いつからか銀翼に恋して Vol.10

      2019/11/07

◆1980年12月15日、ジャンボ機機長としての初飛行は羽田―福岡最終便でした。
※写真は参考画像/2010年12月18日 JAL B747-400Dラストフライトで福岡空港到着のようす。

 

‘70年代、空の花形はジャンボジェット機へ

 イタリアのローマを基地にヨーロッパ、中東を飛んでいた2年の間に日本の航空事情も大きく変わりました。
 1978年(昭和53年)5月20日、反対運動に揺れた成田新東京国際空港が開港、その年の6月7日には日本航空の有償旅客が創業以来、国内国際合わせて1億人を突破しました。

 国内の航空は大量輸送の時代となり日本航空では主力であったDC8からDC10 、B747へと置き換わってゆきました。国内幹線ライバルの全日空もL1011(トライスター)に加え、1979年(昭和54年)早々、B747SR(スーパージャンボ)を国内線に導入、日本の主要空港は大型ジェット機の時代となります。

 

日本航空

◆DC-8

◆DC-10

◆B747SR

◆B747-100 巡航速度905km/h、航続距離9,130km、座席432~462席。翼の全幅は約60メートル、航続距離は9,000kmを超えた。

全日空

◆L-1011 トライスター

◆B747SR

機長養成トライアルメンバーの一員に

 一方で、パイロットは不足した状態が続き、路便拡大も儘ならず事業計画は頭打ち、とりわけ時間を要する機長の養成は会社の成長を左右する喫緊の課題でした。

 戦後の民間航空再開に際し、半官半民会社であった日本航空は国策で国際線と国内幹線のみの運航とされていたので、副操縦士は担当する路線により多少の違いはあるものの、操縦できる機会が月間4~6回程度と十分な離着陸経験を積むことができません。離着陸機会の多い国内線の運航は、ほとんどが機長養成昇格訓練、副操縦士昇格路線訓練に充てられていましたのでレギュラー副操縦士が国内線を飛ぶ機会は限られていました。

 機長養成訓練にはB727、DC8、そしてDC10が充てられていましたが、国内線でB747の運航比率が増すにつれ訓練に使用できる便数が減少、これまでの養成数を維持するためにはB747でも機長養成を開始することが必要になってきました。
 社内の一部には超大型機で大量のお客様の命を預かる機長に、小型機などの機種で機長を経験していない副操縦士をいきなりB747 の機長として発令することに抵抗があったのも事実、当時、このようなプロモ-ションチャンネルを持つ航空会社は世界に皆無だったので無理もないことでした。

 とはいえ、事業の維持拡大のネックとなる機長養成数の確保は至上命題であったので、B747での養成開始にむけて40歳代の自衛隊出身の副操縦士4名、30歳代のセカンドオフィサーを経験した副操縦士4名の2グループ、合計8名の要員を選定しトライアルを開始することとなりました。
 幸いなことに、私はローマに駐在していたおかげで機長養成機種のDC10への移行が遅れていたこともあり、トライアルメンバーの一人に指名されます。

機長免許取得までの遠い道

 航空会社の機長として飛行するには、これまでの「事業用操縦士技能証明」免許では不足で、またまた国家試験を受験し「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得しなければなりません。
 申請に必要な飛行時間、その他の要件を満たし、学科試験に合格すると実地試験を受審する資格が得られます。私はローマ在勤中に学科試験を済ませていたので、1979年(昭和54年)7月に帰国後、荷をほどく間もなくシミュレーター訓練、アメリカ・ワシントン州モーゼスレークでの局地飛行訓練に投入され実地国家試験を受審、「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得しました。ちなみに免許番号は2434、日本で2434人目の免許保持者となった次第です。

◆日本で2434人目、「定期運送用操縦士技能証明」免許を取得

日本航空の機長養成課程

 日本航空の機長養成課程は1972年(昭和47年)に発生した連続事故の反省から他航空会社と比較しても手厚く厳しいものでした。

 路線訓練は国内線と韓国線などの近距離で月間25区間程度が組まれ、左側の機長席に機長昇格候補者、右側の副操縦士席に教官機長と、通常の運航とは逆の着席位置で運航します。
 期間は最低限一年、これは世界で起こりうる気象状態、霧による低視程や低雲高での進入、強風横風や豪雨、雪氷滑走路での離着陸、台風、積乱雲、ジェット気流などによる気流の擾乱への対処など、日本の四季を過ごすことにより一層の対応能力向上、運航品質の底上げを図る意図もありました。

3段階プログラムの路線訓練

 かくして今から40年前の10月、路線訓練に入ります。航空を取り巻く環境、機材の進化などで現在の運用とは多少異なりますが、当時の路線訓練は3段階にプログラムされそれぞれの達成基準を満たすと次の段階に進みます。

 第1段階は離着陸など操縦技術の向上が主な目標で、巡航以外は原則手動操縦となっていました。飛行機は高度が上がるにつれ空気密度も薄くなるので、ほんの少しの操舵で機体が敏感に反応します。同時に航空路の中心線上を飛行するために、上空の風を読み機首方位の修正も必要で一時も気が抜けません。通常の運航が離着陸以外のほとんどを自動操縦、慣性航法装置を活用しているのとは大きな違いで古い初期の機材で運航するようなものでした。もっとも国際線ばかりで操縦の機会が少なかった副操縦士にとって経験を補うに十分なものでした。

