《メナムに吹く風》アナザーストーリー 君はクン・チャナイを知っているか? 《完》new

   

 

 8月10日の空調ギャラリー開所式典と記者会見に姿を見せたパイサン社長は結局、それが最後の公式行事となった。それまで2ヶ月置きに2週間、郊外トンブリ病院に入院して肺に溜まった水を抜くと聞いてはいたが、その後9月27日に入った儘、もう1ヶ月も出てこない。面会謝絶なので日本側からの照会にもこれ以上の説明ができず、その頃から本社では〝Xデー”の話が浮上し始めていた。

 11月10日には退院と聞いていたが、やはり長引くとの情報。症状を聞くとICU(集中治療室)でケムタルピー化学療法を施し、喉には穴をあけ、チューブによる流動食に変わり、付きっきりのバッチャリ夫人とは筆談の会話となった由。夫人が所用で戻るのを待ち受けて、或る日、勇気を奮って万が一の場合の質問をした。

 「まだ若いけど社長にはテパリットを立てて、是非あなたが支えて欲しいの。夫は今、息子に十分、言い聞かせています。暫定で私が繋ぐのは構いませんが」

 12月度役員会がまたもや社長欠席のまま開催されたが、その前に西堀海外事業部長は後継者問題について石田と思っていてよろしいか、の確認を派遣母体の大西専務住環境事業本部長に伺い出た。すると飛び上がるような回答が返ってきた。

 「石田では困る。彼には住環本としての事業軸に比重を移させ、海外戦略を全うして貰う積りなので“サイン権”は持たせない。W社経営に埋没させる任務は管轄元の国際本、もしくは筆頭売上の社会本の方から出すべきで、石田はいつでも引き戻せる立場に置いておくように」この指示により、国際、社会両事業本部は予想もせぬ事態発生に動揺した。

 その間、本社では夫人の暫定社長代行案を決め、夫人の了承を得るため、国際本花巻次長が来タイ。そして次回3月の役員会からの社長代行を依頼した。

 「それが済んで、4月には来日頂き、各関係方面へのご挨拶を宜しく。一同お待ちしています」
「畏まりました。その折には北岡社長へのお取次ぎも是非よろしく」

 ギョッ。考えてもいなかった申し出に、花巻と石田は顔を見合わせた。

 「W社は菱美とはパートナーであり、決してスタッフ(部下)ではありません。ご挨拶するのは当然だし、ましてや私にとっては最初の訪日行事なのですから」石田はこのおとなしい夫人に備わった強い気概に感心した。

 ‘96年2月27日0:40バンコク発に乗り、7:55成田到着。年計報告のため一時帰国した石田は薄寒い空港に降り立った。設備工事技術支援者 細野博之の出向に対し、本部内に費用対効果を訝る向きがあるとも聞き、前日深夜まで掛けて、将来を見通した企画書を書き上げてきた。

国王に尽くせ、 仏陀に尽くせ、 貧者に尽くせ

 まずは着替えをと、本社には昼からの出社を連絡し、懐かしのわが家で湯舟に浸かり、久し振りに妻の手になる「ほうれん草のお浸し」と「鮭の塩焼き」で遅い朝食をとっている時、自宅の電話が鳴った。外事業部からだったが、飛び上がる内容の電話であった。

 「石田さん。タイではパイサン社長が亡くなられたとかで騒いでますよ」

 直ぐに駐アジア事務所に確認すると間違いなかった。そしてW社から届いたという連絡文書をFAXして貰い、文面の 『Passed away(死去)』 の文字を見た時、遂にその時が来たかと胸が締め付けられた。

 本社に出ると皆が待っており、全部門の本部長が予定のスケジュールを変えて石田との面談に当てた。派遣元の住環境事業本部大西本部長、山崎副本部長からは、

 「あくまで君は住環境戦略の一翼を担って貰うのであり、経営責任のトップに立たせることは無いからね」との念を押され、細野氏派遣費用などの懸案事項は一挙に処理してくれた。

