お笑い私小説 その男、危険につき

      2019/07/22

◆現在のソウル金浦空港

戒厳令下の金浦空港で

入国審査を終え、バゲージクレームエリアで荷物を拾い、税関を通って壁向こうの待合ロビーへ、「その男」は向かおうとしていた。

時は ’70年代末、軍事クーデターで政権を手にした朴正煕大統領が独裁的政権を振るっていた頃である。場所はソウルの金浦空港。戒厳令下の空港ロビーは、実弾を装填したカービン銃を構えた兵士で囲まれている。

◆左:朴大統領を称える軍事パレード(1973年)

初めての韓国出張、先行した商社マンK氏が待合ロビーに迎えに来る約束ではあるが、全く解らない韓国語とものものしい雰囲気に男の顔には不安と緊張が滲んでいた。

手押し車に溢れんばかりの大きな荷物を載せ、手にはお土産らしき包装を何個も抱えた人々に続き、男は不安げにロビーに出た。

開発途上中のこの国の待合ロビーは、在日同胞や家族を迎える人々とハングル文字の看板でごった返している。そこには大きな声で感情をストレートに表す韓国語が、あちこちに渦巻いていた。男にはまるで言い争いをしているように思えた。そんな中、韓国語が全く解らない男は戸惑いながら商社マンK氏を探していた。

突然待合ロビーで、男を探して名前を呼ぶ声が人ごみの中で大きく響いた。
「せきさ~ん」「せっきさ~~ん!」

その声はもちろん、空港で同胞や家族を出迎える韓国の人たちの耳にもはっきり聞こえていた。
「せきさ~ん」「せっきさ~~ん!」

「えっ?何?誰?」人々の表情に驚きととまどい、軽い怯えのようなものが浮かぶのが見てとれた。
あたりをうかがい、ひそひそと囁きあう人もいる。

「は~い、ここで~す」
男は手をあげ、大きな声で自分を探す商社マンK氏のもとに行き握手をした。男の頬はほっとして緩んでいた。異国の地で、出迎えの人に会えた安堵感でいっぱいの男には、現地の人の表情に浮かんだ不思議な反応の意味を考える余裕はなかった。

何も知らない二人の日本人は、翌日の商談に備え、ソウル中心部の商社事務所へ国産車ポニーのタクシーで急いだ。ポニーの車窓からは、低い雲が垂れこめた漢江の対岸がかすかに見えていた。

◆漢江(ハンガン)

それからソウルオリンピックまでの数年間、男の入国のたびに同じような光景が金浦空港でくり広げられた。

男は感じた、何かが変だ!

1988年のオリンピック開催を境に、ソウルの街は劇的に変わった。まるでTVが白黒からカラーに変わった時のように、ソウルの街がカラフルになった。

その頃には男も韓国に慣れ、入国も地方への移動も独りで出来るようになっていた。相変わらず韓国語は全く話せなかったが、カタコト英語で最小限の意思は伝えることができ、現地事情にも慣れ、何とか出張業務をこなせるようになった。

21世紀に変わる頃、韓国でも、システム上にミレニアムクライシスが起こり何が起こるか分からない、航空機のフライトに不測の影響が出るかもと騒いでいた。しかし、何事もなく世界中が無事21世紀を迎えることができた。

そんな初冬のある日、L電子の担当者が工場近くの大学病院へ男を連れて行った。工場内で足を滑らせ膝を強打したのだ。本人は大した怪我ではないとわかっていたが、韓国側担当者は日本の技術者であることを考慮して、大学病院で診断治療をと連れてきたのだ。

相変わらず韓国語はほとんど話せなかったといってよい。わずかに自分の名前を言えるくらいである。
受診手続きは、すべてその担当者がした。手続きを済ませ待合室に入ると、大勢の診察待ちの人が静かに何列か並んだ長椅子に座っていた。

診察室の前には、受診者の呼び出しディスプレイ用の大きな画面が2か所天井からぶら下がっている。呼び出しの軽快なチャイムが鳴るたびに、待合室の視線はディスプレイの画面に集まった。そして待合室の長椅子から腰を上げて、人が診察室に入っていく。

男は理解した。あそこに自分の名前が表示されると、診察の順番なのだ。どこの国でも同じやなと。
しかし、表示はすべてハングル文字である。そこで、同行のL電子担当者に自分の名前が出るのを見張ってもらうことにした。

10数人後、チャイムが鳴り画面が変わった。待合室の人が画面を見て、隣の連れ合いらしい人と何やらヒソヒソ、中には画面を指さして隣の人に画面を見るよう促している人もいる。
「あなたの番です、診察室に入りましょう」と、L電子の人は何故か目立たないよう男を静かに促した。

