聞き書き[満州国]の思い出

      2019/07/22

◆満鉄「あじあ」号

 

はじめに・・・

寿禄会の皆さんとメールのやり取りをする中で、終戦当時ご両親が満州にいた帰国子女が多いことが分かり、ご両親やご兄姉から伝え聞いている話をインタビューさせて欲しいという思いに至りました。ここに紹介するのは、藤本茂さんのお姉様でいらっしゃる北崎静子さんのお話です。日本人として、また人の子、人の親として忘れてはならない貴重な体験が綴られていますので、ぜひお読みくださいね。

※後半にはご両親ゆかりの地を訪問された、藤本さんご兄弟の旧満州への旅写真も掲載していますのでご覧ください。

※なお、前半「聞き書き」部分に掲載の写真は、ネットからお借りしたもので本文とは直接関係ありません。また「編集部注」とある文も、必ずしもご投稿いただいた方の歴史認識ではない場合がありますので、ご了承ください。

 

貧農の息子が選んだ満州への道

ご両親が満州に渡られたのはいつ、お二人が何歳の時ですか?

静子 満州に渡ったのは昭和17年で、父が明治34年生まれ、母が明治41年の生まれですから、父が40歳、母が34歳の時です。

どんな経緯で満州へ?お父様は満州でどんな仕事をされていたのですか?

静子 父は昭和17年に旧満州の白城子駅助役として渡満。翌18年4月に妹が内地で生まれた後に家族全員が渡満しましたが、その時には父はチチハル(斉斉哈爾)の駅長になっていました。

◆満鉄チチハル公署

◆満州チチハル邦人商店街

父は貧農の9人兄弟の6番目でしたので、口減らしで国鉄に入社しました。渡満の経緯は詳しく聞いたことはありませんが、一旗揚げたかったのではないでしょうか。

ご兄弟の構成は?

静子 兄(昭和10年生)、私(昭和12年生)、弟(昭和15年生)、妹(昭和18年生)、末弟の茂(昭和20年生)の5人兄弟で、茂だけが満州で誕生しています。

ソ連が参戦・満州に侵攻してきたとき、引き揚げには大変なご苦労をされたそうですね。

静子 ロシア侵攻を受け、着のみ着のまま少しの荷物を手に持ち白城子(吉林省・白城子)の満鉄社宅を出発、汽車で蘇家屯(奉天市・現瀋陽市)へ向かうことになりました。

◆満鉄路線図

極悪非道なソ連兵

汽車の中の状況はどうでしたか?

静子 ソ連兵(当時大人たちは侮蔑を込めて「ロスケ」と呼んでいました)に目を付けられないよう、避難時若い女性たちは丸坊主にし、顔に墨を塗ったりしていましたが、汽車の中でロスケが来ると、赤ん坊や子供を自分の子のように抱きしめて身を守っていました。それでも停車中に、ロスケが女性を引きずり出して連れて行くのを何度も見ました。

その後在満の邦人女性(わずか11、2歳の子供を含む)が、ソ連兵によって親や夫、子供の前で強姦され、あるいは自殺しあるいは殺されて無残に命を落とした人たちのことが多くの証言者から語られましたが、その非人間的な残虐ぶりは筆舌に尽くしがたく、人間として許すことができません。

汽車は途中で止まってしまったそうですね。

静子 はい。汽車は途中から動かなくなったので、みな背中に荷物を背負い、手に持てるだけ持って、難民のような姿で行進しました。

広場に着くと整列させられ、満人が一人ひとり身体検査をして、高価なものや時計など全部取りあげました。数人が襲いかかり、お金になりそうな目ぼしいものを剥ぎ取るように奪っていきました。

蘇家屯についてからの状況はいかがでしたか?

静子 蘇家屯(奉天市・現瀋陽市)に着き、満鉄の寮の狭い部屋8畳間に10人くらいで寝起きしました。ここで、チチハルから逃れてきた父と合流しました。

◆蘇家屯駅

蘇家屯では生活費を稼ぐため、兄達は餅売りをしていました。朝売りに行く餅を前の晩から仕入れ、寝床の隙間に置いてあるのです。食べ物が無い時でいつも空腹だった子供たちは、その匂いに我慢できず、夜中に隠れてガラス蓋を開け、指でなめていました。当時6歳の弟は腸チフスに罹り、熱にうなされ、「も~ち~~も~ち~~」と叫んでいたのを思い出します。

その寮で母が出産、看護婦の義姉が取り上げたのが小さな小さな赤ん坊、洗面器で産湯をつかわせました。それが茂です。

すべてを奪われ裸同然の帰国

引き揚げは何年のことですか?

静子 昭和21年です。父が満鉄社員だったため情報が早くコロ島に向けて出発、またゾロゾロと荷物を持てるだけ持ち行軍です。途中で歩けなくなったり、亡くなった人はそのまま置き去りにされました。足手まといになるような病人や子供は満人に預けたりしていたようです。

コロ島に集結し貨物船に乗ることができました。船では船底に雑魚寝の状態で、船上に出るには縄梯子です。甲板では、船内で亡くなった幼児の遺体が海に捨てられるのを何度も見ました。

◆コロ島からの引き揚げ

◆祖国(内地)を目前に斃れた引揚者の葬儀

舞鶴港に昭和21年6月下旬に上陸。上陸後はDDTを真っ白になるまで振りかけられました。雨の中をびしょ濡れぼろぼろになって母方の祖母宅にようやくたどり着きました。

 

※編集部注 満州からの引き揚げ:終戦時満州に取り残された日本人約105万人の引き揚げは困難を極めた。特にソ連軍占領下の北部地域では、ソ連兵や中国共産党軍、朝鮮人民義勇軍や朝鮮保安隊、および暴徒化した現地住民による日本人への暴虐行為・略奪・強姦・拉致などがあり、中でもソ連兵や朝鮮兵の日本人女性への強姦は口にするのもおぞましいほどの凄まじさであった。引き揚げ中の犠牲者は日ソ戦の死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人近くが満蒙開拓団の家族である。この数は東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦を凌ぐ。

 

満州への旅でかみしめた平和の尊さ

2006年にご両親ゆかりの地を訪ねる旅をされたそうですね。

静子 はい。6月30日から7月4日まで4泊5日で旧満州を巡りました。両親はすでに亡くなっていたので、兄弟姉妹(上の弟の連れ合いも含め6人)で父が勤めていた駅や、家族で住んでいた白城子や蘇家屯の官舎跡などを訪ね、両親や当時の暮らしを偲びました。

◆旅行日程表(株式会社 日中交流センター)  

◎白城子関連写真

◆白城子駅

◆宿泊ホテル(白城賓館)

◆白城子機関区 

◆機関区から官舎跡を望む

◎蘇家屯関連写真

◆瀋陽北駅

◆宿泊ホテル(瀋陽凱莱大酒店)

◆蘇家屯機関区 

◆蘇家屯官舎跡(茂生誕地)

 

 

 

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