ベルリンのザピーネ

      2018/09/02

 

冷戦終結前夜のベルリンで

 ぼくが日本法を教えるためにベルリン自由大学に行ったのは、ソ連でミヒャエル・ゴルバチョフが共産党書記長になり、国際的に核軍縮、国内的にペレストロイカ政策を進め始めた頃でした。半年間、夏学期に日本学科と法学部の学生を相手に毎週2回授業をしました。季節もよく、年齢も近い学生たちなので、授業以外でもよくつきあい、一緒に遊びました。日本語がよくできる学生も複数いました。今でも思い出す学生の名前(ファーストネーム)をあげると、マルク、ヨルク、ユタカ、シュテファン、ラーラ、トビアス、ウテ、そしてザピーネです。ザピーネは、色が白くて、金髪、目の青い、物静かな学生でした。最初の時間の自己紹介でこの名前を聞いて、「縁があるんだな」と思いました。

 ベルリンは、いうまでもなく、戦前のドイツ帝国の首都でしたが、敗戦によってドイツ全土と同じように、米英仏ソ連の4か国によって分割占領されました。ベルリンの4か国占領は、東西ドイツが1949年に分裂国家として再出発し、その後連合国によるドイツ全体の占領が終了したあとも継続します。1961年8月には、米英仏の管理する西ベルリンとソ連が管理する東ベルリンの間に、東ドイツ側によって「ベルリンの壁」が建設され、東西の自由往来が遮断されてしまいました。

 

学問の自由の象徴「ベルリン自由大学」

 1800年に創設され近代の大学のモデルと評されたベルリン大学は、東ベルリンに位置していて、戦後フンボルト大学と改称しました。フンボルト大学は、ソ連の圧力の下におかれ、これを嫌った教師と学生が中心となって、1948年に西ベルリンで新たに創設されたのが、ベルリン自由大学です。

 アメリカのフォード財団が資金を援助しました。わざわざ「自由」が冠されたのは、こうした歴史的経緯によります(1990年のドイツ統一後、ベルリンは再び統一ドイツの首都となり、両大学の統合が噂されましたが、現在もそれぞれドイツを代表する大学として活動しています)。

 

パーティで 「Seigo!」 と声をかけてきた女性

 授業をはじめてからまもなくのころ、ベルリン自由大学の学長主催で、外国人客員講師を慰労するパーティが開かれて出席しました。招待客が30人ばかりの小さな宴でした。学長にあいさつを済ませて、法学部の知人教授と話をしていましたら、ドイツ人の女性が近寄ってきました。「Seigo!」と声を掛けられて、本当にびっくりしました。ザピーネ先生ではありませんか。
 ザピーネ先生は、この大学の留学生センターで外国人学生を相手にドイツ語を教える仕事をしていたのです。知人教授は、懐かしがっている二人の様子に気を利かしてくれたのか、そっと離れていきました。

◆キャサリン・ヘップバーンに似ていたザピーネ先生

 かの女の話によれば、ベルリンに来たのは3年前、日本からきた法学部の留学生や研究者にぼくのことを聞いてみたこともある、ぼくがベルリンに来ることは学内人事ニュースで知っていた、今日のパーティで会えるかどうかは分からなかったけれど、いつか機会があると思っていた、ということなのです。

 

旧交を温めた二人の時間

 夜の時間は二人とも自由がきいたので、ベルリンでは先達のかの女が案内をしてくれました。夕食によくいったのは、イタリアンのサンマリオ、フレンチ系ドイツ料理のリンダーホーフ、そして日本料理のキョウトでした。日本料理店は、寿司系か鉄板焼系でとても高いのが普通ですが、キョウトはたとえばレバニラ炒めがメニューにあるような居酒屋系で、ぼくの授業にでている学生も出入りしていました。

 戦前来の国立オペラ劇場は、東ベルリンにあり、チケットを手に入れるには直に劇場の前売りを利用するしかありませんでした。

 西ベルリンから東ベルリンに入るためには、滞在1日につき25マルクを強制的に交換させられました。交換レートは、東ドイツマルク1に対して西ドイツマルク1の公式レートですが、当時、西ベルリンの銀行では西の1マルクで東の10マルクが買えました。つまり、東ドイツは、この強制交換で外貨かせぎをしていたのです。チケット売り場では、東ドイツの党関係者が優先されて、不愉快な思いもしました。そんなことがあっても、かの女と「白鳥の湖」や「アイーダ」(いずれも定番ですが外れがない)を観にいく楽しさがかちました。

 

美しいヴァンゼーに秘められた人類の悲劇

 仲間の学生たちがベルリン郊外のヴァンゼー(Wannsee)という湖にピクニックにいく計画をたてたとき、かの女を誘うことにしました。夏のドイツは本当にさわやかです。空と湖の青さ、湖を囲む森の緑がいっそうその感を強くします。
 ところで、ヴァンゼーは、1942年10月にヒットラーとナチスの党幹部が「ユダヤ人絶滅政策」を最終的に決定した「ヴァンゼー会議」の場所でもあります。この決定の後にいわゆるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が一気に加速しました(犠牲者数約600万人)。

◆写真上段: ヴァンゼー(Wannsee)湖  下段左:ヴァンゼー会議記念館  右:資料展示室

 アウシュヴィッツ強制収容所は、日本でもよく知られています。戦後ドイツで、ホロコーストの事実を社会に大きくアピールしたのは、1963年から2年にわたったアウシュヴィッツ訴訟でした。この訴訟では、検察陣による1400名にのぼる証人の尋問と膨大な証拠の準備のうえで、アウシュヴィッツ収容所の幹部・看守である25名のナチス親衛隊員等が謀殺罪で起訴され、17名に有罪が宣告されました(うち6名が無期懲役。ドイツは死刑が廃止されているのでこれが最高刑)。

 

打ち明けられた心の痛み

 ぼくがかの女を誘ったのは、ヴァンゼー会議とアウシュヴィッツ訴訟について、学生たちと討論するためでした。というのは、かの女のおじさんにあたる人がこのアウシュヴィッツ訴訟の被告の一人であり、このことがかの女にとってとても大きな痛みと責任をかかえこむ問題になっていました。ぼくは、ナチス時代の法を研究テーマにしていましたから、かの女から打ち明けられて、何度か議論しました。いまの学生たちに悩みをぶつけてみたら、というのがぼくのアドバイスの1つでした。そして、それは、成功でした。

 

きっとまた会えるわね!

 夏学期が終わり、東京にもどることになりました。最後の夜は、いちばん気にいっていたサンマリオで、いつものように、かの女はクワトロフロマージュ、ぼくはスカンピ、そして赤ワイン。地下鉄の駅で別れました。

 「いろいろありがとう。楽しかったよ」と手を差し出したら、かの女は、手をにぎりかえしながらまっすぐぼくをみて「きっとまた会えるわね」と快活に言いました。地下鉄の階段をおりながら、ぼくはかの女が生涯の友人となるだろうと確信していました。

 

 

 

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