれた人でした。彼は学生時代から牧場、農園に関心があったと聞いています。経理は財務の高卒の女子社員が一人で担当していました。土地を買い足し徐々に広くしていきました。年末になると、牛一頭をつぶして、その肉を社内販売していました、おいしい肉だったの覚えています。わが家の年末はご馳走でした、良き時代、良き思い出です。私がこの研修に参加したのは営業マンを3年半経過した時でした。忘れもしない10月31日、研修が終わり東京へ戻って出社すると、営業部長から『小野塚君、明日から経理に行ってもらう』と、言われた日でした。
 このファームは、のちに閉鎖することになりました、オイルショックの影響です。石油不足を解消するために、宮崎県志布志湾に石油貯蔵基地を作ることになったのです。これが背景となり、志布志近辺の土地の値段が高くなり、農園拡大が不可能になったというのが、江副さんの言っていたことでした。真の理由は、東京から遠すぎたという理由だと思います。部下と二人で、会社清算処理のため出張、クローズして、霧島温泉で一泊して帰ってきました。
 リクルートには、このようなプロジェクトを提案する人がいました。創業時の社員の一人で、全国を歩き回り、役所を訪ね、面白い話を聞いては江副さんに報告していました。志布志は彼が実現した最初の開発物件でした。その人は、リクルートの資金が無かったころ、リクルートブックの配布の際、本を東京駅で東海道線の夜行列車の普通席の荷台に積み込み、人は誰も乗らずに荷物だけ運ばせ、大阪駅で社員を待機させ、持ち出させて大学へ持ち込んでいた話は有名です。
 彼が次に見つけてきたのが、岩手県の山奥、花輪線(盛岡から秋田方面へ)竜が森駅周辺の開発の話でした。

竜が森開発事業、のちに安比高原開発事業と合流

 私が入社した5年目の昭和49年(1974年)、江副さんは岩手県の山奥、花輪線の竜が森駅周辺の原野開発事業に手をつけました。名称はREC・レック事業です。RECとは、レクレーション・エデュケーション・センター、遊びと研修を兼ねた施設の開発でした。江副さんは当初ここをROD研修の場所として開発すると言っていました。江副さんは、新規事業に着手するときは必ず何らかの目的を社員に告げました。岩手県の山奥、日本海と太平洋の中間地点、花輪線で雪が一番積もる地域、積雪数メートルと聞いていました。都会から遠く離れ、心静かに研修をする場所として適切だと言いました。後の安比高原スキー場開発につながる、壮大な地域開発事業に成長するとは、想像もできませんでした。
 竜が森を探してきたのは、先に紹介した方です、リクルート創業の頃からアイディアマンでした。彼が全国各地を歩き回り、聞きこんできたエリアでした。まだバブル時期ではありませんが、商社系の不動産会社が入り込んでいました。幸いこの商社は、政界がらみの事件、ロッキード事件に巻き込まれ、撤退せざるを得ませんでした。
 順番は回ってきましたが、相手は岩手の山奥の牧場・平舘牧野協同組合、簡単にはゆきません。江副さんは週末になると岩手に向かい、関係者と親しくなることに力を注ぎました。飲めない酒を飲み、付き合いました。その甲斐あって、牧場を50年の借款契約で借りることができました。竜が森、(後に安比に地名変更、決めたのは伝説の人です)は、江副さんの故郷になりました。最初に建てたのは、数棟のログハウスです。ここに泊まって研修をしたのです、自炊でした。実際に研修をしました。
 やがて、土地の中央に大きな建物を建て、研修センターとして使用しました。竜が森にはスキー場があり、冬はスキーが楽しめました。当時私はスキーなどしたことがなく、無縁の施設でした。一回だけ試しに滑りました。今ではどこにも無い、回っているロープにタイミングよく捉まり、上にあがって行きました。何度も失敗した記憶があります。その一回目のスキーでは、正に直下降、下の広場に顔から突っ込んで止まりました。よく骨を折らなかったものだと思います。ここでは二度と滑りませんでした。安比スキー場へは通いました。こぶ斜面以外は何処でも滑れるようになりました。
 研修施設と並行して作ったのが、なんとゴルフ場でした。岩手の山奥の、誰も来そうにない土地にゴルフ場を作ったのです。最初は18ホール、18ホール追加して36ホールのゴルフ場です。ホール途中に小川があり、イワナやヤマメを見ることができました。このゴルフ場作りに社員も参加しました。中国の文化革命ではありませんが、社員みな研修の名のもとに労働に出かけたのでした。内定者も連れて行きました。銀行関係者も見学に招待しました(江副さんは金融機関には気を使っていました、銀行接待に上限はありませんでした)。まだ新幹線が通ってない頃です。上野発の夜行列車に乗り、早朝盛岡駅に着きました。竜が森のロッジに泊まり、地元のおばさんに料理を作ってもらい、まだ建設中のゴルフ場で試し打ちをして遊びました。夜は満天の星、素晴らしい経験をさせてもらいました。ちなみに同行したのは私を経理に呼んだ人、お酒が飲めない人でした。 
 余談ですが、リクルートの財務担当には、大番頭、中番頭、小番頭の三人がいました。私を呼んだ人が大番頭、中番頭は私にいつも気を使ってくれる方でした、で私は小番頭でした。竜が森に銀行団を連れて行くのは、大番頭、中番頭の仕事でした。銀行と親しくなる、関係が良くなったのは言うまでもありません。

岩手県観光ホテルの経営引き受け

 竜が森で開発事業をしているリクルート、江副さんに関心を持ち、依頼ごとをしてきた方がいます、当時の岩手県知事です。『岩手県観光ホテル』の経営を引き受けてほしいという依頼でした。江副さんのホテル事業展開のきっかけです。岩手県で開催された国民総合体育大会、いわゆる国体に来臨される、天皇陛下ご夫妻をお迎えするために作られたホテルです。国体が終わって数年で、経営が苦しくなっていったそうです。
 私はこのホテル経営に経理面で関与しました。昭和52年(1977年)、私が32歳の時です。月1回、上野発の夜行列車、列車名は忘れましたが白鶴?かな、夜11時05分発です。それまで新橋で部下を付き合わせ、時間を調整して上野へ、夜行寝台列車のゴトゴトという音を聞きながら盛岡へ向かいました。盛岡駅に着くのは早朝6時ごろ、駅前の旅館食堂で朝食を済ませ、ホテルへ向かい、ホテルの経理相談に乗っていました。竜が森開発・研修事業構想に始まり、ゴルフ場、ホテル経営と、岩手県、盛岡市、平舘、松尾村、安代町への関わりは深くなっていきました。私は竜が森開発の1974年から江副さんが亡くなる2013年まで40年間、岩手県盛岡市、安比地区に通うことになりました。
  半官半民の『泊めてやる』感覚のお上経営のホテルでした。ホテル経営に派遣されたのが、一人の社員、一癖二癖三癖ある(私の博多での結婚式、入社二年目の私の結婚式に、部長課長先輩の三人と彼が出席していました、福岡営業所の所長でした)やり手の社員。彼は、岩手県、安比地区のボスと言われるまで登りつめました。ホテル経営に全身全霊をかけ、数年で黒字経営にし、別館を建てるなどして、軌道に乗せました。ホテル経営の基本は、客を呼ぶこと、彼は宴会企画にアイディアを出していました。宴会の幹事に宴会主役の友人を立たせる、友人が動いて人数を集めさせる、この手法を用いて、宴会獲得件数を増やしていったのです。やがて竜が森地区の開発にも関与するようになり、その影響力はとどまることを知りませんでした。
 彼の悪い評判が、社内の一部の人間から私に届くようになりました。私は隠密裏にヒヤリングをし、金銭に係る疑いを持ちました。経営に貢献している彼ですし、江副さんが重用している人材の一人です。彼とホテルの一室で面談し、忠告したことがあります。後に江副さんが株をダイエーに売却して、ダイエーとの関係が深まった時期、福岡の野球チームダイエーホークスの経営に関与しましたが、そこで事件を起こし、リクルートから身を引きました。江副さんはこの様な人材を生かし、リクルートを多角的に経営していくことを楽しんでいました。

