竹田範弘さんLONG INTERVIEW PART.2

      2018/07/18

PART.2

昭和43年3月 防衛大学校をトップの成績で卒業された竹田さんは、いよいよ自衛官としての一歩を踏み出されました。今回はその日々についてお聞きします。

 

陸上自衛隊幹部候補生学校・陸上自衛隊富士学校入校(昭和43年―昭和46年)

 

略歴(昭和43年―46年)

昭和43年3月 陸上自衛隊入隊 幹部候補生学校入校(久留米)
  同年10月 第37普通科連隊配属(大阪府) ※普通科;歩兵
昭和44年1月~8月 陸上自衛隊富士学校入校(普通科・特科・機甲科の幹部教育が主)
※特科:砲兵、機甲科:戦車  BOC(幹部初級課程)
昭和45年春~初秋 防大で国立大学大学院受験勉強、大学紛争時のため受験出来ず。
昭和46年4月 防衛大学校理工学研究科に入校(「原動機」専攻、2年間:修士相当)26歳ガスタービンなどを学ぶ。(卒業研究:物質移動を伴う熱伝達)
昭和45年 大学院受験勉強時妻と見合いし、46年10月結婚

 

 

幹部候補生から3等陸尉へ

 

――昭和43年~44年にかけて、幹部候補生学校入学から第37普通科連隊配属、陸上自衛隊富士学校で学ばれたことと、この間の生活について教えてください。この間は一人暮らしだったのですか? )

竹田  そうです。大阪の連隊から富士学校にも入校しましたし、大学院を受ける勉強のため防大に数ケ月行きました。防大理工学研究科入校の時に連隊から転出しました。研究科1年の秋に結婚するまでは、防大の研究科学生舎に住みました。連隊でも駐屯地の幹部宿舎でした。外に出て住むことも出来ましたが、結婚してからが初めてでした。富士学校では、初級幹部課程という主として小隊長としての戦術及び部隊行動(指揮)の教育で必須のものでした。

 8ケ月ほどの教育を終えて連隊に帰ったら、連隊長室に呼ばれて、(知らなかったのですが)卒業成績が1番だったからとネクタイピンをいただきました。

 これらの教育期間中に、幹部候補生から3等陸尉(少尉)という幹部自衛官に任官しました。通常は学生宿舎に起居しましたが、土・日は仲良い3人で下宿を借りてゆっくり過ごしたり、東京に出掛けたりしました。安田講堂事件やアポロの月面着陸の頃です。

◆幹部候補生 候補生学校での高良山登山競争(ゴールの神社)

◆この伝統行事の記録保持者は、東京オリンピックマラソン銅メダルの円谷幸吉さんです。(3期先輩)

◆幹部候補生 候補生学校 小隊戦闘訓練中です。

◆幹部候補生 候補生学校 沖縄研修中のひとこまです。まだ復帰前でした。一応パスポートを持っていきました。琉球大学生に上陸を邪魔されました。

 

守りたい人がいる――運命の出会いそして結婚

 

◆昭和44年1月 富士学校BOC入校(8月卒業、原隊復帰)

 

◆写真上:昭和44年秋 第37連隊旗手 第3師団自衛隊記念日式典(大阪城公園)、下左:昭和45年春 新隊員教育区隊長(先輩と。途中から修士準備で防大に)、下右: 昭和44年秋  BOC卒業後しばらくして、陸士の無反動砲要員育成の連隊の集合教育教官(注:無反動砲は対戦車砲)

 

――昭和45年の国立大学大学院受験(大学紛争のため受験出来ず)から、防衛大学理工学研究科(修士課程相当)に進まれた経緯について教えてください。さらに上位の学問を修めたいと思われた理由は何ですか?

竹田  恥ずかしいのですが、理工学にそれほど強い意欲を持っていた訳ではないのです。自衛隊では理工学を深めた幹部が必要な訳で、海上・航空は特に職域的・人事的にはっきりしていますが、陸上は多少幅・余裕があるものですから、戦闘職種の者でも私だけでなく希望ができたのです。ですから、「もう少し理工学も学んで部隊勤務に戻ろう。」という考えでした。ただ、国立大大学院の受験勉強要員の件は、中央から打診があったので、将来その方に進ませたいという、俗に言う目をつけられていたのかもしれません。その後、防衛医大勤務の時に一度直接電話を受けたことがありましたが、辞退しましたので、その後はありませんでした。

――研究科ではどんなことを学ばれましたか?

