沖縄と私の思い(1)

      2020/01/03

◆沖縄戦で砲爆撃を受け焼失した首里城正殿

[ 首里城炎上 ]

 10月31日未明、沖縄・那覇市の首里城正殿1階北側付近から上がった火の手は、風にあおられ11時間にわたって燃え続け、正殿や北殿、南殿などが全焼、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品の多くが焼失しました。

 たまたま首里に滞在中の私は、燃え上がる炎を近くから見つめました。周りの人達も無言でした。この機に、沖縄に心を寄せる私の思いを書きたいと思います。

※燃え上がる首里城を目撃した無念の思いについては、インスタグラムに投稿しています。

[ 沖縄に寄せる特別な思い ]

 私達は生れ育った郷里や社会人として成長した場所などに思いを寄せます。私は生地の他に沖縄に特別の思いがあります。発端は陸上自衛隊幹部候補生学校入校中です。沖縄戦史の教育に続く現地研修で米国統治下の沖縄に行きましたが、この時に強い思いが生まれました。その後縁があって結婚した妻は沖縄が父祖の地でした。3人の子供達にも縁が繋がる地となりました。加えて、中隊長の責務を担ってこの地で勤務しました。この稿では、契機となった戦史教育と現地研修の事を書きます

[ 沖縄に心を向けさせた戦史教育・現地研修 ]

 沖縄作戦を学ぶ迄は沖縄の事を詳しくは知りませんでした。また、米国の統治下にある意識も特に強くはなかったと思います。東西冷戦下での沖縄の戦略的意義は理解し、ベトナム戦争との関係にも注目していましたが、沖縄の祖国復帰運動や人々の生活などには関心が薄かったのです。 
 しかし、壮絶な沖縄戦を知って現地では実相を突き付けられ、外国に統治されている姿を目のあたりにしました。その時、沖縄に心が向き強い思いが生まれました。

[ 初めての現地研修で学んだこと ]

 本土復帰前の昭和43年、鹿児島から民船で沖縄に向かいました。各人が※旅券(身分証明書)を携帯しました。那覇港で接岸し、琉球大学の過激派学生に上陸を妨害されながら初めて沖縄の土を踏みました。その時の心持は今でも蘇ります。「ここは日本だが日本ではない。」との思い、そして「沖縄の人達はどんな暮らしをしているのだろうか。」と言う漠然とした気持だったと思います。

※旅券:日本政府の旅券ではなく米軍からの査証であったようにも思うのですが、はっきり記憶していません。沖縄で提示することはなく帰校後返納しました。

◆昭和30年頃の那覇港 現地研修時の様子も同じ感じでした。対岸は米軍埠頭です。

 現地では主に戦闘戦史を研修しました。昭和20年4月1日の米軍上陸後の強靱な防御戦闘及び一度だけの攻勢時の無惨な戦闘を、地形・地物と陣地跡などで学び、行く先々で将兵と住民が亡くなった有様を瞼に感じ取りました。

 陸軍病院壕跡と後退後の壕(ひめゆりの壕)や摩文仁断崖の第32軍司令部壕跡(洞窟)にも足を踏み入れました。なお、本島に先立ち慶良間諸島では大きな集団自決が起こり、伊江島では島民も加わって必死の戦いをしました。

◆沖縄現地研修・南部戦地 愛國知祖之塔(愛知県の慰霊碑、浦添城址内)平成6年に沖縄県糸満市摩文仁に移されました。

[ 沖縄県民斯く戦えり――県民の献身的協力と犠牲 ]

 沖縄戦は国土での唯一の地上戦でした。戦後発行の本の表題を借りれば、約3カ月間「鉄の暴風」に晒されたのです。しかし、作戦・戦闘の記述は本稿の本旨ではありません。戦没者について述べます。

◆米軍の本島上陸(読谷・渡具知海岸) 第一線海兵隊は上陸し、後続部隊・物資等を続々揚陸中です。
第1日目に約6万名が上陸。日本軍は一切反撃しませんでした。

 軍と県民の戦没者は夫々ほぼ10万人と見られます。軍は9割以上が戦没しました。軍戦没者には現地招集の入隊者・軍属も含まれますから、県民の戦没者は12万人以上になると推定され、大部分が沖縄本島住民です。約8万人の疎開者を除く41万人近くが在島していたと見られますから、4人に1人は死亡した事になります。本島南部地域に限れば、ほぼ3人に1人と言うのが実相に近いとの見方もあります。