安比高原開発事業参加

 竜が森開発と並行して、江副さんは周辺の土地購入を進めていました。有限会社を設立、社員を農家に変身させ住まわせ牛を育てながら、周辺の土地を買っていったのです。江副さんの土地に対する関心は高いものでした。この会社が後に細野高原牧場となり、安比スキー場と並行して、存在価値のある会社へ変身していきました。この時期に江副さんのところに持ち込まれた話が、林野庁の『国有林有効開発事業』でした、日本全国にある国有林を何らかの形で、第三セクターで開発しないかという話です。この話も伝説の人が持ち込んできました。
 竜が森から国道を隔てて向かい側に広大な国有林、前森山がありました。そのさらに森の裏手には、ブナ林、広大な牧場が広がっていました。この山、前森山の開発、スキー場づくりの話です 昭和55年(1980年)、35歳の時、安比総合開発を設立、私は監査役へ就任しました。安比スキー場開発の始まりです。開発の条件は第三セクターですが、リクルート主導、江副さん主導の会社でした。リクルートの他には、松尾村、安代町、岩手県北バス、金融機関が参加しました。江副さんは本腰を入れて取り組みました。
 ホテルのデザイン設計は、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の初代会長で、1964年東京オリンピックのポスターデザインで名高い亀倉雄策先生です。

 亀倉先生にはリクルートの創業時からお世話になっています、カモメマークの社章デザインも亀倉先生です、スキーも大好きで、安比スキー場には、時間の余裕があれば行っておられました。その滑りはゆったりと大きく、広いゲレンデ端から端へ大きく流れるような滑りです、見事でした。82歳まで滑っておられました。しかし安比スキー場Tバーリフトを降りて、オオタカコースへ出た時、こぶ斜面に板を取られて転倒、頭を打たれ、しばらくしてお亡くなりになりました。江副さんは、大事な方を失いました。江副さんに唯一苦言を呈することができる方でした。私のめじろ台の部屋に、先生が書いた野鳥の額が残っています。
 安比スキー場の広さは日本一と言ってもいいくらいの広さです。コースは30前後、ホテルから見て正面の白樺ゲレンデ、左手の南斜面は、オリンピック金メダリストのトニーザイラーにコース設計を依頼しました、ザイラーコースです。

◆ザイラーゴンドラ

 右手は前森山から西森山を経てホテルまで、初心者コースのロングコース。竜が森開発事業からこの安比スキー場開発に至るまで、江副さんの岩手県盛岡地区へ注ぎ込むエネルギーは、底なしでした。竜が森研修施設、竜が森ゴルフ場、細野高原牧場、岩手県観光ホテル、リクルート・コンピューター・プリント盛岡、二番目のゴルフ場メープルカントリークラブ、そして安比総合開発=安比スキー場の開発です。安比地区担当役員を決め、常駐させていました。開発当初から、社員を何かにつけて行かせていました。内定者研修は例年のプログラムになりました。総務、人事部は大変だったと思います。竜が森は何もない所です。花輪線竜が森駅二つ手前の平舘町の旅館を借り切り、そこを常駐場所にして、通わせていました。夏にはテントを張り、お風呂はドラム缶でした。たまに車で行く温泉は、何よりのご褒美でした。
 江副さんがリクルートの株式をダイエーに売却した時、中内さんに一つだけ条件を入れました。それは、安比地区の経営に、ダイエーは口を出さない、江副が経営判断を続けるという条件でした。そのことを記した用紙を常に持ち、何かの時に持ち出していました。安比地区の社員、関係者もその条件を聞き、喜んでいました。しかし裁判中の身です、表に出て行動する訳にはいきません。あくまでも、影の経営者の立場でした。第三セクターですから、役員会が毎月開かれます。出席ができません。位田さんが出席、意思決定していました。私はいつも秘書役で付いていきましたが、楽しくありませんでした。安比地区のマネージャー、関係者諸氏は江副さんが安比地区を買い取って欲しい、真の経営者になって欲しいと願っていましたが、江副さんは応えませんでした。江副さんにとって安比は故郷、自分の自由になるエリアでしたが、経営者として参加することはありませんでした。リクルート株式を売った後は、リクルートへの経営には関係しませんでした。自分で不動産会社を設立、マンション分譲、運用マンション開発事業に力を注いでいました。私はリクルートの財務部長としての責務を終わったあと、数年間この江副さんの会社をサポートしました。苛めの対象が私に向かうまで。

安比への想いがあふれた城山ヒルズ会議

 江副さんのリクルート株売却が決まり、決済が終わった後の1992年7月25日、大沢さんの会社が入っていた城山ヒルズビルで、江副さんの声かけで、江副、大沢、位田、奥住、亀倉会議が開かれました。目的は、安比経営に関して江副さんの関与を認めて欲しい、ダイエーの中内さんが了承した覚書はあるので、リクルート役員会で承認して欲しいという内容でした。私の手書きの議事録が残っています。それによると、位田さんは「中内さんが出席する会議、どんな結論になるか分からない、難しい」と。江副さんは、「位田さんの意思が重要だ」と。大沢さんは「安比地区の経営方針を決める必要がある」と。亀倉先生は、「中内さんの考えを聞く必要がある」と。奥住さんは「この問題は、中内さんが入ったリクルート役員会で決めるべきこと、江副さんが決めることではない」と発言。江副さんからは「安比地区の経営に再投資が必要、お願いしたい」との発言があり、安比地区への熱い思いが語られた会議でした。
 後に安比地区は第三者へ売却、江副さんが経営に関与する、リクルートが再投資することはありませんでした。江副さんは安比へ通い続けました。年末年始はもちろん、スキーシーズンは天気予報を確認しながら通いました。安比地区は、江副さんの故郷です。平成25年1月、その安比からの帰途、東京駅で倒れて帰らぬ人となったのでした。

 

 

 

突然の雷鳴のように

 1988年6月、朝日新聞による「リクルートコスモス」未公開株譲渡報道を機に、「リクルート事件」は広く社会に知られることになりました。1991年にはマンション不況の報道が増加、そしてバブル崩壊、1992年には江副さんがダイエーへ株式を譲渡、さらに1993年には1兆6千億円の返済計画・銀行交渉がスタート・・・。この一連の流れが、リクルートにとって最大の危機の年月でした。そして課題解決担当の私にとっては、最後の任務になりました。
 リクルート事件でリクルート会長職を辞め、裁判を控え、多額の借入金があった江副さんの置かれた環境、江副さんを受け継いだ位田社長、この二人の間にあり、長年グループ会社の資金調達を担ってきた財務担当の奥住専務、この三者の考えが一致することはなく、結果として江副さんの考えが実行され、ダイエーへのリクルート株譲渡・業務提携が行われ、リクルートは自主再建の道を進むことになりました。
 決まって以後のリクルートの対応はスピーディーでした。リクルート事件の報道が騒がしく、裁判関係者は大変でしたが、リクルートの業績に影響はありませんでした。社名は全国区になり好業績が続きました。江副さんは裁判に専念、リクルートとの関係は希薄になっていきました。位田さんは、リクルートグループ全体の経営に力を発揮され、奥住さんはリクルートグループの財務担当専務として動かれました。私は、この三者の間を駆け回り、1兆6千億円返済プログラム作成に専念しました。1996年3月プログラムが完成、銀行との協定書調印完了、交渉することは無くなり、不動産売却したお金とリクルートの収益をもって、淡々と返済していくだけになり、私のリクルートでの課題解決役割も終了しました。
 事件報道から協定書調印完了までの6年間の中でも特に、1991年から1992年5月までの1年間、バブル崩壊が始まるころから江副さんリクルート株売却までの1年間は、リクルート11階会議室での会議は揺れに揺れました。コスモス、FF両社の負債を抱えての再建策議論、江副さんの不動産市況レポート、経営立て直しレポート、他にもレポートを沢山提出、そして「銀行交渉には私に代わる人物が必要」と株式譲渡先にダイエー、中内さんと交渉を独自に進めました。
 位田さんは自主再建論を主張、奥住さんは間に挟まり、苦悩の日々が続き途中で姿を消してしまいました。会議議事録にこの間のことが詳細に記録されています。
 当時の状況として、1兆円の負債を肩代りして、本体合わせて1兆6千億円の借入金返済は、容易なことではないと誰もが思っていました。しかしリクルート経理部、財務部担当者間では、リクルートの収益をもってすれば、年数をかければ不可能ではないと考えていました。

リクルート事件

■リクルート事件  1980年代、情報サービス会社リクルートが政界、官界、財界の要人に、子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡、贈賄罪に問われた事件。贈賄側、収賄側合せて12人が起訴され、いずれも執行猶予付きの有罪判決が確定した。江副浩正リクルート元会長の公判には100人以上が出廷し、13年3カ月を要した。

