「江副さんとリクルートと私」 第四章④/小野塚満郎

      2021/08/19

 

ダイエーへの株譲渡  ※この項は、江副さん著「かもめが翔んだ日」第三章を要約した内容に、著者の体験をプラスして記しています。

 リクルート事件を機に、江副さんが経営から退いたあとも、リクルートの業績は増収増益、
グループ全体で売上高は1兆円を超え、利益は1千億円を超えていました。

 しかし、江副さんにとってそれはつかの間の安息でしかありませんでした。不動産の急激な値下がりでリクルートコスモスの業績が急降下、グループのノンバンク・ファーストファイナンス(FF)の不良債権も拡大。苦慮の末江副さんは、ダイエーの中内功会長に助けを求め、個人所有のリクルート株を譲渡することにしたのです。

 平成4年(1992年)、ダイエーはリクルート株の35%を取得し、リクルートはダイエーの傘下に入ることになりました。それは長いリクルートの歴史の中でも唯一の停滞、江副さんにとっては挫折の日々の始まりだったと言えるかもしれません。

 「かもめが翔んだ日」第三章で江副さんは、ダイエーへ株式譲渡をするに至った経緯について詳しく書いています。リクルート全株の3分の1に当たる、454億円の話です。銀行に返済した残りの金額の小切手のコピーが、私の手元に残っています。

 平成4年(1992年)5月22日、江副さん所有のリクルート株のダイエーへの譲渡が報道され、ダイエーのリクルートへの資本参加が発表されると、リクルート社員や関係者の間に動揺が広がりました。ダイエーカラーがオレンジであることから、それは「オレンジショック」と呼ばれました。江副さんはこの背景にあった真実を、いつか伝えたいと考えていたようです。

不動産価格急落・コスモスの危機

 平成2年(1990年)8月、公定歩合が6%に引き上げられました。1年前の公定歩合は3.25%、わずか1年の間に4回の引き上げが行われ、マンションの売れ行きは急速に落ち込んでいきました。さらに同年10月10日から5夜連続で放映されたNHKスペシャル「緊急土地改革~地価は下げられる」が、経営環境の悪化に追い打ちをかけることになりました。同年12月、コスモスの契約率は当初目標の10%にまで落ち、完成在庫が大量に発生しました。

 年が明けると週1回午後7時から「Nビル会議」と称するコスモス問題を議論するリクルートの常務会が、 (財)江副育英会の事務所で行われるようになりました。
 コスモスの取締役会は、リクルートにマンションの完成在庫を買い取ってほしいと要請していましたが、リクルートの常務会は反対でした。
「リクルートがコスモス支援のため完成在庫を買い取れば、社員が反発しますよ」
「リクルートがコスモスと心中するのは避けたいですね」
などの意見が述べられました。

 これに対して、グループ会社の資金調達を長年担ってきた財務担当の奥住専務は、
「高収益会社のリクルートが、コスモスを見捨てることはできません。それは世間が許しませんよ」と、常務会に理解を求めていました。

 異なる意見のコンセンサスを求めて結論を出す、調整型の位田社長は容易に結論を出すことができませんでした。

 平成3年7月、都内ホテルで常務会が開かれ、その席で江副さんから、
「リクルートがコスモスを支援し、いずれ深刻な事態になるよりも、この際思い切ってコスモスをリクルートから切り離してはどうだろうか」
「コスモスは株式公開企業で、証券市場でそれなりの価格がついている。いまコスモス株を他のディベロッパーに売却し、リクルートの資本系列から外してはどうか」
との案が常務会に提案されました。

 その場は重苦しい空気で包まれ、発言をする者もいませんでした。コスモスの役員や課長クラス以上の役職者の多くは、元リクルートのマネージャーです。彼らの気持ちを考えると、コスモスをリクルートから切り離すのは忍びないという思いがその場を支配していました。

グループ最高経営会議発足

 平成3年(1990年)秋、位田社長、江副さん、財務担当の奥住専務、事業担当の河野専務、大沢リクルートグループ社長会議長、社外重役の亀倉先生からなるグループ最高経営会議が発足。場所を江副さんの事務所からリクルート11階会議室に移し、週1回会議を開くことになりました。奥住さんから依頼され、関連企業室から財務部長に戻っていた私は、この会議の事務局になって同席しました。

 平成4年(1991年)の年が明けても、地価は下げ止まる気配がありませんでした。新聞の経済面は、「企業倒産は負債総額が7兆7737億円と過去最高に達する…」などの暗いニュースで埋められました。
 経済雑誌でも毎号のように不良債権問題の特集が組まれていました。
「ノンバンクの遅すぎた反省――進まぬ不動産売却のいらだちと銀行管理転落への焦燥」
「不動産、ノンバンク、どかんと来る日――どうなる不動産、どうするノンバンク」等々。