 国際事業本部の片山本部長は、                               「今後のW社体制については、先ず夫人の意向を確認した後、菱美側の対応を決めることにするので、君もそのつもりで行動してくれ給え」と、あくまで日本人が船頭になれる会社ではないとの姿勢を崩さない。

 そして社会事業本部の松田本部長、木村副本部長になると、

 「W社は本来、昇降機に絞り込むべきで、この際、不採算の非菱美事業は早く切り離すべきだ。相手に任せず、なぜ当社側から整理論を持ち出さないのか」と躍起もっき。石田はこの身勝手な方策は亡きパイサン社長に成り代って、何としても阻止せねばと、喋り続ける二人の前で固く心に誓うのであった。

 その日の18:20成田を発ち、23:30バンコク空港にとんぼ帰りした。石田は永く海外を担当し、パスポートも10冊目なのだが《同日出入国》の消印は、後にも先にもこの出張だけである。

 到着するや否や、テプシリン寺院に駆け付けた。通夜はすでに終わり、社員4名が居残り、後片付けをしていた。人気のない堂内に入ると、祭壇上の大きな遺影が笑みを浮かべ、戻った石田を見詰めている。

 「(おう。御苦労やったなぁ。あと頼むで)」一瞬、あの分厚い手で肩を揉まれている気がして、ジーンと眼が潤み、動けなくなった。

 翌朝、夫人とテパリット君に面会を求め、本社ビル最上階にある自宅に伺った。
「石田さん、すみません。こんなに早く逝ってしまうなんて。旧正月明けには帰れるとほんと、信じてたんですよ」

 臨終は2月27日午前1時。病名肺ガン。最後の会話は25日午後10時。これが家族との別れとなった。

 最後の言葉は何だったの?」非常に聞き辛かったのだが、石田はどうしても知りたかった。当然、喉には穴があけられているので、筆談となっている。テパリットが差し出したノートには弱々しいが精一杯の力強さで、タイ文字が書かれていた。そして彼が読んでくれた内容は、石田には想像のつかないことであった。

 《国王に尽くせ。 仏陀に尽くせ。 貧者に尽くせ。》

 会社のことでも家族のことでもなかった。これが〝華僑”の本懐というものか。私の最後の言い残しとは何だろう? 石田はいずれ来る日の覚悟を考えたが、あまりにもスケールが違い過ぎた。そして、七夜にわたる葬儀が始まった。

七夜にわたる葬儀

 通夜 

 《通夜》には王宮より国王の使者が遣わされ、故パイサン社長の手の平に〝聖水”が注がれ。そして菩提寺での百日供養がなされた後に、再び王室より火葬のための〝聖火”がもたらされることになっている。位牌には、《パイサン・スリラット・ウスドン 亨年51歳》時代に媚びず、真っ直ぐに生きた男の死であった。

 第二夜 

 《第二夜》はW社主催の葬儀で、数百人の弔問客をお迎えした。

 第三夜 

 「第三夜」は菱美電機グループ主催の葬儀で、日本からも続々、本社幹部が弔問に参列した。現地関連会社も毎日の列席で大忙しである。石田はこれを七夜続けると聞いた時、会社の仕事はその間、どうするのだろうと心配した。これが日本人とタイ人の意識の差であろうが、人間、何に価値観を置くべきなのか、改めて考えさせられた。

菱美本社副社長の弔辞

 さて葬儀の折、予期せぬ事態が生じた。菱美本社代表で来られた伊原副社長が、急に弔辞を読みたいと申し出されたのである。主催者代表幹事である下里所長は慌てると同時に頭を抱えた。タイの葬式にはその仕来たりがなく、当然、前例も無い。申し訳無いけど、《霊前に奉書》ということで副社長にはご納得頂こう、と所長は覚悟した。