※ブリタニカ国際大百科事典他を要約

事件発生から判決まで15年間の克明な記録

 ここに一冊の本があります。『リクルート事件・江副浩正の真実』、表紙を開けると、謹呈:小野塚満郎様、平成21年10月21日、江副浩正と書かれています。113日間の拘留期間中に江副さんが記したもので、裁判中にも書き続け、裁判が終了して、数年後に出版した本です。
 出版を反対する人もいました。江副さんは執筆完了後4年後に出版しました。自分の思いを、なんとしても伝えたい、自分の一方的言い分もあるかも知れないがと言いながら書いています。
 本の内容は、未公開株譲渡から起訴に至った経緯、起訴後の取り調べのようす、そして裁判開始から判決までの15年間の記録、記憶が詳細に書かれています。目次を紹介します。

1) 

1突然の報道、2朝日新聞の”打ち方始まり“、3半蔵門病院へ入院、4赤報隊の自宅への襲撃、5国会承認詰問、6加熱する報道、7政治献金、8安倍晋太郎先生との出会い、9創政会との出会い、10政治家と交わりを深めた失敗

2) 

1特捜の取り調べ、2新聞報道による取り調べ、3墓を予約、4悪魔の証明、5女性問題、6検事がどなる、7膠着状態、8取り調べから55日目の逮捕

3) 

1拘置所での取り調べ、2カンカン踊り、3逮捕直後の検事態度一変、4社員の逮捕、5パソコン問題、6拘置延長

4) 

1現代の拷問、2壁に向かって立たされる、3拘置所の生活、にらめっこ、4検事作成の調書にサイン、5再逮捕、6宗像検事現れる、7土下座させられる、8特捜とメディア、9長期拘留か保釈か、10ぼかした調書、11再再逮捕、12折衷的調書、13法律上の罪と倫理上の罪の混同

5) 

1保釈後のこと、2特捜は3800人を聴取、3いったい何が起きたのだ、3逮捕直後の報道、4拘禁反応鬱状態、5参院選で自民党惨敗、6弁護団結成、7ロッキード事件・伊藤宏さんの教訓、8公判前合宿

6) 

1裁判、2政界ルート、3労働省ルート、4NTTルート、5文部省ルート、6調書の信用性

 そして論告求刑・最終弁論・判決、10人の情状証人と219人の上申書、求刑懲役4年、判決懲役3年・執行猶予5年、検察側は控訴せず裁判は終了しました。

一見無罪ともとれる判決文

 1988年12月、江副さんの取り調べ開始に始まり、1989年2月1回目の逮捕、3月6日2回目の逮捕、3月28日に3回目の逮捕、6月6日保釈、12月公判開始、2003年3月判決・懲役3年執行猶予5年。13年半という長期にわたる裁判でした。この間、関係者の裁判全てが有罪、執行猶予付きの判決でした。
 判決の要旨に、「株式を譲渡した相手方として政界、官界、財界と多岐に渡っている、人数の多さ、地位の高さ、職務権限の大きさ、事件の重大性は高く、国民の信頼を損ねる結果を招いた社会的影響は大きい」とあります。
 一方「当時政官界に対する接待や贈答は、社会的規範を著しく逸脱しているとは考えられていなかった」「未公開株式の譲渡は接待などの利益供与の一環で、当然のように受け入れていた、収賄側にも問題がある」「本件各贈賄行為により、収賄側が違法不当な職務行為に及んだという事情もなく、職務の公正が現実に害されたり、政治、行政がゆがめられたりはしなかった」「就職協定の存続、順守は社会の強い要請であり、公益に合致するものであったから、リクルートの利益になる行為であったにしても、それ自体としては、違法不当な施策を行わせるものではなく、行政の公正などを害するようなものではなく、むしろ国の正当にかなったものであった」と、一見無罪のような趣旨でした。

寛大な処分を求める上申書

 長い要旨の後半では、「社会福祉法人、社会各種分野で若手育成に寄与」「公職をすべて辞め、リクルート株も大部分を譲渡した」「本件とかかわりないことでも、マスコミ等により社会的制裁も受け」「14年近くの長期に被告人の立場にいたことは必ずしも当人だけの責任ではない」「様々な分野の方から、江副さんの人格、識見、その業績を高く評価され寛大な処分の上申書等がたくさん提出されている」とあり、執行を猶予するのが相当であると判断するとありました。
 最後に江副さんは「日本の司法制度は、諸外国でも稀な密室での取り調べによる検事作成の調書に重きを置き、調書の中の有罪になる部分だけが開示される。その結果有罪率は99,8パーセント前後に達する。裁判員制度を導入しても、こうした状況が変わらなければ公正な裁判にはならない。司法制度を改めてほしいという強い気持ちを私は抱いている」と書いています。

企業の新卒採用情報をオープンにした江副さんの先見

 「リクルート事件」について、ここで私の見解を書いておこうと思います。それは、リクルートと新聞社との間の当時の関係です。
 1960年、学生たちがまだ自由に就職先を選べなかった時代に、東京の小さなビルの屋上プレハブからリクルートはスタートしました。1962年には大学生向け就職情報誌『企業への招待=のちのリクルートブック』を創刊。当時ゼミの教授による紹介など限られた手段でしか就職先を選ぶことが出来なかった学生に無料で配布しました。そして、最初は大学生向けだった『企業への招待』の対象を高校生に拡大、さらに中途採用情報誌、アルバイト情報誌、女性向け情報誌、自衛隊員向け、専門学校向け、高校生向け進学情報誌、住宅情報誌、旅行情報誌、自動車情報誌カーセンサー、結婚情報誌、エリア単位のアルバイト情報誌へと、就職情報に止まらず情報の内容そのものも領域を拡げていったのです。まさに「まだ、ここにない、出会い」の創造でした。

大新聞に睨まれたリクルート

 リクルートがこれらの広告情報誌を出す以前、人々が情報を得るのは一般新聞紙上の広告掲載が全てでした。しかし、専門情報誌と新聞掲載の広告とでは、情報の質量は格段に違います。専門情報誌の方がコストは安くて大きな効果を上げることができるのです。新聞社の広告売り上げが落ちていくのは、当然のなりゆきでした。リクルートおよび江副さんは、新聞社から目の敵にされるようになりました。
 並行して、営業力にも差がありました。良い例が住宅情報誌です。リクルートの住宅情報誌に対抗して読売新聞が同様の住宅情報誌を出版しましたが、数年で撤退しました。最大の敗因は、読売新聞は広告掲載営業を新聞販売代理店に任せたことです。代理店はスペース販売です。一方リクルートの営業マンは、ディベロッパーのマンション販売企画の担当者と同じ立場に立ち、土地取得から販売企画に至るまで、一貫して協力していました。顧客から寄せられる信用や期待の差は明らかでした。
 リクルートによる専門情報誌の出版事業が、新聞社にとって目の上のたんこぶになったことは、容易に想像できます。新聞社内部で『リクルートを叩け』は、重要なテーマになったのではないでしょうか。特に社会部では徹底的に議論されていたのではないかと思います。リクルート事件当時の新聞の記事、見出しを見れば明らかです。リクルートという文字と、贈収賄という文字、江副さんの顔写真を執拗なまでに掲載する、その"叩き方"は尋常ではありませんでした。

裁判所で作られる調書という名の"台本"

 一方東京地検特捜部ですが、私も何回か検事に呼ばれ調書にハンコを押すよう言われました。もう出来上がっている調書です。こちらの言うことは聞いていません。検事が作った調書に捺印させるのです。裁判にも証人として出廷しました。私が何か言おうとすると、検事は余計なことは言うな、私の問いに答えるだけでいいと。法廷はできあがっている台本を、読んで演じているだけの場でした。
 当時地検特捜部は大きな事件がなく、事件が欲しい状況だったと思います。マスコミで騒がれている、これは事件になる、事件にしようで、地検内部は盛り上がったと思われます。時を経ての朝日新聞記事捏造事件、地検証拠捏造事件を見れば、新聞社、地検特捜部の実態はそんなもんだったのでしょう。地検特捜部とマスコミの癒着、暗黙の癒着が想像できます。
 検事を辞め弁護士になった方が、リクルートに来て、地検特捜部の取り調べなどに対する対応の仕方を指導していきました。リクルート事件の担当検事の一人が後に江副さんと親しくなり、江副さんに「私が弁護士だったら江副さんを無罪にできたかも知れません」と言っていました。朝日新聞社会部、地検特捜部という閉鎖した社会で仕事をしている人たちは、特殊世界の価値観で特殊なルールに従って働いている、特殊な人たちと思わざるを得ません。