竹田  昭和46年4月、防衛大学校理工学研究科に入校しました。新しくできた「原動機」を専攻しました。機械工学、特に熱力学・流体力学及びこれに関連する化学などを多少深く学びました。

 担当教授は、東芝の技師長で退職され新たに来られました。海軍の技師として日本海軍が終戦間際に試験飛行させたジェット戦闘機「橘花」を作られた方で、ガスタービンについては日本で有数の人です。そういう訳でガスタービンの基本を学びました。卒業研究は「物質移動を伴う熱伝達」というテーマでした。これは講師がテーマとされていたもので、タービン翼(羽根)の吹き出し冷却などに応用されるものです。

◆通学(通勤)は、卒論などで遅くなるのでバスからバイクに替えました。

 実験は難しい数値解析でした。当時広まってきた電算機を使っての計算をたくさんやりました。面白かったのは、教授が盛んに「工場見学に行こう。」と言われて良く行きました。三菱とか石川島とかです。つまり、先生はこれまで付き合いや協力はあっても、他社の先端の現場までは互いに入れなかったのではと思います。今度は官の立場でありお得意様の防衛庁でもあるし、というわけです。

――昭和45年にお見合いをされ、46年にご結婚とありますが、どのような経緯だったのでしょうか? この年齢での結婚は自衛官としては一般的ですか?

竹田  自分としてはまだ結婚問題を考えたりしたことはありませんでした。ところが、たまたま大学院受験勉強で母校に行った時、お世話する人があって、当時防大の訓練課長をしていた義父の長女とお見合いをしたわけでした。そして両家の話も進んで婚約し、翌46年の研究科に入った秋結婚しました。私が26歳になる直前で、同期生としては早い方でした。29歳の時上級幹部課程で集まった時は大半が既婚でした。

――お嬢さんを託するにふさわしい相手として、お義父様に見込まれたというわけですね。

竹田  ははは。結果良かったのかどうかは分かりませんが・・・。

◆昭和46年10月に福岡で結婚式(東急ホテル)、住まいは防大近くで借家。

――慶應義塾大学卒で、三井物産に勤務しておられた奥様が、結婚のためパリ勤務を断念されたことについて、申し訳ないというお気持ちがおありだったとか・・・?

竹田 そういう希望があったことをつぶやかれてドキッとしました。今思えば、妻はあきらめる気持はほぼ決めていて、私の返事で自分の気持を固めようとしたのかもしれません。
私はしばらく気持を落ち着けてから、「行かないで欲しい。」と言いました。婚約はしていても、妻としては外国勤務に強く惹かれる気持があったであろうことは分かりました。大学では仏文でしたから、さぞかしフランスに行きたいだろうと思い、「すまない」という気持を持ったのです。

――竹田ご夫妻は互いに尊敬しあい、理想的なご夫婦関係とお見受けしますが、竹田さんにとって奥様はどういう存在でいらっしゃいますか?

竹田 私は尊敬しています。妻も人間としては大いに認めてくれていると思います。理想的な・・・というのは横に置かせていただいて、私にとっての妻の存在は、妻が居なかったら今の自分はないと言うことはできます。自衛官としての私の社会的な成長を見守るということでなく、伴侶としての人間としての観点から私に向き合い、苦しみながら頑張ってくれたと思います。

 私が妻を尊敬する点は、正直であり、大事なこと(真実)には妥協しないということでしょうか。5年ほど前、私のことで大事な判断をした時、私の心情を理解してくれました。そして、私が「子供達の同意も得ておかねば。」と話しましたら、「言わなくてよい。私がお腹を痛めた子供達には文句は言わせません。」と言いました。

 

 

自衛官勤務時代(昭和43年―平成12年)

夫婦のように寄り添うラベンダー

 

略歴(昭和48年―平成12年)