 しかし石田はパイサン社長としては伊原さんの弔辞ならば聞きたがるのでは?と日本人的感覚で思った。それくらいお二人の付き合いは永く、それよりパイサン氏のことを誰よりも理解されていたからである。石田はその足で葬儀委員長の叔父とバッチャリ夫人に申し出てみたところ、暫くして返事があった。坊さんが退場し終え、参列者焼香が始まる前に弔辞を挟み込みましょうと。そしてそれは前代未聞のスペシャルイベントとなり、タイ語の通訳での弔辞は、彼の思いの丈がしみじみ伝わり、タイの人々を感動させた。

 「パイサンさん。貴台のあまりにも早い旅立ちを惜しむ大勢の菱美電機社員を代表して謹んでお別れの言葉を申し上げます。思えばお父上の時代、電力用機器から始まった当社とのご縁も実に40年。さらに昇降機・空調設備を中心とした合弁事業がスタートしてからも四半世紀という永く深いパートナーシップを築いて頂きました。

 貴台はこの仏様の国で幼時より身に付けられた信仰で、人のために尽くす広い心を持ちつつ、豪州留学時代に培われた合理的精神とのバランスも保ち、新しいアジア型青年実業家として将来を嘱望されていました。近年はとみに新分野に対し果敢に挑戦され、先見性に満ちた経営哲学のもと、絶えず将来を見つめて私共をリードして下さいました。

 今、当社が御地において隆々たる事業展開がなされているのも、偏に貴台の英邁な決断のおかげで、現地会社も円高や労働争議といった障害を乗り越える力を付けることができました。そして市内のビル群には貴台の残された足跡が紛れもなく日々の市民生活を支えています。 (中略)

 数々の栄光と共にこうして大勢の人々に惜しまれつつ旅立たれる貴台の御魂に、心をこめてお別れ申し上げます。さようなら、ミスター・パイサン」

 第四夜 

 「第四夜」は「テオホングループが主催」。W社の代表として石田が最前列に座った。先ず、4人の僧侶による読経が3回行われたが、なぜかしら仏前には「子供たちのみ」で夫人は堂外に座っている。何かの意味があるのだろう。スープ1椀の軽い食事が全員に配られ、暫しの休憩後、最後の読経となった。

 終わると各社の代表者から僧侶にお供え物が渡された。石鹸、歯磨、ちり紙など日用品の詰め合わせと花束、最後に袈裟が捧げられ、一拝一礼を3回繰り返された。終わると皆で車座になり、読経に合わせて聖水を金椀に注ぐ。そして僧侶が退場。ここまでが「タイ式葬儀」

 そのあとは「中国式の締め」となり、全員焼香。代表者が前列に並び、30cmの長い線香を持ち、花、果物、お茶を捧げ、線香で3回、輪を描いて霊前に供える。そして全員で3礼。所要時間、1時間半であった。

 この日、不思議な話を聞いた。パイサン社長が逝った翌日、永年のお付き運転手が亡くなったそうである。別に殉死という話ではなく、前の年から肝臓ガンで入院中であったらしい。これを聞いた皆は言った。

 「いつものようにパイサン社長を送って行くんだろう。渋滞になっても安心だ」

 第五夜 

 「第五夜」の葬儀は“夢”のような光景であった。金糸の刺繍の入った白装束の王室使者がシリキット王女の名代で花束を厳かに霊前に供え終わると、黒いリムジンで静かに去り、皆は合掌して見送った。

 この日は太鼓と銅鑼、笛、銅鉦、胡弓、胡琴これでもかと、これでもかと耳を劈く響きから始まった。3人の中国僧が立ち上がった侭、木魚を叩き、これらの演奏に合わせて唄うが如く、読経する。僧衣はタイ僧と同じ黄橙色だが、タイが右肩から身に纏う「ビルマの竪琴スタイル」に対し、中国のそれは香港カンフー映画で見る「襟のある着流し」。5人の息子・娘たちは麻の衣に麻の帽子。親戚の子供たちも白や青の三角巾を頭に付け、大勢座っている。タイ式も中国式も葬儀は「死者の次の世代の者たち」によって執り行われるということをこの夜、初めて知った。