バブル崩壊

小野塚君、暗雲が近づいているよ

 手元に一枚の写真があります。73人が写っています。1990年(平成2年)6月の日付。安比サミット会議、私の関連企業室が事務局でした。リクルートの役員、関連会社の役員全員が安比に集合、各社の経営状況を報告し、三ケ年計画を発表する会議です。安比ホテルの「竜が森」が会場です。
 この会議ですが、実は終わったあとの宴会、自由時間が重要な情報交換の場でした。リクルート内の情報を共有し、「社員皆経営者主義」の実践を確認する場になりました。リクルートコスモス、FFの役員も参加していました。
 その宴会会場でのことです。ノンバンク=ファーストファイナンス(以後FFと表示)の社長(金融機関出身)が、私の傍らに来て『小野塚君、暗雲が近づいているよ』と囁いたのです。最初はピンときませんでした。バブル崩壊の前兆が来ていたのです。
 1990年(平成2年)といえば私が45歳の時、財務部長に戻ってくれと奥住さんから要請があった年、関連企業室長専任だった時のことです。当時リクルートは、国内は北海道から九州、海外でもニューヨーク、ロスアンゼルス、ロンドンに子会社を持っていて、私は国内はもちろん、海外にも出張し、関連企業室長として自由に飛び回っていました。しかし、財務部長に戻る背景は薄々感じ取ることができました。

 コスモスの役員が頻繁にリクルートの経理部門の部屋に来て、奥住さんと応接室で話し込んでいました、不動産市況が悪化している、含み損が出ている・・・という話だったのでしょう。バブル崩壊が始まっていたのです。当時財務は、中途採用できた人が担当役員、財務部長は私の部下が務めていました。奥住さん曰く「子会社に相当な額の損失が発生している、銀行交渉が大変になる、小野塚君やってくれ」、とのことでした。

1兆5千億円を超える借入金

 江副さんは、バブル崩壊が来る前までは、自分の裁判対策で手一杯でした。しかし、バブル崩壊が予想されることで、自分の立場を考慮しつつ、リクルートグループのバブル対応にかかわらざるを得ませんでした。リクルートとコスモス、FF三社で借入金合計が一兆五千億円を超えていました。銀行対応に戦略戦術が必要でした。
 江副さんの考えは、『自分は社内会議には出るが、銀行交渉に出ることはできない、僕に代わるバックアップになる人物が必要だ』でした。強力に主張されていました。これを実現するための会議が頻繁に開かれるようになりました。江副さんと三社社長と亀倉さんの小人数会議、やがてRGS会議へ。私の役割は、これらの会議の事務局でした。G8ビル11階の会議室フロア、一部屋を事務局部屋として利用し、何人かの部下をメンバーに入れて対応しました。
 最高経営会議の議題は、江副さんがリクルート株を第三者へ売却することのへの議論でした。江副さんが複数の人物、会社を提示、出席者は聞く一方、大半が反対意見です。対立が続きました。新聞記事の論調は、バブル崩壊が始まり、不動産会社、ノンバンクの不良債権が増大している・・・と、日を追って切迫したものになっていきました。結論が出るまでの1年間、11階会議室フロアの事務局で過ごしました。

「かもめが 翔んだ日」出版

■かもめが翔んだ日  江副浩正著 2003年 朝日新聞社  クルートコスモス株問題が大きく報道され、私は昭和63年、リクルートの会長を退任した。52歳だった。報道は半年以上続き、平成元年、私は逮捕された。 ~~略~~ 裁判は、当時日本の裁判史上最長の、1審13年半の長きに及んだ。そして平成15年、判決が下った。懲役3年、執行猶予5年、刑が確定した。かつての私はいつも未来を見つめ、働くことが生き甲斐で喜びとなっていて、過去を振り返ることはなかった。歳月は足早に過ぎ去って、私ははや67歳。昨今は来し方を振り返る時間が増えた。記憶が失われないうちに回顧録を書くことにした。  ※かもめが翔んだ日「はじめに」を要約。

 本書も前に書いた『リクルート事件・江副浩正の真実』同様、江副さんから贈呈された本です。表紙を開けると、江副さんの直筆で「小野塚満郎様、2003年(平成15年)10月11日、江副浩正 私の回顧録です、その節はお世話になりました」と書かれています。
 本書は三章で構成され、第一章で江副さんは自らの生い立ちを紹介。第二章では、23歳で創業し、事件で辞めるまでの29年間の歩みを「リクルートと私」としてまとめています。そして第三章では、ダイエーへの株譲渡の経緯を詳細に綴っています。
 ここでは、第二章「リクルートと私」に書かれた幾つかのエピソードをピックアップし、リクルート創生期の江副さん奮闘の日々をふり返ります。

東大新聞の広告セールスで年収60万円

 昭和33年(大学2年)6月、アルバイト委員会の掲示板を見ていて、江副さんは「月収1万円/東京大学学生新聞会」の掲示を見つけました。東大新聞の広告取りの仕事で、月収はコミッション制で1万円。お金の魅力にひかれ、江副さんはそのバイトにつきます。これが"情報"が利益を生み出すことに気づき、その後生涯にわたって情熱を注ぐことになる、江副さんと"情報"との初めての出会いでした。
 昭和35年(1960年)3月の大学卒業時、江副さんは東大新聞の広告セールスのコミッションで、年に60万円の収入がありました。当時の新人サラリーマンの年収の3倍に当たります。そして、小・中・高の12年間無遅刻無欠席を続けた反動から、規則に縛られない生活をしたいと考え、卒業後は就職せず東大新聞の広告セールスの仕事を継続することを選択、社会人生活をフリーランスの広告代理業でスタートしたのです。
 当時、就職先には位(くらい)がありました。鉄鋼・造船・化学・銀行などは就職先としての位が高く、証券・不動産などは低く見られ、広告業は最も位の低い業種と見なされていました。江副さんは「私の場合、位の低い仕事から出発したことが幸いした」と述懐しています。
 卒業後は早稲田、慶応、一橋、京大などの大学新聞にも手を拡げ、事務所は、教育学部で2年先輩の森稔さんが学生時代につくった西新橋の第二森ビルの屋上プレハブを借りました。さらに翌年には北は北大、小樽商大から、南は九大、鹿児島大まで、およそ40大学の大学新聞と専属契約を結びました。他大学の大学新聞も求人広告を望んでいて、すぐに専属契約を結ぶことができました。

大学新卒者向け求人情報誌「企業への招待」創刊

 昭和36年(1961)、アメリカ留学中の先輩から「アメリカでは、学生にこのような本が配られている」と、1冊の本が送られてきました。就職情報ガイドブック誌『キャリア』です。学生向けに就職に役立つ記事があり、その後に企業の求人広告が1社2ページにパターン化され、200社ほど掲載されていました。
 「これだ!」とひらめいた江副さんは、これをヒントに、日本初の大学新卒者向け求人情報誌「企業への招待(後のリクルートブック)」を発刊します。そしてこの「企業への招待」こそが、その後続々と発刊されるリクルートの"広告だけの本"の原点。それまで就職先を推薦や縁故に頼っていた学生たちに、自分の意思で企業を選ぶという新しい選択法を提案し、大学生の就職活動のあり方を大きく改革することになったのです。
 表紙のデザインは、日本を代表するグラフィックデザイナー亀倉雄策先生に依頼しました。デザイン料は「会社が儲かるようになったら、ちゃんと請求するから」と、破格の金額で引き受けて下さいました。先生には後年社外重役をお願いし、平成9年に亡くなられる直前まで、リクルートのCI戦略から、全国に建設した自社ビルの外装デザイン、安比高原スキー場の開発やホテルの建設に至るまでトータルにアドバイスをいただき、デザインや経営面だけでなく、江副さんの人生の師として、また心の支柱としても大きな存在となっていただきました。
※亀倉先生のことは、第一章「ただ一人先生と呼んだ人」でも紹介しています。

創刊号は赤字

 大学新聞で手ごたえを得た江副さんは、「企業への招待」にも自信がありました。大学新聞より広告紙面が広いので、詳しい情報を学生に届けられる。広告料金も安い。だから企業はきっと参加してくれるはず。この事業は必ず成功する・・・と、確信を深めました。
 ところが大学新聞には好意的だった企業の反応は意外にも冷たく、第一号は赤字でした。歴史ある大学新聞と違い、「企業への招待」は江副さん個人が発行元。現物がまだない見本誌での営業、しかも前金、さらに初めて目にする"広告だけの本"に対する心理的抵抗が企業側にあったのです。
 こうした中、代金後払いで印刷を引き受けてくれていた大日本印刷へ頭金が払えないという問題が起こりました。困り果てた江副さんは、会社の金銭出納の口座を開いていた近くの芝信用金庫に融資を依頼に訪れ、森ビルに収めている60万円の保証金を譲渡担保にすることで60万円の融資を受けることができました。この恩義から江副さんは現役時代、リクルートの営業報告書に記載する取引金融機関の筆頭を芝信用金庫にしていました。この融資がなければ、「企業への招待」は頓挫していたでしょう。

