聞き書き 陸軍席田飛行場

      2019/07/22

 

はじめに・・・

寿禄会の皆さんとメールのやり取りをする中で、私たちが生まれた昭和20年(21年)当時のことを知りたい、知っておきたいと思うようになりました。きっかけになったのは、宝塚市にお住まいの関忠さんからお聞きした「陸軍 席田飛行場」建設にまつわる歴史秘話です。そして、話は膨らんで、先に紹介した「聞き書き 満州国の思い出」企画へと繋がっていきました。

今回ご紹介するのは、その関忠さんが幼い頃ご両親から聞いておられた福岡空港の前身、板付空港のそのまた前身「陸軍 席田飛行場」建設にまつわる話をもとに、今回ご高齢のご兄姉に追加取材され、さらに図書館や博物館に資料を求めて、まとめて下さったものです。
日本人として、また福岡人として、忘れてはならない貴重な証言が綴られていますので、ぜひお読みくださいね。(編集部)

※掲載の写真は関忠さんが図書館・博物館で入手された資料、およびネットで拝借したものです。

 

すべては1枚のハガキから

 昭和19年2月某日、席田村近隣の自営農家と小作農家および地主(不在地主)に、突然1枚のハガキが舞い込んだ。差出人は帝国陸軍・西部軍司令部。そこには1週間後に、当ハガキと忘れずに印鑑を持参し、東光町の福岡商業学校(現 東福岡高校)に出頭するよう記されていた。目的や理由は一切書かれていなかった。

 1週間後の2月25日当日は、朝から小雪がチラチラと舞う寒い日であった。堅粕にある商業学校の講堂におそるおそる集まった住民たちに告げられたのは驚くべき内容であった。

10日以内に家を壊して立ち退くこと

 長椅子が並べられた会場には憲兵たちが銃剣を構えて物々しい雰囲気。集会は陸軍将校の時局演説に続き、この国家存亡の危機に立ち向かうため飛行場を急遽作るとの話があった。

 飛ばす飛行機はなんぼでもあるが、飛行場がないので活用できない。そのため席田地区の農地と居住地を飛行場用地として接収する。飛行場建設予定地内の5地区の住民は家屋を壊して10日以内に立ち退くこと。なお戦争終了後に、元の状態にちゃんと復帰して返す。などの内容が演壇上から告げられた。

 そして、軍刀で演壇の床をゴツンと大きな音で突き、「文句あるやつ、国家の大事によもや反対するような不埒な輩はおらんやろな!」と威圧的に皆を睨みつけ、以上の話に反対する者は「非国民」すなわち「国賊」になる事を承知してもらいたいと付け加えた。

 最後に、掲示された地図の中で赤線で囲まれた農地の者(地主・自営農家・小作人)とそこに居住する住民は、帰りに忘れずに印鑑を押してから帰るようにと言い渡された。
 当日出頭したのは約500人、いきなり突き付けられた「非国民」や「国賊」の重い響きに、反対どころか口もきけるような雰囲気ではなかったと、専業農家だった父は言っていた。

 

◆消えた地名、残った地名 

 席田村の農地は豊かな福岡平野の東南部に位置し、別名席田平野とも呼ばれました。見事に区画整理された一帯は、春は菜の花とレンゲの花で黄色と赤の絨毯を敷き詰めたごとく、秋はたわわに実った稲穂が頭を垂れ、反当り7俵の収穫と菜種は県下一の生産量を誇る穀倉地帯であったと記録されています。

 私が福岡に居た頃、大人たちの会話の中に、未知の地名が時々出てくることがありました。それらは軍の飛行場建設のため、強制退去を強いられ消滅した集落の名前であると後年知りました。

 消滅した田屋、薦田、青木新屋、平尾新屋、古森の各村は、たまたま存在位置が平らで広い農地の中にあったため飛行場予定地として選ばれ、一方飛行場の東側(現ユニバ通り、東平尾公園側)の山際に在った村々(下臼井、上臼井、青木、平尾、宝満尾)はそのまま残りました。現在の国内線ターミナル前の県道と、ユニバ通りの間に位置する集落が残った村々です。(関 忠)

 