診察室へ入る二人の姿と画面のハングル文字を、待合室の人々が交互に見つめるのを、男は背中に感じた。これは変だな、おかしい雰囲気だなと、男はようやく意識した。

若い女性作業員にくすくす笑いが広がった

L電子の仕事も終わりに近づくと、現場の周りが華やかになってきた。
建設中の作業員はすべて男性ばかりだし、試運転中も男性オペレータばかりであった。しかし試運転も最終段階になると、実生産の補助作業をする若い女性作業者が日に日に増えてくる。それで建屋内は華やかになる。

そんなある日、L電子担当者から、この大型機械装置についてオペレータにだけでなく、建屋内の作業をする全員に説明をしてほしいと依頼された。
会場に集められたのは50人くらいで 約1/3が若い女性である。

男は、その会場である事を試してみようと思った。やがて説明会が始まった。

「私の名前は、一度聞くと皆さん忘れることができませんよ」と、そこまで通訳を通して言った。
そして、僅かに喋れた韓国語で男は言った。
“チョヌン ○○イムニダ イルボン サラムニムニダ”
(私は〇〇です、日本人です)と。

会場に小さな驚きが走り、そして若い女性の間には隣と目を合わせてクスクス笑いがひろがった。
そして、私は通訳を通して言った。
「皆さん、如何ですか? もう私の名前を覚えたでしょう? 忘れることできないでしょう?」と。
すると “ネエー”(ハ~イ)

男は確信した。自分の名前に何か面白い意味が…‥。

その日を境に、廊下ですれ違う若い女性作業員の仕草が劇的に変わった。
それまで伏し目がちに廊下の端に寄り、まるで上司とすれ違うようなつつましさから一転して、ニコニコ顔の視線でこちらを見つめ、手は腰のあたりでチラチラと小さく振っている若い娘までいる!
まるで可愛いペットに会った時のように変化したのが帰国の日まで続いた。

40年ぶりに解けたナゾ

やがて男にも定年が来た。67歳できっぱりと会社を辞めた。
「耕作放棄地」を活用した農作業、果樹栽培、コンサートや美術館めぐり、スイミング、多彩な分野での友達付き合いなど、会社勤務中にはできなかった「スローライフ」を存分に愉しんだ。

そして学びごととして、絵画教室とハングル講座に通い始めた。

初回のハングル講座で、受講の動機を各人が発表するよう、講師から求められた。
韓流ドラマをより楽しめるようにとか、一人で韓国旅行がしたいからとか、Kポップがなんとか、キムチがどうとか、現地での食事がどうのとか…皆さんモロモロの動機を口にした。

そんな中、男は言った。
「私は韓国に50~60回出張しましたが、僅かに簡単な固有名詞の読みができるくらいで、文章の読み書きや会話は全くできません。その罪滅ぼしに、簡単な会話と読み・書きができるくらいになりたいと思い参加しました」

その場にいた講座参加者のほぼ全員が、「一人だけ浮いてる、変なおっちゃんやなあ~」と感じているらしいことが男にもわかった。

ハングル講座が始まって1年が過ぎた。
韓国語の基本の発音は、日本語の51文字に比べて約400文字と圧倒的に多い。
しかし、言語の仕組みが分かると、何とか韓日辞典を引くことができるようになった。

男は思った。
金浦空港で名前を呼ばれた時の、皆の驚きの表情は何だったのだろう? 大学病院の呼び出しディスプレイを見た時の、人々のざわめきは何だったのだろう? またあの若い女性作業員たちの、可愛い仕草の意味は? 何か、人には言えない意味があるのでは? あれからずっと、その疑問が消えることはなかったのだ。

長年胸中にあった疑問を解明するため、自分の氏名の発音から、いろいろハングル文字を組合せて単語を作り、韓日辞典で宝探しをするように探しに探した。

やっと、あった!
韓国語の発音で「せ(しぇ)っき」とは…? そこには子供たちがケンカ相手を罵るときに使う、下品で思いっきり汚い言葉「糞ガキ」「クソっ垂れ」などの訳が日本語で並んでいた。

自分はビジネスの重要な場面で、何十回この名で自己紹介をしただろう。「私の名前はクソっ垂れです」と満面の笑顔で挨拶したことだろうか。韓国でのビジネス相手は、気づきつつも口に出して教えてはくれる人はいなかった。あまりにも気の毒と思っての配慮だったのだろう。

男は、自分の行く先々で巻き起こった不思議な光景を思い出した。
空港や病院では、「何かいわくつきの、危険なヤツ?」と思われたのかも知れない。知らなかったのは自分だけだったのだ。
そして、40年前の韓国での出来事が次から次へと脳裏に甦り、顔が赤くなるのを感じた。

 

 

 

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