巻末のアンケートハガキに手ごたえ

 有料と無料の計69社を掲載した第一号の「企業への招待」は、就職活動に間に合うぎりぎりの時期に完成しました。数々の苦労の末に誕生した創刊号が大日本印刷から届いたとき、スタッフ皆で歓声を上げたことが記されています。
 「企業への招待」の巻末にはアンケートハガキを挟み込み、通信欄に書かれた学生たちの声を、1枚1枚食い入るように読みました。一例をあげると、「掲載社数をもっと増やしてほしい」「就職先を選ぶのにとても参考になった」「このような立派なものを無料でいただき、感謝しています」など、好意的な言葉が圧倒的。一方広告掲載企業からも、学生からの資料請求のハガキが大量に届き感謝されました。
 「企業への招待」の赤字は大学新聞の広告の利益で埋めましたが、翌年も発行するかどうか逡巡しました。学生から好評だったので、来年は事業として成立するだろう。だが、手元には資金がない。発行を続けると金策で苦しむかもしれない。大学新聞の仕事だけならば、苦労せずに高収益を続けて行ける・・・と迷いましたが、苦労を成果につなげようと続行を決めました。そして2年目、折からの岩戸景気の追い風もあり、掲載社数は倍増、売上高は4倍増、計画を大きく上回る利益を上げることができたのです。
 そんなある日、アルバイト学生から、東大、一橋、早稲田、慶応などの学生へ無料で配布した「企業への招待」を神田の古本屋が100円で買い取り、神田近くの中央大学や明治大学の学生に200円で売られていることを聞きました。
 このことをきっかけに「すべての学生にこのサービスを提供することをこれからの仕事にしていこう」という気持ちがふつふつと湧いてきたと、江副さんは書いています。

社員皆経営者主義

 駒場のクラスメイトから薦められて、江副さんはP・F・ドラッカーの「現代の経営」を座右の書にしていました。そこには「経営とは顧客の創造」「経営とは社会の変革」「経営とは実践」という心躍る言葉がありました。江副さんは夢中になって繰り返し読み、以後ドラッカーが江副さんの師になりました。
 ドラッカーは組織を効率的に機能させるために多くの提言をしていますが、その柱となるのがPC(プロフィットセンター)制というマネージメントシステムです。会社の中に小さな会社(PC)を作り、そこに大きな権限を委譲して成果を求めていく、いわば『社員皆経営者主義』といえるもの。PC長は自分の裁量でPCを運営し、競い合い、年齢、学歴、性別、国籍に関係なく、業績を上げた人が評価され組織の階段を登っていきます。このPC制を導入したことで、上からの指示を待つのでなく、社員一人ひとりが自発的に仕事をする風土が育ち、リクルートは高収益企業に成長していきました。

広告もニュースである

 思えばリクルートは、東京大学新聞社で「広告もニュースだ」との気づきのもと、広告自体を価値ある情報として、さまざまな分野で展開することで情報誌ビジネスを発展させ、成長を遂げてきました。
 30年程前、未来学者達がマンマシン時代の到来を予測していましたが、今日若者たちはパソコンや携帯電話などでニュースを見るようになりました。新聞の発行部数は減少し、雑誌の発行部数も減少傾向にあります。このような変化の中、広告と記事を峻別した雑誌よりも、広告を記事にした雑誌の方が元気です。
 今のリクルートは、コンピューターをプラットフォームにしたインターネットビジネスと、江副さんは反対した地域限定の『ホットペッパー』というフリーペーパーが、順調に伸び広告のニュース化がさらに進んでいます。
 「事件で迷惑をかけてしまった私だが、52歳でリクルートを離れたことは、結果としてリクルートのために良かったのではないかと、今思っている」 江副さんはそんな言葉で「かもめが翔んだ日」の第二章を結んでいます。

ダイエーへの株譲渡
  ※この項は、江副さん著「かもめが翔んだ日」第三章を要約した内容に、著者の体験をプラスして記しています。

 リクルート事件を機に、江副さんが経営から退いたあとも、リクルートの業績は増収増益、グループ全体で売上高は1兆円を超え、利益は1千億円を超えていました。
 しかし、江副さんにとってそれはつかの間の安息でしかありませんでした。不動産の急激な値下がりでリクルートコスモスの業績が急降下、グループのノンバンク・ファーストファイナンス(FF)の不良債権も拡大。苦慮の末江副さんは、ダイエーの中内功会長に助けを求め、個人所有のリクルート株を譲渡することにしたのです。
 平成4年(1992年)、ダイエーはリクルート株の35%を取得し、リクルートはダイエーの傘下に入ることになりました。それは長いリクルートの歴史の中でも唯一の停滞、江副さんにとっては挫折の日々の始まりだったと言えるかもしれません。

 「かもめが翔んだ日」第三章で江副さんは、ダイエーへ株式譲渡をするに至った経緯について詳しく書いています。リクルート全株の3分の1に当たる、454億円の話です。銀行に返済した残りの金額の小切手のコピーが、私の手元に残っています。
 平成4年(1992年)5月22日、江副さん所有のリクルート株のダイエーへの譲渡が報道され、ダイエーのリクルートへの資本参加が発表されると、リクルート社員や関係者の間に動揺が広がりました。ダイエーカラーがオレンジであることから、それは「オレンジショック」と呼ばれました。江副さんはこの背景にあった真実を、いつか伝えたいと考えていたようです。

不動産価格急落・コスモスの危機

 平成2年(1990年)8月、公定歩合が6%に引き上げられました。1年前の公定歩合は3.25%、わずか1年の間に4回の引き上げが行われ、マンションの売れ行きは急速に落ち込んでいきました。さらに同年10月10日から5夜連続で放映されたNHKスペシャル「緊急土地改革~地価は下げられる」が、経営環境の悪化に追い打ちをかけることになりました。同年12月、コスモスの契約率は当初目標の10%にまで落ち、完成在庫が大量に発生しました。

 年が明けると週1回午後7時から「Nビル会議」と称するコスモス問題を議論するリクルートの常務会が、 (財)江副育英会の事務所で行われるようになりました。
 コスモスの取締役会は、リクルートにマンションの完成在庫を買い取ってほしいと要請していましたが、リクルートの常務会は反対でした。
「リクルートがコスモス支援のため完成在庫を買い取れば、社員が反発しますよ」
「リクルートがコスモスと心中するのは避けたいですね」
などの意見が述べられました。

 これに対して、グループ会社の資金調達を長年担ってきた財務担当の奥住専務は、
「高収益会社のリクルートが、コスモスを見捨てることはできません。それは世間が許しませんよ」と、常務会に理解を求めていました。

 異なる意見のコンセンサスを求めて結論を出す、調整型の位田社長は容易に結論を出すことができませんでした。
 平成3年7月、都内ホテルで常務会が開かれ、その席で江副さんから、
「リクルートがコスモスを支援し、いずれ深刻な事態になるよりも、この際思い切ってコスモスをリクルートから切り離してはどうだろうか」
「コスモスは株式公開企業で、証券市場でそれなりの価格がついている。いまコスモス株を他のディベロッパーに売却し、リクルートの資本系列から外してはどうか」
との案が常務会に提案されました。

 その場は重苦しい空気で包まれ、発言をする者もいませんでした。コスモスの役員や課長クラス以上の役職者の多くは、元リクルートのマネージャーです。彼らの気持ちを考えると、コスモスをリクルートから切り離すのは忍びないという思いがその場を支配していました。

グループ最高経営会議発足

 平成3年(1990年)秋、位田社長、江副さん、財務担当の奥住専務、事業担当の河野専務、大沢リクルートグループ社長会議長、社外重役の亀倉先生からなるグループ最高経営会議が発足。場所を江副さんの事務所からリクルート11階会議室に移し、週1回会議を開くことになりました。奥住さんから依頼され、関連企業室から財務部長に戻っていた私は、この会議の事務局になって同席しました。
 平成4年(1991年)の年が明けても、地価は下げ止まる気配がありませんでした。新聞の経済面は、「企業倒産は負債総額が7兆7737億円と過去最高に達する…」などの暗いニュースで埋められました。
 経済雑誌でも毎号のように不良債権問題の特集が組まれていました。
「ノンバンクの遅すぎた反省――進まぬ不動産売却のいらだちと銀行管理転落への焦燥」
「不動産、ノンバンク、どかんと来る日――どうなる不動産、どうするノンバンク」等々。

