「その時、君は?」【002】1964 Apr. 寿禄会生 0.9%の青春

      2019/09/16

 

その時、僕は、防衛大学校の門をくぐっていました。

 この企画言い出しっぺの竹田範弘です。その時、君は?【001】で既報の通り、住田章夫君の「青春と原潜」を読み熱い思いが湧いて来たことが、当企画立案のきっかけになったのですが、その時僕は、防衛大学校に入り、自衛官の道を目指していました。

 住田君の手記を読んだ或る旧友が「竹田君は防大に行ったけん、こげんなこつ無かったろうばって、俺達はな…」と言うのです。
 確かに僕の場合、学生運動や大学紛争とは無縁。全く蚊帳の外でした。然し、昭和39年福岡高校卒業生449名の内、わずか4名の防大進学者の「青春」はどんなものだったか、99.1%の人たちには味わえない世界を見てきましたので、暫くお時間を拝借しましょう。

※当企画趣旨に共感いただき、「その時、君は?」の記念すべき第1走者になってくれた住田章夫君の投稿については、コチラをご覧ください。

 

1964 Apr.

 

その時、君は? 【002】 竹田 範弘

◆入校当時の防衛大学校本部(本館)

 

1964 Apr.  蒼空に翻る日の丸に迎えられて

 1964年(昭和39年)3月31日、母・姉が見送る中、博多駅を朝9時出発。信じられないでしょうが、僕には生まれて2回目の関門トンネル越えで、かつ初めての関東への旅であり、そして丸1日掛りの旅でした。

 翌朝7時、横須賀駅に到着。バスで防大に向かい、憧れの防大正門に立った時、突如ラッパの音が響き、国歌が流れ始めました。すぐ近くの学校本部屋上に揚がる国旗の方を向きましたが、青空に広がった日の丸を目にした瞬間、それ迄の不安と緊張感は素っ飛び、唯々素直に美しいと感じました。

◆防衛大学校12期生入校式(体育館)

 受付で「対番学生」と言う2年生の人が付いて、全ての世話と指導をしてくれました。僕の対番学生は鹿児島出身の久木元さん。身体検査や制服受領などの間にもあれこれ懇切丁寧に教えてくれます。予備で得た知識すべてを洗い流して着せ替えてくれる、そんな実感でした。

◆学生舎前で外出点検(当時は土曜午後、日曜・祝日朝) 外出予定者は週番学生による容儀等の点検を受ける。

 昼食はカレーライス。規則に従って夕食・入浴を済まし、22時の消灯ラッパを聞きながら、毛布・シーツのみで仕上げたベッドで就寝。翌朝6時。起床ラッパで飛び起き、学生舎の前に集まって乾布摩擦と日朝点呼。まさしく生活が一変しました。が、感傷に浸る余裕などありません。住田君の手記中の「○○自由、△△勝手」などとは全く別世界でした。

 同時入学の福高16回生阿部保之君とは大隊が違ったので、会えたのは後日になりました。また、この翌年、亀山好弘・岩切勲両君の入校を迎えました。こうして、僕の青春と言うべき4年間の防大生活が始まりました。この4月1日の事は生涯忘れることができません。

 

防大での人間交流

 1年生には「入校訓練」という2週間ほどの導入期間があります。基本教練、体育及び講話などですが、この段階で辞めていく人が出ます。自衛官としての道に決心がつかない、防大生活を続ける自信が持てない、この2つが理由だったと思います。しかし、この心の揺れも夏休みで落ち着きます。僕の傍では辞めた人は無かったのですが、2年生の時、対番学生として縁が出来た吉武君が夏休みで辞めました。とても寂しくなり、冬休みに出身地佐賀まで会いに行きました。彼は教師の道に進みましたが、今も便りを続けています。

 対番学生は勿論のこと、上級生は思いやりを持ちつつ、真摯な態度で接してくれ、粗暴な言動や体罰など一切ありませんでした。これは防大の理念でもあり、伝統でもあり、当時は当然のことと思っていましたが、今はこういう母校を誇りに思っています。

 一方、入校当初、同じ部屋になった同期の岩猿君とは自習室でも机を並べた仲ですが、残念ながら数年前、68歳で亡くなりました。
 彼が東部方面総監部幕僚副長の時、年末の入院隊員の見舞に行った折に、「自衛隊に余人を以て替え難いという仕事は1つも無い。原隊の事は気にせず十分に治せ」と諭した話を、随行した医官からお聞きし、我が事の様に嬉しく思いました。