昭和48年3月 陸上自衛隊富士教導団普通科教導連隊配属(前述の富士学校の教育支援部隊)
  小隊長、副中隊長として勤務
昭和49年7月 1等陸尉(大尉)に昇任 その年後半は富士学校入校 AOC(幹部上級課程)
昭和51年3月 防衛医科大学校勤務(所沢) 訓練教官(指導教官)を兼ねて学生課補導係長、
  主として第1期生の指導を担当 ※岡本順子さんが生理学の講師として来られました。
  約3年半学生と学校の基礎作りのため没頭しました。
昭和52年2月  長男誕生
昭和53年12月  次男誕生
昭和54年8月 陸上自衛隊第1混成団第1混成群に配属(那覇) 1年間は群本部通信幹部、
  2年間は第302通科中隊の中隊長として勤務 昭和55年初夏に1週間沖縄の米国海兵連隊
  で研修 昭和56年1月3等陸佐(少佐)に昇任
昭和57年5月  5月の連休明けに「抑うつ状態」で中隊長の勤務停止
昭和57年8月 陸上自衛隊衛生補給処勤務(世田谷区用賀)(衛生資材の中央補給処)
  総務課警備訓練班長・駐屯地援護室長などの総務業務に従事
昭和59年7月 長女誕生
平成12年10月 定年退職(陸上自衛隊除隊)(55歳)

 

 

1等陸尉昇任、上級幹部過程教育を受ける

 

――昭和48年~49年にかけては、どんな仕事をされたのですか?

竹田 昭和48年3月、防大の理工学研究科を卒業し、陸上自衛隊富士教導団普通科教導連隊に配属され、小隊長、運用訓練幹部、副中隊長として勤務しました。

 昭和49年7月、1等陸尉(大尉)に昇任。その年後半は富士学校に入校しました。AOC(上級幹部課程)で主として中隊長や部隊幕僚としての教育です。教導連隊は富士学校の教育支援部隊なので、東富士演習場と御殿場の借家の往復みたいなものでした。朝は富士山を見上げながら行き、帰りは箱根を見ながら降りました。

 土・日は横浜の妻の実家によく行きました。義父が、沖縄返還に伴う最初の陸上自衛隊の部隊長として、北熊本駐屯地で編成された臨時第1混成群を指揮して那覇に移駐しましたので、実家は妻の妹達3人だけで住んでいました。

 

 

◆昭和48年5月頃、妻が縫った揃いのジャケットで。

 

心血を注いだ防衛医大の基礎づくり

 

――昭和51年、所沢の防衛医科大学勤務となったのは、どういう経緯ですか?

竹田 実は富士学校AOC入校中にうつ状態になり、卒業後数ケ月ほど福岡に帰省療養させていただきました。諸上司が配慮して下さり、翌年春の異動で、開校3年目の防衛医大勤務ということになりました。昭和51年春に異動し、すぐに第3期生の入校を迎えました。

◆写真上段左:昭和52年頃 坂田防衛庁長官の視察時、長官旗の旗衛を務めました。上段右:昭和51年夏 第2期生水泳訓練(館山、海上自衛隊基地) 下段左:昭和52年頃 同剣道部稽古(第1期・2期生) 下段右:昭和53年頃 防衛医大第2期生の沖縄研修(ひめゆりの塔)

 訓練教官(指導教官)を兼ねて学生課補導係長として防衛医大には3年4ケ月勤務しましたが、主として第1期生を担当しました。その際、岡本順子さんが生理学の講師として来られました。この間は、学生と学校の基礎つくりのため没頭しました。

◆昭和52年秋  2月に誕生した長男(防衛医大内、後方は学生舎)

 将来の登竜門たる幹部学校の指揮幕僚課程(昔で言う陸軍大学の受験勉強)は気になりつつも全く横に置いたままでした。上司の配慮の異動はあてが外れたということになりますが、所詮は私のなせることです。

 学生舎のすぐ横の官舎で学生と同じ起床ラッパを聞いて起き、朝食後学生舎で指導をした後は、学校本部の学生課に行って学生の補導に関する企画や事務を行い、昼休みには学生舎に帰って指導を行って学生課に戻りました。

 学生の補導に関して教室や病院の先生方を訪ねたり、剣道部の活動を指導したり、学生の海外渡航(旅行)の手続きを簡易にしたいと思い県庁に出掛けてお願いをしたり、創設期の記録を散逸させないよう開校以来放置されている各種文書などを整理保存したり、限りなく思い出します。

 しかし、3年余というのは、差し出している陸上自衛隊の人事としては最大の限度であり、「1期生の卒業まで」という私の希望は一蹴されました。そのため、妻の父も定年退職で退いた沖縄を希望し異動ということになりました。

 

3等陸佐に昇任、中隊長として充実の日々

 

――昭和54年~57年(陸上自衛隊第1混成団第1混成群)時代について教えてください。

竹田  昭和54年8月、陸上自衛隊第1混成団第1混成群に配属(那覇)されました。群というのは連隊規模の部隊です。1年間は群本部通信幹部、2年間は第302普通科中隊の中隊長として勤務しました。