ノンバンクFFの崩壊

 コスモスの経営不振と連座する形で、FFも危機的状況を迎えていました。
 FFのスタートは昭和52年(1977年)。コスモスの事業と連携させ、マンション購入希望者でローンが組めない人向けのローン会社として設立されたものです。
 事業内容としては、FFが銀行から融資を受けてマンション購入者とローン契約を結びます。万一返済が不可能になった場合は、マンションを引き取り中古市場で売却すれば融資した資金を回収できます。実際そういうケースも起こりましたが、損失にはなりませんでした。中古マンションが値上がりしていたからです。江副さんはFFを、コスモスの販売促進につながり、かつ利鞘も稼げる"住宅ローンの隙間を埋める事業"と信じて疑いませんでした。
 FFでは経営陣を銀行から迎え、店舗は大阪、新宿などに5店舗を展開して積極的な拡大策を推進。昭和63年(1988年)には融資残高が5,000億円を超え、融資額で第二地銀の中位行と肩を並べる金融機関になっていました。 
 FFの経営陣は将来の株式公開を目指し、早くから準備を進めていました。
「大蔵省の規制を受けないノンバンクの株式を公開すれば、低利の資金調達が可能になる」
「資本を直接市場から集めた方が、調達コストも安く、銀行より有利な金融機関になれる」
と、夢を膨らませていたのです。

 ところが平成2年(1990年)の秋から始まった不動産の急速な値下がりで、突然融資先からの利払いがストップ。平成3年(1991年)には地価はさらに下落し、不良債権が大量に発生、業績はみるみる泥沼に落ち込んでいきました。それはまさに、膨らんだ風船に穴が開き、急速にしぼんでいくかのようだったと江副さんは述懐しています。

銀行管理か他社の資本参加か

 コスモスの経営状況は日を追って厳しくなっていきました。見放すか支援するか判断の時期が迫ってきました。
 平成4年(1992年)4月23日の最高経営会議で、島田再建プロジェクト室長から、「FFが抱えている不良債権の担保と、コスモスの不良資産、リクルートの所有資産含み益を合算すると担保割れ寸前であること。リクルート、コスモス、FF3社の連結決算は、わずかだが黒字であること」との報告がなされました。これを踏まえ江副さんは、リクルートグループが銀行の管理下に入るか、他社の資本参加を許すか、どちらかを選ぶしかないと考えるようになりました。
 リクルートの強みは、社員が自由闊達に働き、権限委譲が進んでいて、経営の意思決定が速いことです。しかし銀行の管理下に入れば、その強みは失われるでしょう。その点外部の資本を入れての信用補強であれば、リクルートの美点が失われることはないのではないか。銀行の管理より、社長以下執行部を残してもらえる形での外部の資本参加の方がいいと考えるようになりました。そして江副さんの気持ちはM&A、つまり自分のリクルート株を信頼できる経営者に売却する方向に傾いていったのです。

忘れられない中内さんのご恩

 そんな江副さんが白羽の矢を立てたのが、流通業界最大手ダイエーの中内功会長でした。平成4年(1992年)5月4日、江副さんは中内さんと会談、交渉は順調に進んでいきました。
 江副さんが株譲渡に当たって中内さんに提示した条件は、位田社長以下執行部を全員残すこと、グループの1兆8000億円の借入金を承知することで、中内さんは江副さんの希望をすべて了解されました。同年5月19日、帝国ホテル901号室で、江副さんと中内さん、ダイエー藤本専務の3人で契約書の確認がなされ、この日をもって交渉は終了しました。
 江副さんの株譲渡騒ぎが治まり、中内さんが時々リクルートに顔を見せられることがありました。狭いエレベーターの中に乗り合わせても、誰も特別扱いしません。女子社員も気軽に話しかけていました。中内さんはこの雰囲気を気にいられ、しばしば訪問されるようになりました。リクルートに来るのが楽しみなように見受けられました。中内さんはリクルートの経営に関しては一切口出しをされませんでした。リクルートは粛々と、コスモス・FF支援プログラムを作成、銀行交渉を進めていきました。
 それから10数年後、今度はダイエーの経営状況が悪化し、リクルート株を買い戻すことになりました。江副さんが売却した時の倍以上の価格でした。リクルートの業績は順調、1兆8000億円の借入金も返済が進み実質無借金経営になっていました。
 今ダイエーの名は消滅し、江副さんも中内さんも故人となり、二人にまつわるエピソードを知る人も少なくなりました。しかしリクルートが、リクルート事件とバブル崩壊の二重の困難を乗り越えられた要因の一つは、中内さんがほぼ無条件で救済の手を差し伸べてくれたことに間違いはありません。あの苦しい日々を知るOBの一人として、中内さんから頂いたご恩を忘れることはできません。

1兆6千億円の借入金返済プログラム

 平成4年(1992年)、江副さんはダイエーへの株式譲渡を済ませ裁判に専念、位田さんは銀行相手に、リクルートは子会社コスモスとFFを支援していく旨を伝えました。
 同年8月、私は11階会議室での待機を終了、10階の財務部長の席へ戻り、銀行対応仕事に向かうことになりました。新聞には「底見えぬマンション不況」「悲鳴の業者投げ売り」「中堅不動産軒並み収益悪化」などの記事が乱れ飛んでいました。私のリクルート"課題解決担当"任務の中でも、これが最後で最もハードな仕事になりました。そしてこの仕事は平成8年(1996年)まで4年間続きました。
 コスモス、FFへの支援計画検討会議が、G8ビル11階会議室で開かれるようになりました。RGS会議と呼んでいました。目的はコスモスとFFの実態を把握し、支援方法・支援額の検討を行うことでした。私はこの会議に出ながら、財務部長本来の仕事である、対銀行交渉に当たっていました。当時の財務部には、リクルートの優秀なメンバー20人近くが揃っていました。興銀、日債銀、日長銀そして都市銀行、地方銀行、生損保等40を超える金融機関と各種交渉を開始しました。
 コスモス・FF両社への支援の記録を見ると、1991年3月、手元資金742億円でコスモスから在庫マンションの購入を開始、コスモスの赤字に対応。1992年からは本格的支援を開始し、コスモス一次支援として、リクルートが銀行借入資金1780億円でコスモスの在庫物件を購入、コスモスはその資金を銀行に返済。1992年、FFの一次支援として1120億円をリクルートが銀行から借入、FFへ低金利で貸付、FFはそれを銀行へ返済。FF二次支援として、5978億円の借入金を肩代わり。コスモス二次支援として、G7ビルを604億円で購入、不動産物件1152億円を購入…などの記載があります。
 その結果リクルートは、合計で1兆円近い資金を調達、本体の借入金を合せると1兆6千億円の借入金残高となりました。これら両社への支援は、銀行にとっては、不動産会社およびノンバンクへの不良貸付金が、リクルートへの正常な貸付金になったことを意味します。銀行にとってはメリットが大きく、交渉に支障はありませんでした。
 プログラム作成最後の難関が、リクルート本体の借入金の「担保解除、オール借入オール不動産担保協定」の調印でした。リクルートの自主再建・借入金の返済に、本体の不動産売却は必要不可欠のものです。不動産には銀行個別に担保が設定されています。リクルート自主再建計画を安定して進めるには、金融機関全部が安定していることが必要です。そのためには銀行間の借り入れシェアが一定であることが不可欠でした。それを実現するために、本体の不動産担保をすべて解除、「オール借入オール不動産担保協定」が必要でした。売却して得た資金を、借入金のシェアで各行に返済していく、これは画期的なことでした。
 協定書への調印が完了したのが平成8年(1996年)3月、銀行交渉は終わりました。あとは不動産を売却し、シェア返済を粛々と進めて行くだけになりました。
 財務部長に戻って最初の1年はG8ビル11階会議室で江副さんの株売却会議に参加、続く4年間は10階財務部へ戻り、会議、会議の連続、財務メンバーの会議、RGS会議、そして銀行交渉…。常に江副さんに報告し相談をしていました。
 その時江副さんから言われていたことは、『小野塚君、金利は下がる、金利が安い短期借入金のシェアを高めなさい』でした。バブル時の金利は、長期で6~7パーセント、短期で3~4パーセント、ピーク時で街金融では10%を越えていました。長期借入金は固定金利で安定した借入金、短期借入金は変動金利、返済を求められ、不安定な借入金です。しかし、借入金額が巨額なので返済を求められてもできませんが、借り続けることは可能でした。低い金利の借入金のシェアを増やし維持することに努めました。
 金利は江副さんの言う通り、どんどん下がって行きました。リクルートが支払っていた金利は、多い時で年間700~800億円です。これがみるみる減って行ったのです。平成7年(1995年)3月期のリクルート経常利益は283億円、平成8年3月期では423億円になりました。金利は年々下がり続け、リクルートの経常利益は増え続けました。そして10年を待たずに、計画の目標を達成しました。
 私のリクルートでの課題解決任務は終了しました。平成8年(1996年)4月、私は子会社リクルートフロムエーの監査役に異動しました。フロムエーは超優良子会社で、私が働く必要はありませんでした。フロムエービル10階の会議室で行われる、役員会に出席するだけでした。時間にゆとりができ、以降は江副さんの相手をすることが多くなりました。