 第2段階に入ると高度1万フィート(約三千メートル)以上の自動操縦、慣性航法装置を利用しての飛行が解禁され、機長としてのマネージメント能力の向上を主眼とした訓練へとステップアップしてゆきます。

パイロットの仕事(羽田ー福岡便の場合)

 では、ここで少しパイロットの仕事について羽田―福岡便を例にお話ししたいと思います。

 乗務当日、国内線の場合は便出発の1時間20分前までにオペレーションセンターに出頭、同乗クルーをチェックしディスパッチルーム(運航管理室)で運航に係る気象状況、航空情報、使用機材の整備状況など必要事項を確認し巡航高度、搭載燃料を決定、飛行計画書にディスパッチャー(運航管理者)と機長がサインし使用機に向かいます。

 駐機場につくと機体をひと回りして外部点検、異状ないことを確認後、機内に入り客室乗務員と打ち合わせ、おおよそ出発30分前にコックピット(操縦室)に入り出発準備を開始、機外の出発作業が順調であれば国内線では出発15分~20分前にお客様の搭乗が始まります。
 その間コックピットでは搭載燃料、離陸重量と重心位置の確認を行い航空機関士が離陸データ(離陸推力、速度、離陸引き上げ角度など)を作成。出発準備完了5分前になると地上の整備士から連絡が来るので管制塔に出発5分前を告げ、到着地までの管制承認を発出してもらいます。

 すべてのドアが閉じられるとエンジンを4,3,2,1と始動し離陸滑走路(通常は向かい風の)に向かい管制官の離陸許可{Cleared for Take-off}を得て滑走を始めます。約40秒で離陸すると東京湾上で反転し神奈川県座間から名古屋に向かいますが、東京の西部はいまだに米軍が管理する空域が広がっており、しばし横田基地の管制指示に従うことになります。

 福岡行きは1万~1万2千メートルが常用巡航高度で、上昇飛行は離陸後30分ほど、雲がなければ左側に富士山がご覧になれます。

◆富士山

◆南アルプス

 続いて南アルプスを越えると右側遠方には北アルプスの山々、右眼下の木曾駒ケ岳を過ぎると名古屋、そして琵琶湖南の大津、岡山(現在の経路は彦根、高梁)山口県の豊田町へと飛行します。巡航中、左席からは淡路島、小豆島、しまなみ海道など、右席からは日本海、伯耆大山、萩の町などがご覧になれます。

◆しまなみ海道

◆響灘

 到着の30分程前から着陸のための降下を始め、響灘に出るころ、福岡空港の進入管制に引き継がれレーダー誘導が始まります。福岡空港は海陸風の影響が強く、日中は北西風が卓越し南側から北に向かっての着陸となることが多く、その場合は玄界灘上を降下しながら志賀島の方向に誘導され、パイロットが空港の視認を通報すると、それからは目視飛行となり滑走路から平行に2.5マイル(約4.6㎞)西の場周経路に高度1800ft(550m)で進入します。場周経路上には当時高宮にあったテレビ西日本のアンテナが良い目標になりました。

◆高宮にあったテレビ西日本の電波塔

 滑走路と平行に南に飛び続け滑走路端真横地点から40秒ほど飛行したのち、雑餉隈のNHKラジオアンテナを巻くように左旋回、滑走路34(磁方位337度)に着陸となります。

 逆に南寄りの風の時は、雁ノ巣から滑走路16(磁方位157度)に直線進入し着陸します。通常は、この滑走路16がより効率的な運用ができることから主滑走路となっており、追い風5m/秒までなら離着陸に使用されています。
 駐機場に到着後、お客様の降機が完了すると休む間もなく折り返し便の出発準備に取り掛かるか、福岡で乗務終了となる場合は市内のホテルに宿泊、つぎのフライトに備えます。博多はうまいものが沢山でクルー達に人気の宿泊地でした。

35歳、世界で最も若いジャンボ機機長に!

 機長昇格路線訓練は順調に進み1年で終了、引き続き局地飛行訓練を受け運輸省航空局審査官の技能審査、路線審査に合格、1980年(昭和55年)12月11日、社長から機長の辞令を拝受、日本航空で初めての副操縦士からB747機長に昇格、世界でも最も若いジャンボ機機長になることができました。

◆機長として出発準備中(航空情報誌に掲載されたもの)

 機長としての初飛行は12月15日、羽田―千歳を往復して福岡迄の予定でした。ところが千歳の天候不良(新米機長に適用される着陸条件を満たさない)により機長交代となり、結局、福岡行き最終の377便で初飛行、午後21時54分、滑走路16に着陸、その日は同乗クルーと中洲の屋台で祝杯をあげました。

◆同乗クルーと中洲の屋台で祝杯を!

 二日目は午後の366便で滑走路34から羽田に向けて離陸、たまたま仕事で空港の近くに居たという親父が、滑走路端の市道に車を止めて我が便の離陸を見守っていたとのこと、嬉しくも有難いことでした。

 

 

 

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