母は東京での生活に行きづまり、僕たち親子は小学3年の1学期に東京を離れ帰福した。僕は再び宗像市赤間の祖母に引き取られ、中学1年まで祖母と過ごす。
祖母は"明治一代女"を称していいほどの生涯で、三男三女を育てあげた。祖母の夫(僕の爺ちゃん)は小学教員をしていたが、ある晩突然亡くなった。三女はまだ赤子だった。
「子供は小さいのに、アンタ死なんのってくれ」という祖母の悲痛な叫びは届かなかった。
それからの祖母の生き方は地味で謙虚、強靭…。牛馬のない生活で4反の田と若干の畑を人力のみで耕し、三男三女を育てあげた。長女は幼い三女を背に担いで泥だらけになり祖母を助けた。僕の母は次女である。
祖母は40代~50代頃に第二次大戦を経験し、収入は遺族年金のみであったが、三人の男子全員を大学に通わせた。長男は小学校長を経て地元有名大学の事務長になった。次男は大分法務局長になった。三男は九大法文に合格し、県庁の部長になった。三女は、ピアノなどない家庭にもかかわらず音楽教師になった。