 

 

 

終戦2カ月前に生を受ける

 私が生まれたのは昭和20年6月、終戦の2か月前、千葉県千葉市です。小学3年生になるとき、父の転勤で九州の福岡県福岡市へ引っ越し。当時は筑紫郡でしたが数年して合併し、福岡市になりました。近くに板付空港、米軍飛行場があり、夜中にジェットエンジン整備の轟音が響く時代でした。
 小学生の時、運動会で部落対抗リレーがあり、3年から6年まで選手に選ばれて連続優勝、6年生の時は3位でバトンをもらい二人抜いて優勝、卒業式では答辞を読みました。中学生は普通、最後の学期の通信簿は全部5、美術の先生はおまけをつけてくれました。高校受験では、母の強い希望で住所変更手続きを行い、いわゆる越境入学で、九州大学進学校の県立福岡高等学校に通いました。博多駅隣の駅、竹下駅から機関車に乗って通学しました。

「至誠・剛健・操守」の精神

 ここに分厚い一冊の本があります。福中・福高の教育を語る、創立80周年記念論文『成風』、平成9年5月の発行で、何故か、福高16回生として私が寄稿しています。その中で触れているのが校訓『至誠・剛健・操守』の精神と、1年時の担当・花田先生の『率先垂範』の姿です。
 当時学校は土足で教室へ入っていました。掃除は自分たちでします。花田先生は自らモップを持ち、黙々と床を拭いておられました。もうお一人、仲人をしていただいた江口先生の『自主性尊重の教育』も忘れられません。先生は出席など取りません、授業では先生がピアノを弾く、生徒は歌うだけ、生徒の出入りは自由、たまに音符のことを話すだけでした。試験も歌うだけでした。
 これらの校訓・指導が、今の私がある原点です。自由、自主性が重んじられますが、自由には自己責任が伴うことを自然に学びました。高校3年間は合唱団活動で、ダークダックスをまねて4人で歌っていました。4年生になってからは一年間受験勉強に打ち込み、九大教育学部に入学しました。

勉強よりクラブ活動に熱中

 大学時代は、九州大学混声合唱団と九大文化総務活動の4年間でした、学園紛争が激しい時代、建設中の電子計算センター校舎に米軍ジェット機が墜落、佐世保にエンタープライズ入港、ベトナム戦争反対活動で東京から学生運動の闘士が九大へ、学園占拠、機動隊が突入、休講がやたら多かった時代です。卒業証書は卒業後半年して、自宅に届きました。高校・大学時代に共通しているのは、勉強よりクラブ活動、文化活動の運営、支援に熱中したことです。

リクルートとの出会い

 そんな私が、就職したのがリクルート、就職活動のイロハも知らなかった私は、受ける会社全て、ペーパー試験に落ち面接にも至りませんでした。そんな時の夏休み、たまたま大学に行き、廊下を歩いていたら、教室で会社説明会をしていたのがリクルートでした。当時は日本リクルートセンターと称していました。
 プレゼンテーションをしていたのが九大を1年前に卒業、就職していた加藤さんと、営業部長の溝渕さんでした。翌週知能テストのような試験、面接があり、夕刻には電話で自宅に合格通知が来ました。ちなみに試験時の試験官は、九大教育学部心理学科の同級生潮崎君でした。私より少し前に内定していたのです。彼とはそれ以後50年近く、赤坂での飲み会を続けています。
 入社に際し、大手商社審査部に居た私の兄がリクルートを調べてくれました。その報告は、「東大出の人が社長をしている、事業資金に手形を使ってない・・・」。父もこれを聞いて何も言いませんでした。男4人兄弟の中で、三男の私は、適当に片付けば良いと思っていたのかも知れません。
 大学は夏休み、たまたま学校を訪れ、歩いていた廊下、覗いた教室で、誰かいる、何だろうと、教室の後ろで話を聞いた、この偶然が今に繋がっている、運命だったのだと思います。

スタートは営業マン

◆現在の丸の内ビル街

 私のリクルートでの最初の配属は営業、福岡営業所で2か月、東京営業部で3年半。企業の人事部を訪問し、大卒学生向けの求人広告を集めた『企業への招待』に、広告掲載を依頼するのが仕事でした。担当した会社は三井物産はじめ大手総合商社10社、大手都市銀行、日本製鋼所等大手非鉄金属でした。会社は丸の内ビル街にありました。田舎から出てきた私は、街を迷いながら歩き回りました。
 当時の大手企業の人事部の求人活動は、リクルートブックを使い始めて数年目という状況にあり、人事部に行くと掲載の話より、他の会社はどのような動きをしているのか、学生の動きはどうかといった、情報を求められました。私達リクルート営業マンの役割は、人事部担当者の話し相手であり、採用活動の相談相手でした。お昼どきに行くと、よく食事をご馳走になりました。営業マンの中には、採用担当者の話し相手にとどまらず、担当企業の採用活動を直接手伝う人もいました。担当企業に自分用のデスクを置いてもらい、採用計画を作り、試験から面接に至るまで世話をしていました。
 そんな営業マン時代、事件が起きました。課長と喧嘩したのです。営業マンが担当するスポンサー移動、交換時のことです。課長は私に実績のある大手化学薬品メーカーを渡しました。一度他課に出したスポンサーで、戻ってきたスポンサーです。訪問すると、リクルートブックに掲載は申し込まないと言ったはずだがと、言われてしまいました。課長は経緯を知りながら私にその会社を担当させたのです。私は怒り心頭、大喧嘩しました。翌日私は胃が痛く、気分も悪く落ち込んでいました、課長はケロッとした顔でいました。この時思ったのです、イライラして体調を崩した私に対して課長はケロッとしている、喧嘩して損をしたのは私です。この時以来、下手な喧嘩はしないこと、怒りを爆発させるのはやめることにしました。ストレスは体に悪いと判断したのです。この経験が、私の今ある健康の原点となりました。
 予備校に通っていた高校4年の夏、急性肝炎になりましたが薬で治しました。学生時代は無事に過ごしましたが、リクルート入社後東京転勤1年で肝炎を再発、帰郷して1か月入院、さらに1か月実家で休養、2か月間会社を休みました。営業は閑散期にあり、影響は少なかったようです。肝炎とは現役引退するまで、長い付き合いとなりました。一病息災とは良く言ったもので、自分の体を知るようになり、今では健康診断・血液検査などすべてが正常値範囲にあります。無駄な喧嘩はしない、怒らない、物事を前向きに捉える生き方を身につけました。

ROD研修で学んだこと

 この研修については第一章で書いています。ここで書きたいことは、私自身の経験、感想です。研修を受ける身、研修トレーナーをした両方の経験からの話です。この研修2泊3日では、徹夜で議論することもありました。5~6人でのグループで、お互い納得するまで、問題点を掘り下げ、追及、自己分析を完成させる研修です。トレーナーが上手くコントロールしないと、間違った方向に行きかねない研修です。下手するといじめ研修になってしまいます。私は若手時代、課長職になる前、課長時、部長時と合わせて数十回経験しました。この経験で身に付けたのが、自己分析能力です。いま、自分が置かれている立場、求められている行動などを冷静に捉えることができるようになりました。並行して、周囲の人達を正確に観察する力も身につきました。前向き思考の私に、冷静さが加わったのです。人の悪口、人との言い合いをしなくなりました。

