福高16回美術部の思い出
2024/04/26
私は福高時代、美術部に所属していました。
当時の(昭和36~38年ごろ)美術部は、3階屋根裏で天井桟敷のような部屋でした。
(卒業アルバムから:旧姓のまま表示)
前列左から4人目から:荒巻照代、和田寿子、部長:(故)吉田泰彦、副部長:長谷川法世
(高原と兼村は写っていない)
ここから2人の方が世にでました。
漫画家 長谷川法世
創作作家 白男川(旧姓兼村)和子
の2名です。
長谷川法世君は、ウイキペディアに載るほど有名になった方ですが、在学中は飄々とした風貌の中に、情熱を秘めたようなイメージの生徒でした。美術部副部長として部長の吉田君と仲良く美術部を世話していました。
長谷川法世は実名でペンネームではありません。彼は法政大学に進学しました。漫画家の長谷川町子さんと親類ではありません。同じ博多出身というだけです。類似性はあります。博多在住で博多の日常をそのまま漫画にして成功しました。
「サザエさん」に描かれているのは、ほとんどがかつての私たちの日常です。長谷川法世の作品も、ほとんどがふるさと博多と母校福高を題材にしています。
博多は「博多商人」「博多にわか」を生んで、経済的に豊かで自然災害も少ない地勢です。そして極めつけの豪華・絢爛・勇壮の「博多山笠」がある。何よりも日常使う「はかた弁」が漫画的で面白い。この好環境が、博多の日常=そのまま漫画になったのでしょうか。
部長の吉田君は絵画の道で世にはでなかったものの、技術的にも人間的にも部員に敬愛される人格で、その水彩画は当時より出色でした。
創作作家・白男川(旧姓兼村)和子さんは、私と同じ箱崎中学出身です。当時より学業優秀でなにもかもできる方でした。駈けっこ1番、絵画1番、そして文才が備わっていました。ブルマー姿のまま図書館で読書をされているのを、よく見かけました。
この方は生来の感性だけで成功された方ではありません。美術部で基本の基本を達成していった方です。休日には毎日曜日美術部屋でデッサンを重ねました。さらに自宅にブルータス像を置いてデッサンに励みました。
在学中(高校1年)で県展に入賞し注目されました。この油絵は母校箱崎中学の要請で箱崎中学に寄贈されました。
私は高校3年時、村石先生の3年4組でした。これは私たちが使用した国語の教科書です。村石先生はこの教科書に感銘し、「これは人に譲ってはいかん」と言明されました。
私たち福高16期生・昭和20年生まれは1945年8月15日の大戦終了を境に生まれた世代です。
建国以来初めての異民族支配を受けた時代に育ちました。思想・生活・体制が揺れ動いた未曽有の世代でした。私たちの両親はわずかな食糧での子育てにいかに苦難されたことでしょうか。また私たちは戦後の未曽有の教育を受けて成長しました
社会では教わったこととは異次元の考えが支配していました。私たちも社会もともに困惑し、相手を理解することができませんでした。でも福高16期生は生き延び、社会、両親との葛藤の中で生き延びたのです。社会も両親も恨んだり批判してはいけません。あの方々は、それまでの価値観が根底から覆ったパラダイムシフトの中で、この日本社会という神輿を懸命に担いでこられ方々ですから、賞賛しましょう。
(4/26追記)《美術部キャンプ裏話》
美術部で秋に九重にキャンプに行った時の話です。
一行は男子4人女子2人(兼村和子、田中美佐子)の総勢6人です。
貸しテントに4人用と2人用を注文していました。
ところが現地で設営してみたら、なんと3人用が2張りでした。数さえ合わせればとテント屋の独断ですが現場では混乱してさあ大変!
それで男子1人を女性テントに送り込むことになりましたが、兼村和子、田中美佐子のお二人は承諾してくださいました。
結局2晩で2人がが女性テントに送り込まれましたが、派遣されたお二人にはいい思い出になったことでしょう。