 読経が終わるとパイサン氏の上着を着せた吊り人形を先頭に、堂内に組まれた小さな橋を3回渡り、そこでまた読経したあと、今度は逆回りで3回橋を渡り戻る。その間、打ち続く銅鑼の音、なんとも賑やかな葬式である。圧巻はそののち全員、中庭に移り、紙で作った箪笥、食器棚、テーブル、テレビ、洗濯機そして自動車。下男、下女の人形もある。皆、天国に持って行かせるのである。最後に黄金御殿が引かれて来た。その上に金紙で作ったお金を全員で投げ入れ、長男テパリットが点火した。漆黒の闇に金色の炎が上がる。立ち上がる炎の渦と共に、パイサン社長の魂が昇って行った。まるで 《夢の絵巻》である。

 第六夜 

 「第六夜」。今日は“万仏節”。タイ陰暦3月の満月夜。「その昔、釈迦の弟子1250人が何の前触れも無しに集まった謂れをもつ祝日」なのである。

 お寺では信者たちが読経のあと僧侶とともに線香、蠟燭、花束を持って本堂を3周する仕来りらしい。そこでこの日は葬儀は無く、家族のみでお祈りした。

 第七夜 

 そして最後の「第七夜」、「出棺」の儀式である。これまでの葬儀は午後6時から8時であったが、この日は午前9時半より1人の中国僧による読経が始まり、10時半から10人のタイ僧の読経に引き継がれた。11時半、読経が終わって昼食が用意された。W社2階のレストランスタッフ総出で準備し、境内に見事なビュッフェが出来上がった。

 12時半。最後のお別れ。参列者全員が列を作り一人一人、薔薇の花と白と黒の紙に包まれた土塊を祭壇に供える。その後、タイ僧の先導で一本の糸で結ばれた棺は、皆でその糸を引きながら、別のお堂に移される。

 そのお堂で明日から「百日供養」が始まり、毎週火曜日の夕方、石田たちはお参りし、都合13回、足を運ぶことになる。その間、棺の方は毎日、ドライアイスを詰め替える。そして百日目、国王の使者によりもたらされた〝聖火”でパイサン社長は「火葬」されるのである。

 7日間ぶっ通しで葬儀に立ち会った石田は思った。毎日、読経に浸り、遺影に合掌し続けると、なぜか〝悲しさ”というものがなくなる。いつの間にか、パイサン氏が胸の中に入ってきている感じがするのである。7日間といっても石田は夜だけである。家族は夜昼、7日間ぶっ続けで亡き父の前で時を過ごすに近い訳で、もっと渾然一体となっているだろう。通夜の晩,子たちは棺に取り縋って号泣していたと聞いたが、日に日にその悲しみは消え、7日目には棺の前で談笑する姉弟を見て安堵した。

 《死者を弔う》とはこのように在るべきかも知れない。これから百日の供養ともなれば尚更である。それに引き替え、わが国における葬式の簡潔さというか、形骸化のさまには何と言うべきや。別れを惜しむ間もなく、只々慌ただしく、葬儀屋によるそつない流れ作業で営まれる有り様では、故人も霊魂去り難く成仏できぬのでは・・・と考え込む石田であった。

 そして三カ月後の6月16日、漸く「百日供養」が終わった。今日はパイサン氏の火葬が行われる。朝9時半。読経が始まった。僧侶の数たるや何と53人。堂内、まさに坊さんだらけである。「亨年プラス2」がこの国の習わしとのこと。

 11時。読経が終わり、坊さんに食膳が用意された。W社事業部長全員が進んで配膳係をやっている。それが功徳になるという。それではと石田も中に入り、子供のような坊さんが混じっている一角に御飯をついで回った。笑顔があどけない少年僧であった。

 午後2時。棺は寺院中央広場の火葬場に移され、フィナーレの準備となった。午後4時半。国王の使者が聖火を硝子容器に入れ、入場。数百人の参列者は全員起立し、来賓代表の最高裁プラマン長官(あれれ、あの人、ビルマルチ2号機を買って頂いた御仁ではないか)が点火。皆が持つ藁の花輪が焼却炉に投じられ、高く燃え上がった。