「一病息災」で健康管理

 入社した年の6月、福岡から東京へ移動、寮・社宅などない時代、私は港区愛宕下の母の実家、蕎麦屋の2階の4畳半、祖父の部屋に布団1枚を持って入りました。この蕎麦屋近くにリクルートの倉庫があり、社員が蕎麦を食べに来ていました。そのため、祖父、叔父、叔母たちが、まだ無名の会社リクルートを知っていました。都電が走っていた時代で、都電で日比谷通りを神田美土代町まで乗り、通勤しました。数か月して、横浜上大岡の1軒家に同期生と数人で移りました。さらに数か月して、京王線下高井戸駅近くの、合宿所みたいな長屋へ。ここは4畳半、2段ベットがあるだけの部屋で、15部屋程ありました。食事は外食、生活は不規則で、大抵は先輩たちとの麻雀で帰りが遅く、睡眠不足、当然の結果として体を壊し博多へ戻り、1か月入院、さらに1か月実家で療養することになったのです。この秋に智香子と結婚、安定した生活リズム、食事の改善などで体調も回復、営業も成績を上げられるようになりました。
 この病気がまさに『一病息災』、自分の体を知ることができ、毎年の健康診断の結果を、注意深く見るようになりました。その結果肝機能の数値は許容範囲を保ち、安心して仕事に専念できるようになりました。

息子航(わたる)のこと

 入社2年目の昭和45年11月に結婚、最初に住んだのは京王線千歳烏山、一部屋のアパートでした。46年8月に航が誕生。2年後に稲城市の京王線よみうりランド、二部屋のアパートに引っ越しました。毎日残業で体も疲れ、肝臓も弱っていました。ビール小瓶1本で真っ赤になっていました。このような時期、博多から上京しわが家に泊まった父が、「航が変な歩き方をしている」と忠告してくれたのです。手を抱えて歩いていたのです。すぐ子供国立病院へ、医者から即脳手術が必要と告げられ、聖路加国際病院を紹介されて入院、手術しました。手術は脳膜が傷つき漏れていた髄液を取り出すというものでした。しかし、航の真の問題は大脳と間脳の間にレンズ核が左右にあることでした。大脳で判断したことが体の運動神経に指令が届かない、体幹機能障害、運動機能障害が起き始めていたのです。大脳と間脳の間にできたレンズ核は、結局治療の術はありませんでした。
 稲城市に居たのは数年、八王子市へ引っ越しました。ポストに入っていたマンション広告チラシの物件で、場所は京王線狭間駅、終点高尾山口駅の二つ手前、改札に駅員がいない駅、通勤に2時間近くかかる場所でした。購入金額の1300万円は全額借金、会社から400万円を借りました。(江副さんは社員のマンション購入資金を積極的に融資していました)。八王子は都心郊外、空気はきれい、静かな環境でした。私は良い睡眠がとれ、みるみる健康になりました。航はここで、保育園、小学校、中学、都立高校に通い、二浪して和光大学(学生寮入居)に入りました。学生時代、寮生活でたくさんの友人を得ました。途中で寮からアパートへ、卒業後もしばらく住みました。私はリクルート現役を終えた時期、第一章で書いた、江副さんの麻布のマンションに住んでいた時期です。江副さんは、マンション販売事業をしていました。新橋5丁目にワンルームマンションを建設、私に買うように指示してきました。航に「住むか」とたずねると、住んでも良いとの返事、借金して購入しました。この原稿を執筆している今現在、間もなく51歳、新橋に一人で生活しています。リクルート発祥の地新橋、私の母の実家があった新橋、愛宕下で蕎麦屋をしていた実家近くに、航が一人で生活している。私が八王子から半世紀近く通っている新橋に、障害者の息子が一人で住んでいる、運命の不思議さを強く感じています。
 「進行性レンズ核症候群による体幹機能障害」という病名の息子航、小さいときは会話も普通、かけっこもできました。しかし、成長と並行して、歩行困難、手先も自由に使えなくなりました。航は、いつか治ると思って、気にしていなかったと言い、大きくなっても補助輪付きの子供自転車にのり、近所を動き回っていました。学校でいじめにあった時も、筆箱を投げつけて、相手をびっくりさせ、逆に助けてもらうようになったそうです。八王子市教育課から、養護学校への入学を進められましたが、智香子と相談、小学校、中学校、高等学校と相談し、お願いして通わせることができました。そして和光大学へ入学、2浪、2留、8年かけて大学を卒業、障害の身を抱えながら一人暮らしを続け、28歳で新橋一人暮らしを始めました。外出手段は電動カート、連絡手段はパソコン、ウィルコム、現在はキーボード付きスマホ・ブラックベリーです。文明の発達に助けられ、新橋での一人暮らしを維持しています。
 新橋での一人暮らしスタート時、妹が週に1回食事に来ていました。外食もあれば料理することもありました。結婚してできなくなると、智香子が週末通うようになりました。料理、洗濯、風呂入れのサポートしていました。平成27年4月、智香子が亡くなって以後は、私が通うようになりました。そして令和4年、原稿執筆中の今、コロナ騒ぎの中で週6日新橋に通い、内ホテルに週3日泊まり、航のサポートをする生活リズムを続けています。

 

 

 

年表

西暦 和暦 リクルートと江副さん  小野塚満郎 年齢
1960 昭和 35 ●江副さんが、東京大学新聞の広告代理店として、大学新聞広告社を創業
1962    37 ●「企業への招待」創刊
1963   38 ●株式会社リクルートセンターに社名変更
1968   43 ●IBM 1130導入 リクルート会社説明会、入社試験、面接、内定、アルバイト 23歳
1969   44 4月 入社福岡営業所配属 6月 東京営業所に異動 24歳
1970   45 ●社内懸賞論文制度制定 25歳
1971   46 ● 株式会社リクルートコンピュータプリント設立 26歳
1972   47 経理部・受注管理課に異動 4000万円の売掛金回収 27歳
1973   48 息子の航 聖路加国際病院に入院手術 28歳
1974   49 ●オイルショック ●竜が森建設開始 ●社員持株会発足
●環境開発株式会社創業(1985年に株式会社リクルートコスモスに社名変更)
財務課に異動 資金繰表作成 29歳
1975   50 ●「就職情報」創刊 課長代理へ 経理課へ異動 試算表作成 税務申告書作成 利益管理研究 PC制度開発 30歳
1976   51 ●「住宅情報」創刊 31歳
1977   52 ●盛岡グランドホテル経営引き受け 竜が森事業オープン 課長へ G8取得に向け長期収益、資金繰り予測表作成
1980   55 ●PC制度と社員皆経営者主義
●「とらばーゆ」創刊
●安比総合開発株式会社設立(安比高原スキー場)
35歳
1982   57 ●株式会社リクルートフロムエー設立 部門別会計課設立並行して関連会社課兼務 関連会社報 月次決算MAP G8竣工、スキー場オープン 37歳
1983   58 部門別会計課選任へ 決算部課長会、ホテルで2時間解説、財務課へ異動、銀行担当資金繰り、社員持株会 38歳
1984   59 ●「カーセンサー」創刊 ●リクルートG7取得 経理部次長へ関連会社課兼務、 39歳
1985   60 ●リクルートコスモス、G7合併 ●Recruit U.S.A Inc.を設立 ●社名を株式会社リクルートに変更 40歳
1987   62 ●スーパーコンピュータ研究所設立 関連会社室長へ財務部兼務 42歳
1988   63 ●リクルート事件発覚 関連会社室専任 43歳
1989   64 ●株式会社シーズスタッフ設立
● G7ギャラリーオープン
関連会社室は関連企業室へ名称変更 44歳
1990 平成  2 ●「じゃらん」創刊 財務部部長兼務へ 45歳
1991    3 ●安比サミット 安比総合で80億円の損失、100億円借り入れ、バブル崩壊の兆し 46歳
1992    4 ●江副さんが保有株式をダイエー・中内さんに譲渡 財務部専任、バブルの清算請負、特別プロジェクトチーム編成リーダー 1兆6千億円の借入金返済プログラム作成 47歳
1993    5 ●「ゼクシー」創刊 48歳
  6 ●バブル期の不動産やノンバンク事業の失敗で、約1兆4000億円あった有利子負債を自力で完済 49歳
1995   7 プログラム完成、安比スキーで鎖骨骨折、子会社フロムエーの監査役へ異動、並行して江副さんの会社スペースデザイン手伝い、給与はリクルートから 50歳
2000    12 ●「Hot Pepper」創刊 55歳
2002    14 リクルート退社 57歳
2003    15 ●3月 江副さんに東京地裁の有罪判決確定 58歳
2005    17 ●リクルートコスモスを企業買収ファンド連合へ譲渡 60歳
2007    19 ●ファーストファイナンスの解散手続き完了 62歳
2012    24 ●株式会社リクルートホールディングスに社名変更 67歳
2013    25 ●1月31日 江副さん東京駅で転倒 2月8日永眠(享年76) 68歳
2014    26 ●東京証券取引所市場第一部に上場 69歳

 

 

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