竹田家三代の記 ー 今、朝鮮と朝鮮の人々について思うこと -

      2019/11/07

◆ふるさと壱岐の風景  海女で有名な八幡の海岸に祀られている「はらほげ地蔵」

 日韓関係が良くありません。「近頃は、明治初期の征韓論の頃に逆戻りしたかのような気がする。」との寿禄会友人の便りに、私は「望まぬ亀裂が来ないように願う。」と返事を書きました。私達は勿論ですが韓国の人達も心配しているでしょう。報道に注意しながら好転を願っています。

 私は母のお腹に入って朝鮮から長崎県の壱岐に引き揚げてきました。壱岐は博多湾から50km程の平坦な島で、古代の遺跡も多くあります。先祖が眠る壱岐は朝鮮に近く、子供の頃は対馬の島影を眺めて「あの向こうの方に朝鮮があるんだ。」と思ったりしました。そのような縁がある朝鮮と朝鮮の人々について、私の思いを書いてみたいと思います。

◆左:壱岐と対馬の位置関係 右:壱岐の原の辻遺跡 一支国(魏志倭人伝)の中心的集落とみられる。(復元)

祖父母は明治41年頃に壱岐から朝鮮に渡りました。

 曾祖父は松浦藩兵として戊辰の役に従軍しました。日露戦争の時、祖父は陸軍の要塞砲兵として対馬の鶏知(けち、美津島町の旧町名。かつては陸軍要塞司令部が置かれていた)で浅茅湾を守りました。 

◆写真左:日露戦争頃の祖父 陸軍要塞砲兵(重砲兵) 右:日露戦争当時の対馬の砲台の1つ 掩蔽部又は弾薬庫とみられる。

 やがて軍曹になり48番砲台看守(長)を勤めて明治40年末に退役しましたが、「退職金の300円を手に朝鮮で頑張ってみよう。」と思い立ち、間もなく祖母と二人で渡海しました。日韓併合前で、あちらでは日本人が殺害される事件も起きた時期でしたが、全羅南道の光州に近い羅州郡南平面南平里という所に行きました。

◆韓国南西部の概要図:全羅南道南平里は羅州の東で図中の光州の南付近です。

 そこで祖父母は雑貨店を開き、朝鮮人に溶け込んで励みました。朝鮮人と自転車競技に興じる祖父の写真を幼い時に見たことがあります。工夫と努力を重ね、お金を貯めては水田を1枚1枚と買い求め、約150町歩の地主になり、やがて光州・羅州方面への乗り合いバス会社も経営するようになります。

◆祖父母が経営した「竹田自動車」の乗り合いバス:フォード箱型で昭和初期のものと思われる。

 稲の刈り入れ前には田圃を一つひとつ見て回り、出来具合を調べて小作料を減じるなど、夫婦協力して気配りをしました。小作米を収納する時には、祖母はお茶と山盛りのお菓子を用意して、頭を下げてもてなしたと母に聞きました。祖父母とも朝鮮語を話しましたが、読み書きは祖母の方が良く出来たそうです。蛇足ですが、小学校卒の祖父が、重砲の射撃に必須の三角函数(基本)の教育を受け習得していました。

祖父母・父母達は終戦直後に朝鮮から引き揚げました。

 終戦に直面し、近傍の日本人が引き揚げを始める中、祖父は「帰らぬ。何故帰らねばならぬか。」と言ったそうです。恐らく、そこに骨を埋める思いの祖父母は「朝鮮人に恨まれる覚えはない。」と言う気持だったのでしょう。

 しかし、周りの人達に説得され、何家族かで一緒に麗水(光州南東の港)で船を雇って朝鮮を離れました。船は唐津を目指していましたが、壱岐の島影が見えたので、船長と他の皆さんにお金を渡して同意して貰い、壱岐の勝本港に入港して下船しました。母は姉妹同様に育った木下さん一家とここで別れましたが、私の防大卒業式で上京した際、長野県伊那を訪ねて23年ぶりに再会出来ました。私は、引き揚げ後間もない10月27日に生まれました。

 満州から引き揚げの方々の大変なご苦労を思えば、すぐ近くの朝鮮南部からの引き揚げなどは問題にもならないと思います。特に、壱岐の勝本港で下船出来たことは大変幸運でもありました。満州の事についての私の記憶は、母の従姉のおばさんが、牡丹江で行方不明になったままの妹を想い、NHKの消息放送を真剣に聴いていたことです。昭和30年頃の事です。

母は引き揚げて26年後に生まれ育った全羅南道南平里を訪ねました。

 高度成長で海外旅行も盛んになり、南平里から引き揚げた日本人が連れ立って朝鮮に行こうと言う話が持ち上がり、母もツアーに参加しました。あちらを去ってから26年後の昭和46年の事です。

 ソウルから高速バスで南平里に着くと、小学校の体育館に案内されました。中に入ると歓迎会の宴席が準備されていて、縁のある人達が集まっていたのです。懐かしく嬉しく旧交を温め合った後、ソウルに戻るまでの時間を、各々に想う人の家を訪ねることになり、母は小さい頃から可愛がって貰ったおばあさんを訪ねました。大変に喜んでくれて、母も本当に嬉しかったそうです。

 おばあさんが母を人目に付かない一隅に誘って、「息子には言わないでくれ。」と断って母の手にお金を握らせました。母は固辞しましたが、おばあさんが強く押し付けるので、折角の気持だからと思って受け取りました。皆が集合してソウルに戻る途中で、母がバスガイドの娘さんに「このお金はどれ程の額ですか。おばあさんに頂きました。」と尋ねると、「家族が1ケ月十分に食べて行けます。でも、日本人が韓国人からお金を貰ったと言う話は初めて聞きました。」と答えたそうです。