孤立無援の立ち退き作業

 壮年男子はほとんど兵隊へ徴られていた昭和19年、立ち退きを命じられたのは5集落・総戸数137戸。しかも10日以内に家屋を崩しての立ち退きである。慌てて大工を探すもいるはずがない。また移転先の保障も何もない。自分たちで移転先を探しながら、家屋を壊すことを強いられたのである。移転先は飛行場予定地外の近隣集落につてを求めて、近くの親戚筋・知人を頼っての移動となった。移動に際して、市や県などの公的な助けは一切なかったという。

建設作業始まる

 昭和19年3月から飛行場建設が始まった。重要軍事施設建設作業として、多くの作業員が集められた。農地を強制接収された近隣の農民、兵隊帰りの老齢者、朝鮮からの作業員、連合国捕虜などが作業に当たった。また大学、高等学校、福岡市内だけでなく近隣の中学校からも学徒が勤労奉仕で動員された。

 朝鮮からの作業員は当初、報酬を示して朝鮮半島から民間作業員を家族ぐるみで募集したようである。本格的工事に従事する労働者のための住居バラックを、まずその集められた作業員が建設した。こうした労働者用バラックが、村の周囲にたくさん建てられた。
 その後昭和19年6~7月頃には、戦況が悪化(サイパン陥落など)する中、本格的飛行場の建設が始まり、多数半島から強制連行(?)された労働者も作業に加わり、ついには月隈小学校、席田小学校の5・6年生も勤労奉仕として飛行場造りに駆り出されたそうである。

 半島から作業員を集め、全国に送り込む会社「玉藻組」が近くに事務所を構えていた。建設初期には玉藻組の管理者がわが家に寝泊まりすることもあったし、管理の将校が寝泊まりすることもあった。当時、国策に関わる人の宿泊を拒否することは一般人にはできなかったという。

悲惨な生活

 集められ朝鮮半島から来た人たちのバラックでの生活は悲惨な状況であったと、兄姉からよく聞かされていた。※当時、兄は旧制の中学生(筑紫中学 現在の筑紫丘高校)、姉は小学4~5年生(福高OGで第5回卒)であった。

 急遽作られたバラックは2軒長屋で壁は杉の皮2~3枚張り、屋根は稲ワラ葺き、畳はなく床は板敷。風呂と便所は共用であった。そこで生活する人たちは、一年を通して木綿の白い民族服で冬は寒そうに見えたという。作業する時は、下シャツをズボンに突っ込み、袢纏を羽織り、地下足袋姿であった。

 半島から来たバラックの子供たちも席田小学校に転入し、一時的に生徒数が多くなった。どの子にもシラミがたかっており学校中がシラミだらけになり大変だったという。

◆当時の席田小学校(玄関横には二宮金次郎像がある)

 

人海作戦

 作業は滑走路を作る土木工事である。現在では土木車両を使っての作業となるが、すべて人力作業であった。土を盛ったモッコ(縄で編んだ籠)を天秤棒に吊るし、両端を二人一組で担いでの作業。道具はスコップとツルハシ。戦争初期に奪った南方からの鹵獲品なのか、ローラーが1台あり、連合国捕虜が運転していた。農地には収穫前の菜種、麦などが育っていたが、そのまま工事で土の中に埋め込まれた。

連合国の捕虜も作業に加わった

 飛行場建設には連合国捕虜も従事し、朝、隊列を作って作業場まで行進していた。そのための収容所が、現空港通りの「天麩羅のひらお」や「牧のうどん」空港店が位置する辺りに設置され、先端の尖った板を並べた塀で囲まれていたという。彼らも食料不足のため、近くの農業用ため池で魚獲りをしていた。貴重な蛋白源であったのだろう。

 捕虜監督官が捕虜を連れてわが家にも何度かやって来た。質素ではあったが団子汁を作って食べさせてあげると、ある捕虜は時計職人だったようで食事のお礼にわが家の柱時計を修理し、茶碗もきれいに洗って帰ったと、当時小学生だった姉は語っている。
 またある時は、あまりにも捕虜が惨めなので、母が余った食料を(もちろん貧しいものであったが)差し出すと心から感謝されたと話していた。