シャム湾への散骨

 それから2日後。故人の遺言によりシャム湾にて「洋上散骨」することとなった。午前9時。W社幹部社員が河口に集合。石田は遊覧船にでも乗るのかと辺りを見回したが、それらしき姿なし。目の前のあるのは大きな銃座を据えた巡視艇1隻のみ。暫くすると、皆がその船に乗り込み始めた。実は水上警察の特別な計らいを得たことをあとで知った。やはり故パイサン社長の遺徳であろう。

 シャム湾の真ん中に出た。エンジンが停止し、読経が始まった。そして花束の花弁が摘みとられ、大きな盆の三宝にうず高く積まれ、皆それぞれが出したコイン(小銭)と混ぜ合された。それが終わると全員に線香と薔薇の花が配られ、僧侶を先頭に舳先へと進み出た。

 テパリットの手によりパイサン氏の骨壺がそっと海面に投ぜられ、花弁とコインが撒かれた。すると皆一斉に薔薇の花を投げ始めたのである。何か映画を観ているような光景であった。娘たちは顔を手で覆い、夫人はキッとした眼で流れる壺に手を振る。夫人と二人の娘と三人の息子。今日を境に次なる人生へと大きく踏み出す。何とも荘厳な100日に亘る父との別れであった。

 

若き次期社長に最後のアドバイス

 翌日の11:00、臨時の事業部長会議が招集された。何事であろうと10人の事業部長以下、16名の幹部が会場である1階の空調ギャラリーのプレゼンテーション・ルームに集まった。そしてバッチャリ新社長を先頭にして、石田と高杉が入って来た。夫人は集まった皆を見渡し、おもむろに言った。

 「石田さんが帰国することになりました」

 その一瞬、息を飲むように会場はシーンと静まり返った。

 「菱美の本社へご栄転されるとのことで非常に喜ばしいのですが、W社にとってはとっても残念です。でも今度は日本から私どもを応援して下さいます」

 これはW社からの感謝の気持ちですと赤い小さな箱を渡し、開けるとそれは純金のネックレスであった。石田はそれを握りしめ、最後のスピーチを行なった。

 「私自身も2年で帰るなんて夢にも思いませんでした。せめて来年12月の創立20周年記念を皆さんと一緒に祝いたかった。そのための出し物もいろいろ考えていたんですが・・・。パイサン社長が亡くなった後、夫人とテパリット新社長の新しい舞台も準備できたことで、本社もこれを一応の区切りとして、低迷を続けている日本の市場を助けよとの示命です」

 「タイもこの好況は‘99年が境でしょう。間違いなく景気の後退に直面しますので、新たな21世紀に生き残る為には、今の内からW社の肥満体質を筋肉質化しておかねばなりません。日本でのリストラは〝経費節減゛と〝人員削減″の手段しか残っていませんでしたが、幸か不幸かW社にはまだそれ以前に改善できることが残っています。そのためのNewW-ingです。是非このNewW-ingを成功させて、来年の記念パーティには必ず私も呼んで下さい」

 短い挨拶ではあったが、石田はこの2年間に掛けた思いの丈をすべてぶつけた。それに応えるかのように自然に事業部長たちからは別れを惜しむ拍手が起こった。

 その夜、パイサンファミリーが石田のために送別晩餐会を設けてくれた。場所は『チャイナパレス』。それは超豪華な中華料理店であった。夫人にテパリット君。そして二人の姉と二人の弟。彼らに囲まれ、ワイワイ円卓を囲んでいると、石田はフッと何か家族の一員になっているような錯覚に襲われた。

