いつからか銀翼に恋して〔日本航空回顧録〕VOL.13 NAPA運航乗員訓練所

      2022/09/01

 
寿禄会の皆さん、ご無沙汰しております。

コロナ禍で不自由を強いられた2021年もあとわずかとなりました。

 

カリフォルニア州「ナパ運航乗員訓練所」教頭に就任

 さて、もう四半世紀以上前のことになりますが、私は1993年8月から1996年10月の3年間、息子を日本に残し妻娘、2匹の犬とナパで暮らしました。

◆アメリカ一のワイン生産量を誇るカリフォルニア州、中でもナパは最高品質のワインを生産することで知られるエリア。

 ナパはアメリカ西海岸のサンフランシスコから、北に高速道路で40分ほど走ったところにあるワイン醸造、牧畜、そして観光が産業の葡萄畑と牧場が広がるのどかな田舎町です。

 私達、自社養成一期生は初期飛行訓練をサンディエゴの飛行学校で受けました。日本航空はその後、養成数の拡大に伴い基礎訓練を自営とし、日本の操縦免許を取得させる方式に変更。1971年11月「ナパ運航乗員訓練所」を開設します。
 機長養成教官、国内路線室主席操縦士として約6年間、主に国内線を飛び、後輩の育成に携わっていた流れで、今度は基礎訓練を担当すべくナパでの訓練を総括する教頭に指名されました。

 「ナパ運航乗員訓練所」は単発機と双発ターボプロップ機で自社養成課程の訓練生に操縦免許を取得させる基礎訓練と、旅客機運航につなげる複数パイロットでの運航訓練を担う組織です。
 航空大学校卒の訓練生も入所しますが、すでに操縦免許を取得しており、複数パイロット運航の訓練課程を修了すると卒業となり、日本で旅客機の副操縦士昇格訓練に進みます。

 

日本初の社内パイロット養成施設

 一般大学卒の自社養成訓練生は操縦免許取得訓練から始まりますので、指導に当たる教官は航空法により操縦教育の技能証明保持者でなければなりません。よって、私もまた国家試験(筆記と飛行教育技能試験)に挑戦することとなり、当時、長崎県大村市にあった日航子会社が運営していた飛行学校で4月から4か月間、飛行教育訓練を受けました。

 訓練機はビーチクラフト社のボナンザで、小型単発機の飛行はサンディエゴでの初期訓練以来24年振り、計画では単独飛行も有り、旅客機とは異次元の空に戻り心躍るものでしたが、戸惑いと不安もありました。

 訓練は、2年前(平成3年)に大火砕流で多くの犠牲を出した雲仙岳の煙がまだ見える有明海上空で空中飛行課目、今は佐賀空港となった埋め立て地での低空飛行課目、離着陸訓練を長崎空港の長短二つの滑走路で、そして野外航法訓練を南は種子島まで、九州のほぼ全域で行われました。
 生憎、梅雨の時季であり訓練に適さない日も多く、予定より遅れた8月11日に操縦教育技能証明を取得、「ナパ運航乗員訓練所」に赴任しました。

 ナパは定期便の就航地サンフランシスコに近く、気候も秋から冬は太平洋からの海霧が西風に乗って街を覆う日が多いものの、午後には雲一つない青い空となるのがほとんどで、年間を通じて安定しており、訓練基地であるナパカウンティ飛行場も滑走路が長短3本あり、小型機の訓練に申し分ないところでした。

◆30機が配置された単発訓練機

 訓練所開設にあたり、ナパ市は誘致に積極的でしたが、当時はメキシコからの季節労働者(葡萄農場)以外は白人の町で市議会の一部に反対もあったようです。

 もちろん、アメリカで訓練を実施するわけですから制約がありました。
飛行教官にはアメリカ人を雇用しなければなりませんし、すべて連邦航空法に従って運営することになります。

 訓練の主体は大型機の経験のないアメリカ人に委ね、日本人は大型旅客機操縦ノウハウ、会社の教育方針を指導し管理すること、訓練生の私生活を含めたカウンセリング業務、そして日本の操縦免許を取得させるために日本の航空局の認定を受けたチェッカー(技能審査員)による実地試験、社内認定試験の実施などを担うために現役の機長、副操縦士が数多く配置されていました。
 教頭の職務は、訓練全般の掌握管理、駐在機長、副操縦士の管理、アメリカ人チーフ教官を介してのアメリカ人教官の管理、訓練生の管理など多岐にわたりました。