 昭和55年初夏に1週間、沖縄の米国海兵連隊で研修を行い、昭和56年1月3等陸佐(少佐)に昇任しました。沖縄には自衛隊で使える大きな演習場がないので、年4回九州本土に約1ケ月の訓練に行き、その間、妻・子3人は妻の実家である沖縄の両親のもとで過ごしました。

 

◆昭和54年8月に第1混成群に転属(群本部通信幹部)その翌年初夏、在沖縄アメリカ海兵隊研修の時(防弾チョッキ)

◆写真上:昭和55年8月第1混成群第302普通科中隊長に就任、写真は56年中隊長室で。 下左:昭和56年 初めて一般道路を使用して夜間行進訓練(沖縄本島北部)を行う。下右:昭和56年 野営訓練中の群射撃競技会で中隊が優勝。(熊本県、大矢野)

◆写真左:昭和54年秋  那覇駐屯地内官舎で、福岡から来沖した竹田母(右)と妻の母に抱かれる長男と次男(昭和53年12月、防衛医大病院で誕生)。 右上:昭和56年 中隊隊員の結婚式で中隊長として祝辞を述べる。右中:昭和55年官舎の前で、私(制服)・妻と長男・次男。 右下:昭和56年 米軍嘉手納基地(航空基地)内マラソン大会に出場、第1混成団長の名代として表彰式に出るためハーフで止めたところ。

◆昭和57年8月、第302普通科中隊長離任式(壇上で観閲行進に答礼)

 

晴天の霹靂、抑うつの兆候

 

――昭和57年5月の連休明けに「抑うつ状態」で中隊長の勤務停止とありますが、原因となる出来事などご自分で思い当たることなどあったのでしょうか?

竹田 中隊は定員に近い約170名が所属していました。中隊長の責務は、郡長の指導を受けて、主に訓練と人事(人を育てる)ことです。中隊という組織のせいでおかしくなったわけではないのですが、私が色々の面で焦り悩む状態になりダウンしました。57年5月の連休あとです。中隊は副中隊長が指揮し、私は群本部のデスクで過ごし、夏(8月1日付)の異動で衛生補給処勤務になりました。

 それまでのことと同じですが、部隊や人を預かるという職責にとらわれ、一つ一つの事象をすべてうまくやらねばと思ったのです。それと義父や上司・先輩など期待してくださっている方々に応えなければという潜在意識があったと思います。自分が弱かったという一言に尽きますが、強いて言えばこの二つが影響したのではないかと思います。

――昭和57年8月から定年退職されるまでについて教えてください。

竹田  昭和57年8月、陸上自衛隊衛生補給処(世田谷区用賀)勤務になりました。最初は部下なしの「教養幹部」という職名で、総務課長の下で訓練面を担当しました。その後、総務課警備訓練班長や駐屯地援護室長などの、人事を除く総務業務全般に従事しました。

 平成10年春の陸上自衛隊全般の補給体系の改正に基づく関東補給処支処への改編の際は、総務業務全般の規則改正を担当して12月初めから2月半ばまで、大晦日・元旦を除いて休みなく勤務しました。こんな次第ですから、定年数年前には入院もし、「抑うつ神経症」を克服できず、用賀で異動することなく約18年勤務し、平成12年10月に定年退職となりました。

◆写真上:昭和57年8月衛生補給処(世田谷用賀)に異動、訓練等を担当。写真は昭和60年頃、幹部自衛官の拳銃射撃訓練で指導しているところ。下左:昭和60年代 幹部現地戦術(方々の現地を歩いて戦術を教える。)の教官を担当して、ある地点で説明しているところ。下右:昭和~平成の頃 防大3年・4年一緒の第9班の班会で。右は歯科医師になった杉山君、左は親の介護のため鹿児島に帰り警察官になった天辰君。

◆平成12年10月27日満55歳で定年。用賀駐屯地での陸上自衛隊退官(除隊)式です。壇上で紹介を受けています。妻・子供達も列席。

 

照る日曇る日、家族とともに

 

――この18年間は、どんなことを考えて過ごしていらっしゃいましたか? 