 私は、母が残したあちらの水田50町歩分の権利証等一式を持っています。祖父母が自分達と娘二人(母と叔母)に3等分した母の分です。水田1枚1枚の売渡証書・登記済証・地籍図台帳・土地台帳です。

 これ等は紙くず同様の物で権利はありません。私は母の話を聞いて直ぐには思いが及ばなかったのですが、おばあさんが多額のお金を母に手渡したのは、母個人に対する気持だけではなく、「竹田の土地を返して貰ったお礼」という意味が含まれていたのではないかと思い当たりました。韓国政府が日本人の財産をどの様に処分したかは知りませんが、元々の持ち主に渡したのではないでしょうか。

◆写真左:母名義の水田約50町歩分の権利証等一式 自動車の部品収納袋(丈夫な厚紙)に入れてあります。右:母名義の水田約50町歩分の売渡証書・登記済証

「李承晩ライン」のために色々の悲惨な事が起こり、竹島問題も残りました。

 私は中学2年の春に福岡に転校しました。これは壱岐で中学1年の時に漁村部の友達から聞いた話です。漁師をしている彼の父親が「対馬には片腕を失くした漁師がいる。」と話したと言うのです。理由を聞いて驚きました。

 李承晩ライン付近は良い漁場なのですが、操業している時に韓国警備艇が現れると、網を捨てなければ逃げ切れません。そこで、魚群の中に着火したダイナマイトを投げ込み、浮いた魚を掬い獲って一目散に引き返したのです。ダイナマイトを投げる時に魚群が逃げたりして、瞬時投げるのを忘れて腕を飛ばされてしまったと言うのです。

 福岡からも多くの漁船が出漁していました。銃撃で殺された人などが何人もいて、大雑把ですが、約300隻・約3000人以上が拿捕・抑留されて長い間酷い目に会ったのです。知っている方も多いと思います。請求権協定を結び、日本は被害回復の請求はせず政府が補償しました。当然ですが日本政府は口にしません。竹島問題はそのまま残りましたが、「独島(竹島)を爆破して失くしてしまいたい。」と朴正熙大統領が漏らしたという話がありますが、本当かも知れないと思います。

ある朝鮮人の小学生が日本人級友に励まされた事を忘れませんでした。

 福岡に兄事するIさんがいます。ご両親には仲人をしていただきました。お母様が亡くなられての葬儀の時、初めてお顔を見る女の人が目に留まりました。普段からIさん宅に出入りする人は概ね知っていましたから、葬儀後に尋ねてみました。Iさんは「小学の時の友達だ。殆ど会っていなかった。」と答えました。そして小学校での出来事を話してくれました。

 ある時、一人の女の子(葬儀に来られた人)が男の子に「朝鮮!朝鮮!」と言われ、いじめられて泣いていました。それを見かけたIさんは「泣くな。朝鮮人が朝鮮、朝鮮と言われたからと言って、どうして泣くのか。泣くな。」と言ったのだそうです。その女の子は本当に嬉しかっただろうと思います。その行為・その言葉は、彼女の心の中にずっと残って忘れませんでした。そして、励ましてくれたその人の母上が亡くなったことを知り、葬儀に参列することで忘れられない感謝の想いを伝えたかったのです。私は大変感銘を受けました。

私のつぶやきです。

 小学生のIさんが「朝鮮人が朝鮮と言われて、どうして泣くのか。」と言った言葉は、単純であり鮮烈です。日本人も朝鮮人も他国の人もこの心が基礎でなければなりません。自尊心を持ち相手を尊重して初めて正しく付き合うことが出来ます。Iさんは若い時にハーバード大学メディカルスクールで研究しましたが、中国人・韓国人の留学生には「日本は大変すまないことをした。お詫びする。力を合わせてやらないか。」と語り掛けました。仲良く頑張ることが出来たと話しています。

 「朝鮮」・「チャンコロ」・「ロスケ」という蔑視の言葉は、耳にしなくなりましたが、完全には消えていません。「ヘイトスピーチ」には憤りを感じます。恨みを生むだけです。汚い言葉も許せません。日本(人)の品位を汚がします。戒めの心を忘れないようにしたいものです。

 朝鮮(韓国)の人達に詫びるとすれば何でしょうか。慰安婦問題や徴用工問題などは本来国交関係を裂く程の事でしょうか。私は別の事を思います。創氏改名の事と神社参拝の事です。法的強制ではなく朝鮮人が望んだ面もありますが、朝鮮人にとっては、口にしたくない程に悔しい事だと思われます。また、朝鮮人には「朝鮮の方が(中国)文明の先進国だ。」と言う気持があったのではないでしょうか。だとすれば、前述の二つの事ほど誇りを傷つけたことはないと私は思います。この事を朝鮮の人たちが口にするのを見聞したことはありませんが、彼らが悔しいのなら、慎重に受け容れられる方法で詫びるのが良いのではないか、と私は思うのです。

 私の祖父母・父母は朝鮮人を軽んじた事は一言も言いませんでした。ですが、国策レベルで進めた事に日本人の思い上がりがなかったか、考えてみることも大事ではないかと思います。互いに認め合って話し合える日は、直ぐには来ないと思いますが、諦めることは決してしてはならない事だと思います。。

 

 

 

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