 これは岩猿君の人格のみならず、防大生活の間に培われたものと思います。こういう世界でしたので同期生や上・下級生との友情は今なお続いていますし、励まし合って頑張った僕達の青春の日々は今でも輝いています。

◆上・下級生皆での室会 校外クラブで外泊して楽しむ。

 

1964 Oct.  なれなかった東京五輪プラカード要員

 前回の東京オリンピック映像を見て下さい。各国選手団の前を国名プラカードを持って行進したのは実は防大生です。1年生と2年生から選抜されたのですが、残念ながら僕は選から漏れました。選ばれていたら世紀の祭典の良き思い出になったでしょうに。奇妙なことに、その落選理由が、結婚後、妻に言われた一言で腑に落ちました。

「あなた、ズボンの裾上げをすると、左右の脚の長さが違ってますわよ」
思えば、選抜検査の時、細かい格子のボックスに入って不動の姿勢の写真を撮られましたが、つまり姿勢が少し傾いていたのでしょうか。なぜか7年後にその落選理由を知ることになったのです。

 晴れの選抜者が神宮国立競技場で、オリンピック出場選手と一緒に胸張って予行演習したその日、我が日本のプラカード要員、小早川君は帰って来てから、ポツリ一言。
「面白くないな」
「どうしたんだ」と聞くと、「池田さんに子供扱いされた」と言います。女子体操のベテラン池田敬子さんでした。ママさん選手から見れば、さすがの防大1年生・2年生などまだ子供子供だったのでしょう。本人は覚えていないようですが、微笑ましく思い出します。

 

学生隊の3大イベント――カッター競技・断郊競技・棒倒し

 学生隊の3つの伝統競技は忘れられません。新2年生がカッター競技を、新3年生が断郊競技を行います。4年生の指導で4月一杯訓練し、5月の連休前に競技会です。これが終わって一人前の2年生・3年生と言う訳です。

 「カッター競技」とは短艇(ボート)を漕ぐもので、お尻は擦り切れ、手は豆だらけ。「断郊競技」は背嚢を背負い水筒を下げて半長靴で、10名位の分隊で野山を走ります。全員がゴールしないと失格。弱い者・不調の者をサポートして走りますので競技全部がチームプレー。使える時間をすべて活用して訓練します。4年生の責任者が監督・指導し、他の者は口出しできません。見守って激励するのみ。同期生は苦しさを共有して頑張りますから、教室に戻れば、互いに励まし、慰めあったものです。だから競技会が終わった時は、やり遂げた喜びに満たされました。

◆カッター(短艇)競技  ゴールに平行して縦一線に並び、号砲と同時に90度舳先を回してゴールに突き進む。

◆断郊競技  分隊(チーム)が一丸となって走る。 右は、苦しい坂を一緒に走る竹田と倉岡君・宮崎君。

 「棒倒し」は全学年が参加して大隊で1チームです。予選の後、開校記念日に決勝戦を行います。150名のチームを攻撃・防御に分けて2面で同時に開始。競技の真髄は、戦術どおりに攻撃と防御を一糸乱れず行えるか否か、それが鍵です。各個の乱戦はなにも評価されません。競技会を目指した緊張の中の訓練を通じて友情と団結(チームプレー)を学びましたが、齢をとった今、色々の情景が懐かしく思い浮かびます。

 

反自衛隊の世情の中で

 当時、自衛官に対し「税金泥棒」という言葉が使われたことがあります。幸い僕自身はその言葉に晒されたことはありませんが、大江健三郎氏の「防大学生は、僕等若い世代の弱みで恥辱だ」という言葉には反発を覚えました。人格を否定されたような気がしたのです。

 市ヶ谷で自害する前の三島由紀夫氏の、自衛隊員に対する呼び掛けの言葉にも侮辱感を禁じ得ませんでした。特に反発を覚えた言葉は、次の檄です。

「おまえら、聞け、聞け、静かにせい。諸君は武士だろう」
「どうして、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ」
「俺と一緒に立つ奴は居ないのか。一人も居ないんだな。それでも武士か」

 僕はその時「俺達の思いを馬鹿にするな」と心から叫びました。政治的信条は別として、僕達は「自衛隊は国民のためにある」と教えられて、また伝えてきましたので、東日本大震災の出動時など後輩たちが働く姿を見て、嬉しく、かつ頼もしく思いました。

 

1966 Nov. 過激派学生との鉢合わせ

 確か3年生の時ですから、昭和41年の秋です。自衛隊記念日に行われる神宮外苑絵画館前での観閲式を終えて、横須賀の防大に帰る時でした。京浜急行は蒲田付近の駅で、数人のヘルメット姿の学生が同じ車両に乗り込んで来ました。