竹田  もう自衛隊で要職に就くこともないし、いわゆる「これでいいや。」という気持で過ごせば、仕事は何も難しいことはなく、正に楽なことでした。でも、多くが薬剤官の自衛官と事務官の中で普通科(歩兵)の幹部として恥ずかしくない仕事をしなければ、と思っていました。

 ですから目前のことばかりに気を取られて過ごしました。防衛医大勤務の時に長男・次男が生まれ、衛生補給処に来て間もなく末の娘が生まれました。この18年間に、長男は小学校に入り大学を出ました。次男は大学3年になり、娘は高校1年になりました。子供達と楽しく出かけたことは少なく、すまなかったという気持が強いです。

◆写真左:平成元年春 中学受験をして、長男が聖光学院に入学する朝、自宅前で。右上:昭和60年 自宅での正月、前年(59年7月)誕生の娘も含め子供は3人になりました。右下:平成10年頃 娘も成長し捜真女学校に入った頃、金時山登山です。

 妻は子供達のことを見守りながら、主導的に自宅も建て替えました。私がどんなことを考えていたかと問われたら、考えていなかった(考えることができなかった。)というのが正しいと思います。前向きに考える(つまり判断する。)ことをしておれば、もっと楽しい生き方をし、妻や子供達を喜ばせただろうと思います。当時は本ばかり読んでいました。

 

息子に受け継がれた平和への想い

 

――防衛大学で学んだこと、またその後の自衛官生活は、竹田さんの人生や精神形成にどのような影響を与えていますか?

竹田  防衛大学校で学んだことは、国防軍の士官たるべき者のあり方です。幸い戦いの場には臨まなくてすみましたが、もしも落ち込んでいた時期に出陣という事態に直面していたらどうだったか、時々心に浮かびます。恥ずかしいのですが、おそらく晴れ晴れとした心で出陣したと思うのです。命じてもらえたかはわかりませんが。

 その後の自衛官生活については、定年退職後の現在、考えすぎる、背負い込みすぎるという同じ轍を踏まず、できる限り有意義に生きようと考えるようになったのは、あの日々があったからではないかと思っています。

――3人のお子様を授かっていらっしゃいますが、お父様の仕事について、お子様方はどのように考えていらっしゃるようですか?

竹田  子供達が成人するまでは前述したとおり、妻も余り心配させないよう努めてくれていましたから、すくすくとまっすぐに育ってくれたと思います。

 仕事について子供たちとあまり具体的な話をしたことはありませんが、私の歩みについては好意的に良い方を見てくれているようです。次男は自衛官ですが、自分の上官と私を比較して見ているでしょう。自衛隊は厳しいところというより温かいところと思っているのではないかと思います。

◆平成12年、退官前の10月初旬に初めてのフランス旅行、ニースの旧市街で夕食です。

◆平成12年 パリのデパートの屋上です。

◆平成16年 1月~2月の間にフランス旅行 モンサンミッシエルの干潟で。

◆平成18年 新婚旅行以来の京都・銀閣寺で。紅葉の時期です。

◆写真左:平成16年 甥の結婚式でハワイに行きました。二人で飛び上がりました。 右:平成21年、フィリピン滞在時の12月、マニラ2泊旅行でコレヒドール島(要塞跡)を見物。

 

フィリピンでのボランティア(平成21年5月――平成22年2月)

 

略歴(平成13年―29年)

平成13年1月~平成21年3月
  日本総合住生活(株)東京支社で公団団地の監視員及び警備員指導
  教育責任者として勤務 フィリピンへの渡航のため退職
平成21年5月~平成22年2月
  フィリピン(ルソン島)でボランテイア活動
平成23年2月~平成29年4月
  横浜市のキョーエーメック(株)で警備員指導教育責任者及び警備員
  として勤務 (妻もこの期間、ヘルパーとして訪問介護をしました。)

 

――寿禄会HPに連載いただいた『フィリピンボランティア滞在記』に書いておられましたが、奥様がフィリピンに洋裁を教えるボランティアに行きたいとおっしゃった時は、ビックリされたでしょうね!?

竹田 ちょっと面食らうという感じでした。でも、すぐに「これは本気だな。」と思いました。というのが、それまでにも、妻は突然に重大なことを言い出すことがありました。ところが、話を聞いてみると、本人はずっと考えてきたことなのでした。状況が整うまで辛抱強く待っていたのです。フィリピン行きは、私の母が亡くなったので、(別に母の介護などの必要はなかったのですが)支障がなくなり行けるようになったと思ったわけです。

―――現地での奥様の活躍ぶりを身近で見られて、「見直した!」と感じられたことも多かったのではないでしょうか?