 「〈石田さん。僕、来年、日本に行くんです。〉」

 次男坊が言った。聞くと、彼は大学で電気を専攻しているが、来春4~6月、日本での実習が計画されており、どうも本人は卒業後はNTTへの就職を希望している様子。

 「〈OK。研修中は私が身元引受人になりましょう。任せなさい〉」

 「アリガトウゴザイマス」

 どうやら日本語の勉強も始めたのか、初めて試すときの恥じらいを見せながら、ニッコリ笑った顔があどけない。ディナーが終わった後、テパリットは石田を誘った。

 「石田さん。ちょっと飲みに行きませんか?」
「ほぉいいねえ。そうだな、この2年間、一度も行ってない店にするか」

 石田は『ペガサス』というご当地では有名な超豪華キャバレーを所望した。ゆうに100人以上のお客を迎えられる広いフロアには、同数近いホステスが煌びやかに着飾って、ボックスごとに談笑している。石田は赤いソファにゆったり腰を沈め、日本に帰ったらもうこんな処に来る機会も無いなと、ミラーボールの放つ七色の光の渦を見廻していた。

 〈チャイヨー(乾杯)〉グラスを差し出してきたテパリットがこう切り出した。

 「石田さん。最後に私に何か言い残してくれませんか」

 石田は思い掛けない彼の申し出に一瞬驚いたが、彼が何故、今まで言ったこともないような質問をするのか? 彼の思いを推し測り、こう答えた。

 「そうね。もう言う機会も無くなるからね。折角だからよく覚えておくんだよ。これから君は大きな力を持ってくる。ということは君に忠告する者が居なくなるということだ。だから代わりに、僕しか言えないことを言って置こう。君の判断力は心配してない。問題は人への接し方だね。

①部下に注意するときに指で机を叩くな。
②会議中に欠伸をするな。
③人には笑顔で話せ。

この三つを直せば、今のままで自然に自分の周りに人は集まってくるよ」 素直に頷くテパリットを見ていると、石田には弟のように思えた。

タイ駐在最後の日

 遂に10月15日。タイ駐在最後の日が来た。連日の送別会の飲み疲れが重なり、家に帰り着いても倒れ込むだけで、荷造りがさっぱり捗らない。今夜の10時半、否が応でもこの地を離れねばならない。

 早暁4時起床。冷たいシャワーをたっぷり浴びて、気を引き締めた。先ずは机に向って、書き残した50社以上への離任挨拶状へのサインに取り掛かった。7時に書き終え、朝食を摂ってから荷造り開始。10時、荷物の引き取り。合計、ダンボール14個。

 昼前、W社に取って返して、挨拶状5~6通に発見した英文ミスの手直しをマユリー女史に依頼した。午後の3時にはすべて終了し、その間、いろいろな人達が入れ替り立ち替わり、副社長室に挨拶に来た。

 そしてさあ、これでこの部屋ともお別れだなと見慣れたタイの風景画の傾きを直していると、入り口に誰かの気配。ふと振り返るとオペレーター嬢が立っている。受信メッセージかなと思ったら、何かもじもじしている。

 「〈もう、ほんとに帰るのですか?……。もう来ないんですか?〉」

 なんとベソをかいている。石田は吃驚を通り越して、慌てふためいた。誰かに見られて勘違いされてはかなわない。よりによって、何で最後の日にこうなるの? 700日もあってだよ。石田はそ~っと周りを見回し、視線が無いことを確かめて、パッと握手して彼女の好意に応えた。

 「〈チョークディーナカップ(君も元気でね)〉」

 そして社長室、本部長室を訪ね、会社での挨拶を済ませて、チャナイ運転手の待つボルボに乗り込んだ。

 「〈副社長。お世話になりました。またいろいろな頂き物、有難うございました〉」

 チャナイ君には今朝、卓上冷蔵庫やカセットプレーヤーなど現地で買った電化品をすべてプレゼントした。日本に持ち帰っても電圧が違うので使い物にならないし、同じあげるなら当然一番世話になった彼に渡したい。

2500年の歴史を持つタイ古式マッサージ

 「〈クン・チャナイ。6時半までに日本亭だから、ヨシッ、まだ1時間半はあるぞ、最後のマッサージといくか!〉」 泣いても笑ってもこれが最後。行きつけの『有馬温泉』にまっしぐら。