◆神宮外苑絵画館前で観閲行進をする防衛大学校学生隊。(自衛隊記念日)

 その頃は「羽田事件」前夜とも言える時期で、その方面で暴れて来たのでしょう、一瞬、リーダーらしき学生と目が合いました。小銃を持っている私たちに何を感じたのか、すっと目をそらせて、次の駅で降りて行きました。突然の、それも僅か数分の出来事でしたが、あの時の人達はその後どう生きたのでしょう、会ってみたいような気もします。僕は彼らに反発を覚えた様な記憶もありませんが、彼らの過激な行動の意味も理解出来ませんでした。
注:自衛隊観閲式は、現在は朝霞訓練場で行われていて、防大からはバス移動です。

◆防大12期の陸上要員9班(基礎工学Ⅱ専攻)3年・4年の2年間寝食を共にした生涯の友。

◆4年生時、学生隊第4大隊学生長の指名を受けた。

◆沖縄復帰4年前、幹部候補生学校での沖縄研修。(南部戦跡)

 

1968 Jun. F4ファントム九大に墜落

 住田君の手記にある昭和43年6月、F4ファントム墜落の時は、防大卒業後、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で教育を受けていました。皆が「ここには二度とクルメエー(久留米)」と言う程の忙しさで、午前は教室で戦術等の教育、午後は戦闘訓練や体育という、それこそ分刻みの毎日でした。こんな中で、ハードな伝統行事の高良山走は皆、必死で頑張りました。記録保持者は、東京五輪(昭和39年)マラソン銅メダルの円谷選手で、五輪2年後入校時のタイムです。

 10月には大阪の第37普通科(歩兵)連隊配属となり赴任。新聞では連日「機体は渡さない」という福岡市民挙げての反対が続いた後、正月明けに漸く撤去の報道があったことを記憶しています。
 僕たちはその時期には、御殿場富士学校で普通科(歩兵)・機甲科(戦車)・特科(砲兵)初級幹部に対する8ケ月の実地教育を受けました。すると今度は、東大安田講堂の攻防が報道されはじめ、日本中が何か騒然としてきました。

 

70年安保に向けた治安行動訓練

 大阪の連隊に赴任すると、70年安保に備えて治安行動訓練が本格的に始まる時でした。初めての小隊長勤務は演習場に訓練用市街地を作る作業でした。連隊勤務の2年半は実質、治安行動訓練ばかり。警察と同じ様な制圧行動の訓練もしましたが、僕は「自衛隊は最後の最後まで出動するべきでない」と思っていました。

 連隊長も同じ信条だったのでしょう。隊員には通常の戦闘服の更新をさせず古品を着させて、全員分の新品には階級章・名札も付けて倉庫に保管させ、万全を期して有事に備えました。そして何事もなく過ぎたことは幸いでした。

 

1970 Apr. 大学紛争で国立受験できず

 昭和45年(1970年)4月、6歳下になる高卒隊員への教育中に、陸上幕僚監部(陸幕)からの電報が入り、大学院受験準備のため急遽、防大に行けとの指示が出ました。防大には7名ほどが集まり、卒業2年を経ての猛勉強です。

 本来、陸幕の計画は国立大学への派遣でしたが、東京工大などに問い合わせても、幹部自衛官であることで公然と受験拒否。それで、防大の理工学研究科(修士相当、2年)を受験。そして9月に連隊に戻り、その直前に見合いをしました。そしてサクラサクの防大大学院合格通知。連隊長は僕を残したかったようですが、その場ではっきりと「行きたいと思います」と答え、結果、その一言が結婚をも決めました。

◆自習室で大学院受験準備勉強中の竹田、ベッドも入れて頑張った。

 振り返れば、この時期は「高度成長」の時代。70年安保の年は大阪万博。自衛隊では隊員募集に大変苦労し、大阪など都市部では街頭での勧誘も行うほどでした。私が教育を担当した「3月隊員」と言うのは新卒で金の卵です。皆、素直で眼は輝いていました。教育途中で他の人に託すのは忸怩たる思いでしたが、全員立派に育ってくれました。

 30歳の時から3年余、新設の防衛医大で1期生・2期生の訓練・生活指導に当たったことも忘れられません。そこでは福高16回の岡本順子さんと一緒に勤務できた事も嬉しい想い出です。こうして55歳の定年まで、「国の守り」を信条として勤めあげ、常に“祖国”と向き合ってきた「僕の青春時代」でした。

=終わり=

 

 

 

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