完成前に集落が大火事

 飛行場が完成する半年前の昭和19年12月19日、その日は小雪混じりの西風が強く吹く寒い一日であった。滑走路はまだ完成していなかったが、出火の1~2時間前に、陸軍三式戦闘機(飛燕)が20数機着陸するのを兄ははっきりと記憶している。

 夕方、飛行場建設作業員のバラックから出火。バラックの粗末な煙突からの火の粉がわら屋根に燃え移ったのである。消防車も走ってきたが、ポンプが故障で放水がままならなかった。火はみるみる拡がり、わが家の方にも火の粉が飛んできた。わが家の母屋は瓦葺きであったが隣接してわら葺きの小屋があったため、火の粉と強風であっという間にわら葺きの小屋が燃え始め母屋まで火が回ってしまった。お仏壇を持ち出すのがやっとだったという。庭を挟んだ離れの瓦葺の炊事場と別棟の小屋は類焼を逃れた。そこがその後の家族の生活の場となった。

 この火事で、火元の作業員バラック数10棟と類焼で東平尾集落の20数軒が焼け落ちる大火となり、当時の新聞にも記事が残っている。

 

 

◆昭和19年12月21日の西日本新聞  火災より2日後に初めて紙面に小さく報じられた。(紙面を読むと半田藤兵衛ほか多数の住居が焼失したと記載されている)

 しかし、二日遅れの新聞紙上の半田藤兵衛さんは村の何処にも実在せず、飛行場建設のための作業員バラックから出火という事実も伏せられている。多分実在の人名を出すと、何かと都合が悪いことを当局は恐れ、架空の人名を使ったのであろう。また飛行場建設を隠ぺいするため、作業員バラックという言葉も使わなかったのではないかと思われる。

やっと滑走路が完成

 さまざまな曲折を経て、多くの一般人の有無を言わせぬ滅私奉公のもと、一年後の昭和20年5月に、ようやく長1000米の滑走路が完成した。飛行場の名前は「陸軍席田(むしろだ)飛行場」と命名された。

 飛行場と言っても、滑走路がメイン1本と横風用サブ1本、クリ石を敷き詰めその上にセメントで表面を平らにしたものである。雨が降れば、もともと水田地で全くの自然排水のままであったため、ちょっと多めの雨が降ると水没したという。

 戦後ではあるが昭和22年の米軍撮影の写真を見ると、メイン滑走路は現福岡空港の滑走路と同じ南北方向、長さは現在の半分くらい。横風用サブ滑走路はメインの北端を斜めに交叉している。

 完成は5月であるが 実際はそれ以前に試験的に飛行機が飛んでくることがあった。飛行場近くの小高い山には、高射砲や機関銃が据え付けられた。
 空襲が多くなり、敵機もたびたび飛来した。ある時は、捕虜収容所めがけて食料をパラシュート投下することもあったという。

 空襲警報が発令されると、日本軍の飛行機は全機どこかへ飛び立っていった。警報が解除されると何処からか帰ってきて着陸していた。どうやら機体保護のため敵の空襲を避けていたらしい。また飛び立っても、箱崎のあたりまでフラフラ~と飛んで行ってそのまま海に消えた機体もあったという。横風用のサブ滑走路には、敵を欺くための木製の張りぼて飛行機が並べられていた。

 空襲の時はいつも仏壇から位牌を取り出し、風呂敷に包んで防空壕(近くの山に隣組単位で防空壕があった)に避難していた。

 昭和20年6月19日、福岡市大空襲があった夜、席田飛行場の飛行機は事前情報を受け、全機その日は避難していた。飛行場は空っぽで飛行機は一機も飛び立たたなかった。また日本軍の高射砲は射程が低くて撃っても爆撃機に届かず、ポンポンと弾けるだけで思うままに爆撃され、沢山の人が亡くなった。

◆福岡大空襲を報じる西日本新聞

 「日本は負けるばい」と、決して言ってはならない言葉を口にする人も現れて、皆でこっそり頷きあったと、後年当時を思い出して祖父が語っていたのを覚えている。

敗戦、そして約束は守られなかった

 昭和20年8月15日、第二次大戦は終結し日本は敗戦国となった。戦後、駐留軍が来るという噂が出た時、隣組単位で今の宇美町の障子岳の公民館や遠い親戚を頼って集団で何日間か逃げた。 捕まったら米軍に酷い目に合う、皆殺しにされるという噂がささやかれ、恐怖が人々の間に広がっていた。しかし、米軍が来ても何も起こらなかった。