 「タイ古式マッサージ」は2500年前、仏陀の主治医ジバカ・クマー・バンカを創始者として、マッサージだけでなく、ハーブ、ミネラルによる治療もある。

 人体には72,000本もの「エナジーライン」があり、最も重要な10本を『SEN』と呼んだ。《不調の原因は足に在り》。足から始め、関節の付根を押さえ、血の巡りを一瞬止める等、血液循環コントロールを行いながら、徐々に身体の上部に向かって全身をほぐしていく。血行を促しながら、筋肉の柔軟性を高め、体質を改善する。これが「タイ古式マッサージ」の真髄である。

 料金は2時間で300バーツ(\1200)。マッサージ嬢にチップ100バーツ(\400)なので、合計400バーツ(\1600)。日本旅館で按摩さん呼ぶと40分\4000はするので半額以下である。

 これも日本人相手のマッサージ店の値段なので、タイ人相手の店だとチップ込みで300バーツ。しかし、そういう店の部屋は4~6床が並べられ、カーテンで仕切られただけなので、話し声が筒抜けで落ち着かない。そこでバカ話ができる2~5人用の和室借り切り専門店『ARIMA・ONSEN(有馬温泉)』を通称"タニヤ銀座"に見付けた。経営者が関西人で、数年前、日本人目当てにオープンしたらしい。成程という名前だ。

《タイ古式マッサージのアルゴリズム》

●最初は右足、左足、背中、肩の順に各30分が基本で、あとはお客の好みで按分する。
●マッサージ嬢は「指」だけでなく、肩揉みは「肘」、背中は「膝」をうまく使う。これがまた良く利く。
●先ず「手の指」「足の指」をポキッと言うまで曲げ、そのあと1本ずつ思いっきり引っ張る。
●「腰」の曲げは馬になった彼女の背中に仰向けに十文字に重なるや否や、思い切り揺すぶられた。
●そのあと、マットに俯せにされ、彼女が跨ってお客の両脇を下から掬い、思いっきり反り返らせる。ボキボキボキッ。                                     ●次にお客の頭を背にして跨り「足」を両脇に抱え、また思いっきり反り返る。ボキボキボキッ。

 「ジェップ、ジェップ!(痛たたたっ!)」と覚えたてのタイ語で叫ぶ。

そして極め付けは、お客を坐り直らせたあと、
●両手で頭と顎を掴んで、思いっきり「首」を左に曲げるのである。ゴキツ!まさしく不意打ちを喰らったので、首が折れたかと、飛び上がってしまった。
●そして仕上げ、今度は右にゴキッと再度曲げてオシマイ。

 通常コースは2時間、彼女たちは決して手を抜かない。これには感心する。肘と膝で、肩・腰のツボをグリグリすると絶頂の1時間。こればかりは日本には持って帰れない。

 最後のコース、腰揉みの30分。そこで、ビチャイ部長に訳して貰った《別れの挨拶》〝タイ伝統本格スピーチ”をおさらいした。ブツブツブツブツ。

 「〈ネハン(旦那さん)。大丈夫ですか?〉」 2年前、JAL機内でスチュアーデスから言われた同じ質問が、頭上からタイ語で降りてきた。

出国ゲートに響いたクン・チャナイの「BANZAI!」

 6時半。バンコク空港内にある『日本亭』で菱美電機出向者仲間による送別夕食会が用意され、皆で景気よくラスト乾杯をやった後、送迎ラウンジへと移動した。既にバッチャリ夫人以下、W社幹部、菱美関係者50人が待っていた。

 そして8時半.搭乗2時間前になった。全員がラウンジの中央を取り囲むように集まり、石田を最前列に押し出した。彼の前にバッチャリ夫人が進み出て、送る言葉とともに、石田の首に花のレイが掛けられた。