竹田 そうですね。その一つは、同じNISVAボランティアの日本人男性に対し、人目につかぬ所で一人対面して「日本人ボランティアとして恥ずかしくないようにしっかりやって欲しい。」と強く抗議したことでした。(ありていに言えば、気合をいれたわけです)
 洋裁の生徒さんには終始熱心に真心で接していました。フィリピンの人だからというような心持は微塵もなく、ルーズなところには妥協せず、その人に応じ手取り足取りして教えました。半面、その他のことは人間同士で楽しそうに過ごしていました。私が妻を信じている核心ですが、表裏のないよい点を改めて感じました。ですから、生徒さん達だけでなく、他のお世話になった人達に対しても、自分なりに感謝を示し、他の日本人がやり勝ちな「お金をふりまく」感じのことはしませんでした。

 アラミノスのアパートで大家さんの奥さんとは親密になり、市場のおばさんにも声をかけられることがありました。英語は妻の方が上手でした。ずっと前から英会話教室に通っていたのも、先のことをじーっと考えてのことだったかもしれません。

――フィリピンの国民性や政情について、日本国内にいた時と現地に住まれて印象は変わりましたか?

竹田 日本にいた時には、フィリピンについてはっきりした印象を持つほど知りませんでしたから、変わったというより初めて認識したというのが実際のところです。色々な見方がありますから一概には言えませんが、私が感じた国民性については、一つはとても優しい人達だということです。特に子供達を大変可愛がります。甘やかせているようにも見えます。それと、日本人と比較すれば、のんき(おおらか)と言えるでしょうか。しかし、これは生活環境からくるものでもあるでしょう。都会に比べれば田舎のほうがのんびりしているというようなことです。

 政情は不安定です。南部のイスラム教勢力との戦いは別にしても、気の毒なことにスペイン・アメリカの支配以前に国を持ったことがありませんでした。また、現在でもスペイン系をはじめとする大金持ちのファミリーが富を握っていると言われています。「俺たちはフィリピン人だ。」という求心力が弱いように感じました。

 私は、話が分かる人には、少し言い訳にもなりますが、「日本はフィリピンと戦争したのではない。アメリカと死力を尽くして戦った。フィリピンで始めた体当たりの特攻隊までして戦った。フィリピンの人達も頑張ってもらいたい。」と話しました。

――ルソン島といえば、日本軍の激戦の跡が残っている土地ですが、その跡地を訪ねられて元自衛官としてどんなことを感じられましたか?

竹田 太平洋戦争の時に、各戦域の中でフィリピンにおいて最も多い50万人余が亡くなりました。戦いの概要は理解していました。ですから、『ボランティア滞在記』で目頭があつくなったと書きましたが、当時のことを胸に浮かべて、実は涙がぽろぽろと流れたのです。進攻作戦のことはあまり思いませんでした。やはり、レイテ島の戦いと終戦にまで至るルソン島北部の戦いです。

 レイテ沖海戦は、日本海軍が米海軍と何とか艦隊決戦を挑んだ最後の戦いですが、陸上基地から初めて神風特別攻撃隊を発進させた戦いでもあります。私は最初に特攻隊が飛び立った基地があった平地の中を8回車で通りましたが、その都度じっと眺めてお祈りしました。

◆写真左:1944年10月25日、神風特攻隊の体当たり攻撃を受けて炎上するアメリカ海軍護衛空母「セントロー」 右:同じく日本軍の攻撃を受けて炎上するアメリカ空母「プリンストン」

 バギオに一泊旅行した時は、慰霊碑におまいりもしましたが、周辺の地形や遠くの山岳地帯を見て、そこここで日本兵が倒れただろうと思いました。また、少し詳しく戦いの記録を現地と照合し、日本軍が苦しいなかでよく戦ったと思いました。仮の話をしても意味ありませんが、おそらくこういう戦いは米軍にはできないと思いますし、早く降伏すると思います。

――再度フィリピンを訪問される予定などはありますか?

