【059】真宗大谷派難波別院(南御堂)

      2022/12/30

 

  koya tanaka 田中 功也

【059】

◆御朱印

◆南御堂(一部工事中)◆南御堂(一部工事中)◆南御堂内部

 

 

 【059】真宗大谷派難波別院(南御堂)
    /大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目1-11

 

18日夕方、大阪のメインストリート御堂筋に面した、南御堂として親しまれる真宗大谷派難波別院を訪れる。

地下鉄御堂筋線本町駅8番出口から徒歩5分。高層ビルの谷間に南御堂がある。参拝する人もまばらな黄昏時。

南御堂は、大阪(大坂)という地名の名付け親として知られる本願寺第8代・蓮如上人が82歳の時、明応5年(1496)現在の大阪城の地に「大坂坊舎」を建立したことに始まる。

その後、京都の山科本願寺が破却されたことから、大坂坊舎が天文2年(1533)本寺と定められ、大坂本願寺(石山本願寺)となる。

戦国時代、教如上人の父、顕如上人の時、信長と本願寺、全国の真宗門徒との間で11年におよぶ石山合戦が行われた。

和睦後、教如上人は和歌山に退去し、寺基が移される。信長の後をついだ秀吉から京都に寺地を寄進され、西本願寺となる。

隠居の身となった教如上人は、その後も念仏の教えを各地に広め、安土桃山時代の文禄4年(1595)大谷本願寺を建立。2年後秀吉の大阪城拡張と城下の町制改革により現在の難波別院のある地へ移転する。

慶長7年(1602)家康により京都烏丸七条の地が寄進され、教如上人は京都へ寺基を移す。

東本願寺(真宗大谷派の本山・真宗本廟)の建立とともに、大阪の大谷本願寺を難波御堂(難波別院)とし、大阪における念仏の中心的な道場とする。

コロナ禍で、久し振りに御堂筋を歩く。黄昏時、どこか外国に来たような気分を味わう。

南御堂の境内には松尾芭蕉の句碑がある。

「旅に病で ゆめは枯野を かけまはる」

 

 

 

 - 御朱印わんだーらんど