ノンバンクFFの崩壊

 コスモスの経営不振と連座する形で、FFも危機的状況を迎えていました。

 FFのスタートは昭和52年(1977年)。コスモスの事業と連携させ、マンション購入希望者でローンが組めない人向けのローン会社として設立されたものです。
 事業内容としては、FFが銀行から融資を受けてマンション購入者とローン契約を結びます。万一返済が不可能になった場合は、マンションを引き取り中古市場で売却すれば融資した資金を回収できます。実際そういうケースも起こりましたが、損失にはなりませんでした。中古マンションが値上がりしていたからです。江副さんはFFを、コスモスの販売促進につながり、かつ利鞘も稼げる"住宅ローンの隙間を埋める事業"と信じて疑いませんでした。

 FFでは経営陣を銀行から迎え、店舗は大阪、新宿などに5店舗を展開して積極的な拡大策を推進。昭和63年(1988年)には融資残高が5,000億円を超え、融資額で第二地銀の中位行と肩を並べる金融機関になっていました。

 FFの経営陣は将来の株式公開を目指し、早くから準備を進めていました。
「大蔵省の規制を受けないノンバンクの株式を公開すれば、低利の資金調達が可能になる」
「資本を直接市場から集めた方が、調達コストも安く、銀行より有利な金融機関になれる」
と、夢を膨らませていたのです。

 ところが平成2年(1990年)の秋から始まった不動産の急速な値下がりで、突然融資先からの利払いがストップ。平成3年(1991年)には地価はさらに下落し、不良債権が大量に発生、業績はみるみる泥沼に落ち込んでいきました。それはまさに、膨らんだ風船に穴が開き、急速にしぼんでいくかのようだったと江副さんは述懐しています。

銀行管理か他社の資本参加か

 コスモスの経営状況は日を追って厳しくなっていきました。見放すか支援するか判断の時期が迫ってきました。

 平成4年(1992年)4月23日の最高経営会議で、島田再建プロジェクト室長から、  「FFが抱えている不良債権の担保と、コスモスの不良資産、リクルートの所有資産含み益を合算すると担保割れ寸前であること。リクルート、コスモス、FF3社の連結決算は、わずかだが黒字であること」との報告がなされました。これを踏まえ江副さんは、リクルートグループが銀行の管理下に入るか、他社の資本参加を許すか、どちらかを選ぶしかないと考えるようになりました。

 リクルートの強みは、社員が自由闊達に働き、権限委譲が進んでいて、経営の意思決定が速いことです。しかし銀行の管理下に入れば、その強みは失われるでしょう。その点外部の資本を入れての信用補強であれば、リクルートの美点が失われることはないのではないか。銀行の管理より、社長以下執行部を残してもらえる形での外部の資本参加の方がいいと考えるようになりました。そして江副さんの気持ちはM&A、つまり自分のリクルート株を信頼できる経営者に売却する方向に傾いていったのです。

忘れられない中内さんのご恩

 そんな江副さんが白羽の矢を立てたのが、流通業界最大手ダイエーの中内功会長でした。 平成4年(1992年)5月4日、江副さんは中内さんと会談。交渉は順調に進んでいきました。

 江副さんが株譲渡に当たって中内さんに提示した条件は、位田社長以下執行部を全員残すこと、グループの1兆8000億円の借入金を承知することで、中内さんは江副さんの希望をすべて了解されました。同年5月19日、帝国ホテル901号室で、江副さんと中内さん、ダイエー藤本専務の3人で契約書の確認がなされ、この日をもって交渉は終了しました。

 江副さんの株譲渡騒ぎが治まり、中内さんが時々リクルートに顔を見せられることがありました。狭いエレベーターの中に乗り合わせても、誰も特別扱いしません。女子社員も気軽に話しかけていました。中内さんはこの雰囲気を気にいられ、しばしば訪問されるようになりました。リクルートに来るのが楽しみなように見受けられました。中内さんはリクルートの経営に関しては一切口出しをされませんでした。リクルートは粛々と、コスモス・FF支援プログラムを作成、銀行交渉を進めていきました。

 それから10数年後、今度はダイエーの経営状況が悪化し、リクルート株を買い戻すことになりました。江副さんが売却した時の倍以上の価格でした。リクルートの業績は順調、
1兆8000億円の借入金も返済が進み実質無借金経営になっていました。

 今ダイエーの名は消滅し、江副さんも中内さんも故人となり、二人にまつわるエピソードを知る人も少なくなりました。しかしリクルートが、リクルート事件とバブル崩壊の二重の困難を乗り越えられた要因の一つは、中内さんがほぼ無条件で救済の手を差し伸べてくれたことに間違いはありません。あの苦しい日々を知るOBの一人として、中内さんから頂いたご恩を忘れることができません。