 

試験不合格で夢をあきらめる者も

 訓練生総数は、受託していた日本エアシステム(JAS),南西航空(現JTA)の訓練生も含め200名以上の大所帯でした。自社養成の訓練生は2年、航空大出身訓練生は8か月、和食も提供する専用の食堂、プール、テニスコートを備えた寮で起居、厳しいながらも恵まれた環境で訓練に励み巣立ってゆきます。

 ただし、このような中にあっても採用の過程では見極めきれなかった、エアラインパイロットに向いていない訓練生がどうしても出てきてしまいます。訓練課程中、自社養成では修了認定を含め10回の審査を突破しなければなりません。社員としては優秀で申し分ない若者たちでしたが、努力の甲斐なく再試験に不合格となると訓練中止、約4%の訓練生がエアラインパイロットへの道を絶たれました。

 幸い、社員の身分は保証されていた(私達の時代はクビ)ので希望する職種への進路変更が可能で、総合職として力を発揮し活躍していますし、退社してのちに衆議院議員、地方の市長になった人もいます。残念ながら、エアラインパイロットには向いていなかったというだけでした。

 1996年10月に離任するまでの3年2か月、入所から卒業までを見た訓練生は216名(内1名女性、第一号女性エアラインパイロット)、在籍していた訓練生は317名にのぼり、今では日本航空の運航を支えるベテランパイロットに育っています。

 

伊藤博彦君とゴールデンゲートブリッジを遊覧飛行

 訓練所には、各界要人や多くの航空関係者が訪れましたが、日本航空ニューヨーク駐在員であった福高同期の伊藤博彦さんも業務で立ち寄ってくれ、私の操縦でゴールデンゲートブリッジの周辺を遊覧飛行したことは痛快な思い出です。その後、彼は重要ポストを歴任しJALカードの副社長を最後にリタイヤーしました。

◆福高同期の伊藤博彦さんと

 

家族とふれあう時間がふえた訓練所勤務

 仕事を離れた、ナパのプライベート生活は快適でした。朝夕の冷え込みがあるものの、年間を通して昼間は半袖で過ごせるドライな気候。自然豊かな環境に恵まれ毎日の激務を癒すには良いところでした。

 しかしながら、中学2年生半ばであった娘は、いきなり外人(邦人から見た)ばかりの英語の世界に放り込まれ、心細い辛い日々だったと思います。放課後は日本人に慣れた家庭教師に英会話の特訓をお願いしました。
カリフォルニアは中学が2年、高校4年制でしたから、渡米後10か月余りで地元の高校進学となりました。。

 週末はサンフランシスコや、近郊のショッピングモールでの買い出し、ワイナリー巡り、名所めぐりのドライブなど家庭サービスに努めました。
 大リーグ観戦でキャンドルスティック球場にも行きました。ドジャースの野茂投手がジャイアンツ相手にノーヒットノーランを達成したゲームです。

◆キャンドルスティック球場と野茂投手

 また、近郊にはゴルフ場も多く、地元住民、教官や訓練生とのラウンドを数多く楽しめました。訓練所のゴルフコンペでホールインワンを達成したのも懐かしい思い出の一つです。

 平日は早朝から夜まで仕事に追われ、息つく暇もありませんでしたが、毎日自宅に戻る生活は結婚以来初めてでしたし、週末には出張者や訓練生を招いて食事会など妻には負担をかけました。

◆左:ゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコ市街 右上:マスタードフラワー 右下:葡萄畑

 

大空をめざす青年たちの夢とともに

 自然豊かな田舎町、春には桜に似た真っ白なアーモンドの花、マスタードフラワーの黄色い花が咲き乱れ、秋になると葡萄がたわわに実りワイナリーではワインの仕込みが始まります。
 日本と違い冬は山が緑に、夏は草が枯れて茶褐色に、澄んで乾いた大気、夜空に満天の星を仰ぐ日々、3年と2か月、空にあこがれた青年たちの真っ白なキャンバスに色を付けることができた仕事、イタリアとはまた違ったアメリカでの生活は忘れられない思い出となりました。

 

 

 

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