竹田  私達は、あちらで一緒に過ごした人達を懐かしく思っています。それぞれに琴線に触れた思い出があります。それで、二人とも仕事を辞めてフリーになったので、訪ねてみたいと思っています。今年の秋から来年初めの乾季の時期にしたいと思っています。これから楽しみながら計画をしようと思っています。

――フィリピンでのボランティアという、かけがえのない体験から得られたものを教えてください。

竹田  一つは夫婦一体となって頑張り楽しめたことです。二つ目は、夫婦間でもそうですが、あちらの人達と何のこだわりもない付き合いをして心が豊かになったことです。フィリピンとフィリピンの人達を知りえたことも得難いことではありますが、二つのこととは次元が違います。

――自衛官を退官されてから今日まで、自衛隊をめぐる状況は激変しているように思いますが、世界平和のため自衛隊のあり方など、いま竹田さんが望んでおられることを教えてください。

竹田  確かに激変していると言えるでしょう。憲法9条のことも、国民の多くの方が実はうすうすこのままではいけないと思っておられるのではないかと思います。自衛隊(軍)が国民の意思を無視して独走するようなことは、防大で育った我々にはありえないと思っています。私達が防大で受けた教育は民主主義国家日本の国防軍の士官たる者の心得そのものです。吉田元首相が亡くなられる前年の秋、私達に語られたのもそれだったと思います。

 日本が国際社会の中でどう生きていくかは国民すなわち政治が決めることですが、自衛隊を国防軍としてはっきり位置づけることは内外に対し大事なことであると思っています。軍刑法を持たない自衛隊を国外に出すことや、自衛隊が外国軍に守ってもらって活動するようなことは、おかしなことです。

 軍刑法は多岐の定めがありますが、「敵前逃亡は銃殺」というのは列国共通だと思います。日本では「危なかったら逃げてもいいよ。」といわんばかりの状態に自衛隊を置いて、それで「命をかけて守れ。」と言っているのです。こんな侮辱した話があるでしょうか。私は軍刑法ができるまでは、日本人が国を守る決意を固めたとは言えない、と思っています。

 

現在の生活・趣味・今後の夢について

 

――ゴーヤ栽培をしておられるとのことですが、どんなところが楽しいですか?

竹田 ゴーヤはもう30年以上前から毎年植えて、7月上旬から9月末か10月初めまで毎日のように食べています。他の夏野菜も育てますが、これだけは自信があります。植えて大きくなるにつれて支柱・網を登らせ、次に棚を作って横一面に這わせます。毎日のように水をやり適時に追肥をします。この過程がまず楽しいのです。

 たくさん採れるので、ご近所の方にも差し上げますが、そうすると新しい食べ方なども教えてもらいます。これもまた楽しいことです。私はみそ味の炒めもの(チャンプルー)が好きです。時々ゴーヤカレーも作ります。保存して食べる方法は、我流ですが、乾燥、冷凍、ピクルスをやっています。強いて言えば、これら全てが楽しいです。調理は殆ど妻ですが。

◆家庭菜園を楽しんでいます。左:ゴーヤの苗、中:月下美人です。

 

――東京寿禄会句会に参加されていらっしゃいますが、俳句作りはいかがですか?

竹田 私は短く言い切るのが不得手なので俳句には向かないと思っていました。ですが、昨年句会の皆さんの多くの方に勧められて加わらせていただきました。まだまだで、句会の度にもっと勉強せねばと思っています。そうすれば、奥深さや句作の楽しさも膨らむのでは、と感じています。もっとも、句会に参加すれば皆さんとお会いして楽しく過ごすことができるので、それだけでもう満足なのですが。

――今後、何か実現したい夢などありますか?

竹田 この数年で思っていることは、フィリピンをもう一度訪ねたいということと、できればイタリア(初)とフランス(3回目)に行きたいということです。

 イタリアには古代ローマ帝国を感じたいということの外に、妻の友人(母校のボランティアで留学生をお世話した時に社会人留学のご主人と来られたマリアルイーザさんという同年代の女性と仲良くしました。)を訪ねたいということです。

 フランスは妻があこがれた国ですが、私も妻の本を読んでいるうちに惹かれる思いがしてきて、2回の旅行も大変楽しめました。それで、もう一度行ってみたいという気持があるのです。長い間に、「レ・ミゼラブル」は4回、「魅せられたる魂」と「ジャン・クリストフ」は3回それと「チボー家の人々」は2回読みました。パリに行っても、朝夕の街角でこれらの作中の人や歴史の中の風景を感じることができました。

 それにしても、基になるのは元気に動ける身体ですから、体調を良くすることが大切で、これから工夫を重ねたいと思っています。もちろん、他にもめざしたいことを自問しなければならないとは感じています。

 

 

 

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