 

1兆6千億円の借入金返済プログラム

 平成4年(1992年)、江副さんはダイエーへの株式譲渡を済ませ裁判に専念、位田さんは銀行相手に、リクルートは子会社コスモスとFFを支援していく旨を伝えました。

ハードな"課題解決"任務が4年間続く

 同年8月、私は11階会議室での待機を終了、10階の財務部長の席へ戻り、銀行対応仕事に向かうことになりました。新聞には「底見えぬマンション不況」「悲鳴の業者投げ売り」「中堅不動産軒並み収益悪化」などの記事が乱れ飛んでいました。私のリクルート"課題解決担当"任務の中でも、これが最後で最もハードな仕事になりました。そしてこの仕事は
平成8年(1996年)まで4年間続きました。

 コスモス、FFへの支援計画検討会議が、G8ビル11階会議室で開かれるようになりました。RGS会議と呼んでいました。目的はコスモスとFFの実態を把握し、支援方法・支援額の検討を行うことでした。私はこの会議に出ながら、財務部長本来の仕事である、対銀行交渉に当たっていました。当時の財務部には、リクルートの優秀なメンバー20人近くが揃っていました。興銀、日債銀、日長銀そして都市銀行、地方銀行、生損保等40を超える金融機関と各種交渉を開始しました。

 コスモス・FF両社への支援の記録を見ると、1991年3月、手元資金742億円でコスモスから在庫マンションの購入を開始、コスモスの赤字に対応。1992年からは本格的支援を開始し、コスモス一次支援として、リクルートが銀行借入資金1780億円でコスモスの在庫物件を購入、コスモスはその資金を銀行に返済。1992年、FFの一次支援として
1120億円をリクルートが銀行から借入、FFへ低金利で貸付、FFはそれを銀行へ返済。FF二次支援として、5978億円の借入金を肩代わり。コスモス二次支援として、G7ビルを
604億円で購入、不動産物件1152億円を購入…などの記載があります。 

 その結果リクルートは、合計で1兆円近い資金を調達、本体の借入金を合せると
1兆6千億円の借入金残高となりました。これら両社への支援は、銀行にとっては、不動産会社およびノンバンクへの不良貸付金が、リクルートへの正常な貸付金になったことを意味します。銀行にとってはメリットが大きく、交渉に支障はありませんでした。

 プログラム作成最後の難関が、リクルート本体の借入金の「担保解除、オール借入オール不動産担保協定」の調印でした。リクルートの自主再建・借入金の返済に、本体の不動産売却は必要不可欠のものです。不動産には銀行個別に担保が設定されています。リクルート自主再建計画を安定して進めるには、金融機関全部が安定していることが必要です。そのためには銀行間の借り入れシェアが一定であることが不可欠でした。それを実現するために、本体の不動産担保をすべて解除、「オール借入オール不動産担保協定」が必要でした。売却して得た資金を、借入金のシェアで各行に返済していく、これは画期的なことでした。
 協定書への調印が完了したのが平成8年(1996年)3月、銀行交渉は終わりました。
あとは不動産を売却し、シェア返済を粛々と進め行くだけになりました。

 財務部長に戻って最初の1年はG8ビル11階会議室で江副さんの株売却会議に参加、続く4年間は10階財務部へ戻り、会議、会議の連続、財務メンバーの会議、RGS会議、そして銀行交渉…。常に江副さんに報告し相談をしていました。

 その時江副さんから言われていたことは、『小野塚君、金利は下がる、金利が安い短期借入金のシェアを高めなさい』でした。バブル時の金利は、長期で6~7パーセント、
短期で3~4パーセント、ピーク時で街金融では10%を越えていました。長期借入金は固定金利で安定した借入金、短期借入金は変動金利、返済を求められ、不安定な借入金です。しかし、借入金額が巨額なので返済を求められてもできませんが、借り続けることは可能でした。低い金利の借入金のシェアを増やし維持することに努めました。

 金利は江副さんの言う通り、どんどん下がって行きました。リクルートが支払っていた金利は、多い時で年間700~800億円です。これがみるみる減って行ったのです。
平成7年(1995年)3月期のリクルート経常利益は283億円、平成8年3月期では
423億円になりました。金利は年々下がり続け、リクルートの経常利益は増え続けました。
そして10年を待たずに、計画の目標を達成しました。

 私のリクルートでの課題解決任務は終了しました。平成8年(1996年)4月、私は子会社リクルートフロムエーの監査役に異動しました。フロムエーは超優良子会社で、私が働く必要はありませんでした。フロムエービル10階の会議室で行われる、役員会に出席するだけでした。時間にゆとりができ、以降は江副さんの相手をすることが多くなりました。

 

 

 

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