 そして日本陸軍が約束した「戦争が終わったら、農地も家もちゃんと元に戻して返す」との言葉はすべて反故にされた。

米軍進駐

 敗戦により席田飛行場は米軍に接収され、板付飛行場(イタヅケエアベース)とその名を変えることになった。(なんでも英語ではムシロダの発音が言い難く、発音しやすいイタヅケになった由)

◆写真左:板付飛行場の管制塔、旧3号線側(比恵側)にあった。中:プロペラ4発の大型輸送機グローブマスター、前が左右にパカッと割れて車両なども積載していた。コックピットは梯子を上って2階にあり、子供の私たちは2階建て飛行機と呼んでいた。中型ジープは爆弾庫へ行く道をいつも走っていた。右:昭和29年の第一次飛行場拡張前後の写真、遠方の山上に基地用水タンクが見える。離陸するジェット機の真下で農作業、私もこんなところで農作業の手伝いをしていた。

 米軍が進駐してから、飛行場の設備強化工事が始まった。その工事に使用している、何台もの土木機械車両、ブルドーザー、トラック、ダンプカーなど、今まで見たこともない数の大型の土木車両を人々は目の当たりした。

 滑走路は延長され、かつコンクリートで覆われ、コンクリートが間に合わないところは穴あき鉄板が一面に敷き詰められ、あっという間に強固な飛行場に変身した。

 素朴に、何でこんな国と戦争をし、勝てると思ったのだろうと皆思ったそうである。

 

◆写真は拡張前の板付(旧席田)飛行場(昭和22年米軍撮影 )左下の福岡商業学校(グラウンド視認)で、飛行場用地強制接収令を受けた。

いま思うこと

 板付飛行場はその後、民間航空と同居の時代を経て福岡空港と名を変えた。現在では、世界への空の玄関口として、ビジネスマンや家族連れで賑わう華やかな福岡空港の黎明期に、こういうことがあったのだと知って欲しくて当レポートを記した。

 戦争体験を聞くにつれ、多くの一般の市民は日本人、韓国人、連合国捕虜を問わず、みな善意の人であったと信じることができる。生まれた国や生まれた時代によって、理不尽にも彼らを襲った悲劇を思うと、心の奥深いところを抉られるような哀惜の念でいっぱいになる。

 権力を握った為政者、その権力下での受益者らが、自らの地位、利益を守るために国益という美名を用いたのだと思わざるをえない。

 席田だけでなく日本国内のあらゆる場所で、こうした有無を言わせぬ強権の行使が行われたことは想像に難くない。まして、当時一応日本領土であった朝鮮半島、満州国内でも、一時占領していた南方地域でも、現地住民の命と生活を踏みにじった蛮行が「八紘一宇」の美名のもとに行われたことを、決して忘れてはならないだろう。

 

 今回「陸軍席田飛行場」について、福岡に行く機会があったので、福岡市立図書館、福岡県立図書館の資料館を訪れました。兄や姉に、或いは父、祖父、近所の人などに聞いていた話の裏付けとなるような記録を求めてです。

 当時の新聞で席田飛行場について、工事が始まったとか完成したとか、何か記載があるのではと思い、該当日だけでなく昭和19年以降すべてに目を通しました。しかし残念ながら、席田飛行場についてはその文字すら発見できませんでした。これは当時の日本帝国軍隊、行政官僚機構下で国民を欺いた情報操作・隠ぺいのほんの一例です。

 腹立たしいのは、すべての状況が分かっていた軍上層部、軍官僚、政府官僚だと思います。彼らは突き詰めれば、国益の美名を振りかざして事を起こし、その機に乗じ自分たちの名誉栄達をはかったのではないかと私には思えてなりません。二度とこのようなことが起こらないよう、一人一人がしっかり考え監視していくことが私たちの務めだと思います。(関 忠)

 

 

 

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