 「(ミスター石田。あなたには本当に感謝しています。主人が病を得て、息子もまだ卒業したてでまだ若く、非常に不安な状況のとき、菱美から応援に駈け付けて下さったばかりでなく、主人の事業に対する思いを一番良く理解して頂いて、本当に亡くなった主人も良かった、良かったと申して居りました。後のことはまた、良き理解者のミスター高杉が来て下さったので、テパリット共々、一緒に頑張って行きたいと思います。あなたもお国に戻られたら、是非、新しいお仕事にも成功して欲しいし、なにより来年の20周年記念には必ず、元気なお顔を見せて下さい。皆でお待ちしています)」

 石田にとってこれ以上の餞の言葉はなかった。

 そして石田の最後の挨拶になった。先ずは日本語で菱美の仲間に対して言った。「W社としては12年前、浜田さんをお送りして以来の日本人への見送りです。これからはもっと頻繁に、菱美との人事交流も始まると思いますので、皆様も是非、W社にもっともっと同じ仲間として、心からの応援をお願いします」

 次にW社の皆の方に向かって身を正し、おもむろに口を開いた。「〈ポンチャ、クラウ カムアンブラ(お別れの時がとうとう参りました)〉」と、切り出すつもりが肝心の〝カムアンブラ”が出ない。

 「有馬温泉」を出るまではしっかり覚えていたのだが、「日本亭」で呑んで何処かに消えてしまっていた。出ない!焦るとなお出ない。場がシーンとなってしまった。

 さてはさしもの石田も感極まって泣き出すのか?と一瞬、誰もが思ったが、当の本人は目を白黒させている。ついに、「〈アライナ?(何だったっけ)〉」 と、タイ語で言ったものだから場内大笑い。

 これで緊張が解け、あとはスラスラと一応の恰好は付いたが、この方が本人らしいやと皆に冷やかされ、実に和やかな雰囲気で出国ゲートでの万歳三唱となった。その中に一際、甲高いクン・チャナイの“BANZAI”がホールに響いた。

 22:30発JAL718便。2年過ごした生涯の思い出の地、バンコクから遂に離陸した。。

◆アソカラーム寺院

 

狙われた「香港返還式典」

 石田が駐在した2年間、毎日綴ってきた日記は680頁目で筆を置いたが、世の中はそれを終わらせなかった。

 帰国後、僅か半年後の1997年7月1日火曜。香港コンベンションセンターで挙行された「香港返還式典」には、155年振りの返還を祝うために世界中の華僑が集まっていた。その隙を突いて、タイ政府は抜き打ちで「バーツの切り下げ」を断行したのである。

 元はと言えば、米ドルとタイバーツの「評価ズレ」に起因する暴挙だが、5月に始まった米国ヘッジファンドによる「バーツの空売り」攻勢に、タイ政府は必死に「外貨切り崩し」で買い支えるもギブアップ。遂に「変動相場制」への移行を決意したのだが、いつ発表するかに迷った。

 そしてそれは経済界を支えるタイ華僑が出払った香港返還式典の翌日を狙った。当然、W社新社長も参列していたが、突然のテレフォンストームに場内騒然。それから二日間、電話回線はパンクした。

 W社は一瞬にして100億円の借入が140億円の返済に化けた。加えて、これまで有利だったドル為替予約が裏目に出て、併せて総額100億円強の特損が発生したのである。

 日系銀行のタイへの投資残高は4兆円。その被害総額は1兆円を超し、W社を担当した菱美銀行の支店長代理は自身1000億円の焦げ付きを苦に2ヶ月後、投身自殺を図った。

 そしてW社はその年の12月に行われる筈の、それには石田も招待される筈だった「創立20周年記念式典」を迎えるどころか、《事業売却》に追い込まれてしまった。その無念さを味わうこともなく旅立ったパイサン社長。

 「知らずに、良かったのかも知れません」

 今は小さいながらも、不動産業を営む御曹司テパリットのコールで、来日の際に八重洲のホテルで会った石田は、二人でパイサン社長を偲びながら、あの《黄金の日々》を語り合った。

 「親父もまた裸一貫で、浜田さんと一緒にビルを建てて、きっと冷たい風を吹かせてますよ」

=完=

 

 

 

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