追悼 中村 哲〔花と龍〕の生涯
2020/02/14
「今は100の診療所より、1本の用水路だ」。
アフガニスタンで永年、医療・農業支援に取り組んで来た福岡のNGO「ペシャワール会」会長の中村哲医師が、現地活動中に凶弾に倒れ1カ月が経った。
彼は私と同じ昭和21年生まれだが、一級下の福高後輩である。彼は35年前、パキスタンの州都ペシャワールに渡り、3つの診療所を開設するも、アフガンを襲った大旱魃を機に水源確保に注力。結果、「緑の大地計画」を実践し、灌漑用水路27Km、1600本の井戸、16,000haつまり山手線内面積の2倍半もの荒れ野を緑にした。
しかし非情にもこの平和主義者に対してテロの魔手が伸び、ましてや直前に大統領から直々に「名誉市民権」を授与されたことは、更に恰好の標的となってしまった。身近な友人には「死ぬのは自分一人でいい」と漏らしていたらしいが、その覚悟からか、当日は無防備にも助手席に座り、真正面から銃弾を浴びた。その捨て身の姿勢は一体、何処から生まれたのか。
祖父は「花と龍」の主人公
実は彼は小説『花と龍』の主人公「玉井金五郎」の孫であり、母は金五郎の次女秀子。その血縁で彼は外祖父と顔がそっくりである。その強靭な義侠心も金五郎譲りなのであろう。父、勉も玉井組傘下で「中村組」を立ち上げた。
金五郎の長男勝則は『麦と兵隊』など兵隊3部作の作者「火野葦平」で、中村君の伯父に当たる。従軍記者を辞めた後、父の思い出を小説にしたのが有名な『花と龍』である。
葦平は本家修多羅の玉井組屋敷の2階に書斎「河伯洞」を構え執筆活動に勤しんだ。そして疲れると隣家の綺麗な庭の緑に目を休め、時折、落ち葉を掃くふくよかな面立ちの娘と目が合い、お互い軽く会釈を交わした。その娘が私の母である。
隣家は川原家の本家で、川原組の屋敷であった。私の母方祖父藤儀三は南福岡曰佐の地主の末子。川原家の次女を娶り、川原傘下で「藤組」を立てた。然るに働き盛りの筈の彼は、母が9歳の折、急逝。祖母も追うように旅立ち、5人の子供たちは川原家に引き取られた。母が葦平と会釈を交わしたのはそれから10年くらいか、若松高女を出た頃と思われる。暫くして、同町内住田組の長男、登に嫁ぐ。洞海湾を巡る縁組であった。
その洞海湾。時は明治末期。玉井組と川原組は洞海湾の沖仲仕を束ねた荷役業者。玉井金五郎が四国松山から黒いダイヤで一旗揚げようと若松港に出てきた頃、私の曽祖父住田與次郎も宇和島から海を渡ったらしい。 アメリカ大西部におけるゴールドラッシュならぬ、我が国黎明のコールラッシュだったのである。
因みに50年前、私が宇和島の本家を訪ねた時、当主から住田家は伊達藩士で政宗の死後、宇和島への転封に随行。住吉様の世話役とかで「住」の一字を頂いたとか。本家の住所が「宇和島市住吉町」とあり、代々、和霊神社の宮総代を務めている。
住田家との浅からぬ縁
さて、筑豊炭田から遠賀川を下って石炭船を漕ぎだす男たちを「川筋男」と呼び、炭鉱町中間生まれの高倉健もその血筋を引く。一方、洞海湾に運び出された石炭を外国船に積み上げる男たちを「ごんぞう」と呼んだ。金五郎は虐げられた彼らを束ね、仲仕小組合を作り、生活を守った。が、港を仕切る門司の大親分吉田磯吉に疎まれ、嵐の夜、その配下に闇討ちされて14ヵ所も刺されるも、何とか命は取り留めた。
闇討ちの前だが、玉井組に殴り込みをかけるとの果し状が来た時、彼は一家の衆を皆帰し、単身で迎え打つ。小説を読むと当時の玉井組は住田の実家の先にある銭湯の裏手。既に家並みは変わっているが狭い路地裏の辺りと見当がつく。物語ではたった一人で待ち受ける金五郎の捨て身の迫力に、敵は尻込みし、誰一人切り込めなかったとか。
同じような話が私の祖父にもある。或る夜、與次郎が相手方に拘束された時、身長160cm小男の祖父春男は単身、素手で敵の事務所に乗り込み「親父を返してくれ」と啖呵を切って取り戻したと、生前の父から聞いた。我家にもそんな度胸の血が流れている。
金五郎は選炭場で出会った広島出身のマンと所帯を持ち、遭難後は組を若い衆に任せ、自らは政界に身を投じ、世の仕組みを変えるべく、若松の市議を永年務めた。そして皆に慕われる中、70歳の生涯を閉じる。
住田與次郎も最初は沖仲仕からスタートしたのだろうが、私の知る祖父は組の看板を「住田石炭商会」に替え、手広く仲買業を営んでおり、金五郎同様、市議を永く務めた地元の名士であった。市議同士の付き合いのお蔭か、私はよく玉井マンさんに抱っこされていたらしい。中村君も同じ腕に抱かれていたに違いない。いつか聞いてみたかった。
私は年子の弟が生まれたことで、祖父母に預けられ、修多羅幼稚園(祖父が園長)卒園まで若松で暮らした。今や洞海湾に大きく架かる若戸大橋の下に並ぶ灰色煉瓦の小組合事務所の前を歩けば、波止場に吹き渡る潮風の中に選炭場の女たちと、石炭船のごんぞうたちの掛け声が聞こえてくる。
次代へ受け継いでいく想い
中村哲君の悲報にはいまだショックが大きく、これからの残り少ない人生をどう生きて行くか、毎日考えている。
10年前、同会の伊藤氏が殺された折、仲間の皆を帰国させて自分だけ一人残ったのを聞いて、その強い信念に打たれ、僅かだが10万円支援した。まさしく金五郎の生き様そのものである。今回も遣る瀬無い思いで、お香典を供えたい。
私のライフワークは「温暖化防止」である。三菱電機卒業後、このテーマで東京電力に呼ばれた。その切っ掛けは洞爺湖サミットを翌年に控えた2007年、今よりずっと前向きな姿勢で環境問題に取り組んでいた時の政府が、遂に≪ヒートポンプで温暖化防止を≫という産官学プロジェクトを結成したことであった。
内閣府・東京大学・ヒートポンプ蓄熱センターは低炭素化社会実現の具体策の一つとして、脱化石燃料を目指したヒートポンプ空調方式の普及を促進。早速、推進室の東京電力は企業のプロを集め、1年掛けて情報整理した後、危機意識の高い欧州のフロン実態調査を実施。その調査に基づき「フロン排出規制法」が施行された。その成果を見極めている今日、何たることか、現政権は米中の顔色を窺うばかりで、COP25では各国の顰蹙を買い、加えて「化石賞」受賞という辱めを受けた。
環境活動家グレタ嬢の指摘する通り、この問題は我々の時代に解決すべきテーマであり、自分たちの子・孫たちにツケを回すものではない。そしてあの勇気ある彼女に二度と「How dare you!! (ええ加減にせんかい)」を言わせてはならない。
幸い私は今も現役であるお蔭で、空調業界のあるべき姿を皆に説いており、そういう場が持てていることに感謝している。