 戦える者・働ける者は全てが軍に身を投じ斃れて行きました。残された老幼婦女子は戦場を逃げまどう中で多くの者が斃れました。戦い末期に至り住民・女子学徒隊員の自決も起こりました。

 また米軍の死傷者は、陸軍・海兵隊約28万人のうち、戦死者が約12,500人・戦傷者が約55,000人と見られています。

◆嘉数高地(現在の姿、北:敵方を望む。)当時は畑・荒地が多く広がっていました。最初の陣地防御線の左翼です。米軍歩兵師団を半月以上阻止しました。

◆52高地(シュガーローフ)首里防衛線西端天久台の丘で、現在のおもろまちの西側です。米軍海兵師団は死傷約2,700名・戦闘神経症約1,300名を出しました。

 なお、戦況も末期となった昭和20年6月6日、圧倒的に優勢な敵軍の猛攻を前に、玉砕を覚悟した海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田實海軍少将(死後中将)は、海軍次官宛に以下のように打電しています。

●6月6日電文要旨

沖繩県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく……本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

・・・・・県民は青壮年の全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を持って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚砲爆撃下、風雨に晒されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

・・・・・・一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

●さらに6月12日の電文では

朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集し、煙弾を撃ちこみあり。我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり。74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む。

 この後6月13日に、大田少将は自決されました。末子の豊君は防大の同期生です。

◆焦土と化した那覇市街(昭和20年5月)

◆米軍に保護・収容される住民 老人・子供・婦女子が多いように見えます。

[ 本土復帰前の沖縄の様子 ]

 研修は主に南部地域でした。現在では当時の姿とは全く変わりました。那覇市街には多くのビルが並んでいましたが、今日の様な立派な建物はありませんでした。破壊された首里城では、琉球大学が出来ている事を嬉しく思いながら、第32軍司令部地下壕跡を研修しました。那覇市北方の地域は、米軍基地以外は未だ畑と荒れ地が多くあり、民家も沖縄らしさを感じるものの貧弱に見えました。

[ 沖縄の人との触れ合い ]

 研修間は那覇市波の上の旅館に3泊したと記憶しています。夕食後3時間ほど外出が許可され、私は3人ほど一緒に国際通りに出掛けて小さな土産物店に入りました。コーラなどをご馳走になって店主のおばさんなどと話し込み、結局は連日そこに行って過ごしました。大して土産物も買わない私達を相手に大変親切でした。戦後の事や米軍の事或いは生活の事などは話題にせず、おばさん達からも「苦労話」は聞かなかったように思います。豊かではない様に感じましたが、大変明るい雰囲気で楽しかった事を覚えています。外出時の私達は私服でしたので、最初から身分を打ち明けましたが、全く気にせずに接してくれました。

◆国際通り(現地研修の頃と思われます。) 奇跡の1マイルと言われ、戦後最初に賑やかになった所です。

[ 米軍基地見学で感じたこと ]

 見学では在沖米軍の強力さを認識し、ベトナム戦争最中の兵站基地としての姿も実感しました。しかし、目にして来た島の様子とは異質のものを感じて複雑な気分になりました。基地で働く沖縄の人達の姿には、日本本土の同様な人達に対するのとは違う思いを持ちました。何か悔しさや反発を覚えたように思います。また、海兵隊の大佐の話で「自分が沖縄で戦った日本軍ほど手強い相手は無かった。」と聞いた時には、胸中で「当たり前だ。」と思いました。

◆米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)約2.7㎢、返還の合意が出来ています。現地研修時はベトナム戦争最中で、後送された大量の車両などで溢れていました。

[ 妻との結婚、沖縄の祖国復帰なる。 ]

 沖縄から幹部候補生学校に戻った私達は、半年余の教育の最終課程を終えて全国の任地に向かい、私は大阪の第37普通科(歩兵)連隊に赴任しました。2年後に妻と婚約し、翌年結婚して沖縄との深い縁が生まれました。

婚姻届に添えた妻の戸籍謄本は、沖縄の市町村に代わって戸籍関係事務を扱う現福岡地方法務局発行のものでした。結婚した翌年の昭和47年5月15日に、沖縄はようやく祖国日本に復帰しました。その秋10月、新編の臨時第1混成群主力を指揮する妻の父は、北熊本駐屯地から新設の那覇駐屯地に移駐し、生まれ故郷沖縄県防衛の任務に就きました。

◆陸上自衛隊臨時第1混成群主力の沖縄移駐
那覇空港に降り立つ混成群長(国旗の後)。
自衛隊の沖縄県防衛が始まりました。

※この稿終わり。

 

 

 

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