江副さんとリクルートと私【第二章 】成長と課題/小野塚満郎new

   

 

成長と課題   私はリクルートの「課題解決担当」だった。

 

志布志ファーム研修

 私は昭和44年リクルートに入社、福岡営業所で二か月間研修ののち、6月に東京営業部三課に配属されました。ここで三年半勤務した昭和47年9月、鹿児島と宮崎の県境にある町・志布志の牧場兼農場へ研修に行きました。

◆志布志ファーム

 当牧場兼農場が作られたのは、小松左京の『日本沈没』がベストセラーになっていた頃のことです。目的は江副さん曰く、「自然災害が起きた時、農場を持っていれば社員が食べ物に苦労しないですむ…」から。もう一つは、研修好きな江副さんのことですから、この牧場に部単位で農場手伝い研修に行かせることにしたわけです。研修半分レクレーション半分でした。研修の最後はたき火を囲んで歌い、喋ったものです。農場の運営は、社員の希望者が行っていました。学生時代から希望していたとのことでした。

 不動産好きな江副さんのしたことです。後のオイルショック時期、志布志湾が石油開発=石油貯蔵基地になり、志布志近辺の土地が高騰、ファームはクローズしました。クローズしに部下と二人で清算仕事をしました、帰りに霧島温泉で一泊した記憶があります。※志布志ファームについては、第3章に記しています。

営業から突然経理へ異動

 ファーム研修を終えNビル(この8月に竣工したリクルート最初のビル、西新橋ビル)の営業部フロアに戻ったところ、営業部長溝渕さんから「小野塚君、明日から君は経理部門で働いてもらう」と言われ、茫然としたのを覚えています。すぐに経理部長奥住さんが来て、君に頼みたい仕事があると4000万円の未入金リストを渡され、『回収してくれと』と一言。これが、私のリクルートでの、トラブル解決担当=リクルートが急成長を遂げたがゆえに、そのプロセスで起こるさまざまな「課題解決担当」の始まりでした。江副さんが亡くなるまで続きました。この人事の背景に、江副さんがいたのではないかと、憶測しているのです。

70~80時間の残業で給料が倍に

 経理部でまず所属したのが「受注管理課」、売り上管理、請求、売掛金回収が仕事です。急成長が始まったリクルート、経理部に行くと、入社して数年の高卒の若い男子・女子社員が、伝票集計、請求書作りで毎日残業、売掛金回収どころではありませんでした。手作業で処理していた時代です。そんな状況の中、部長が誰かいないかと江副さんに相談し、私に白羽の矢が立ったのではないかと思います。

 幸いにも三千万円の未回収の売掛金は、不良売掛金ではありませんでした。対象会社の経理を訪問、支払われた請求書と入金をチェックさせていただき、未回収分を再請求、二か月で回収した記憶があります。

 この人事異動で経理部門へ行っての最大の変化は、給料が倍になったことです、なんと月に残業が70~80時間、そう、毎日3~4時間の残業があったのです。若い男女が猛烈に働く要因の一つだったと思います。営業マン時代、残業はゼロでした。売掛金の回収には、電車や車での集金もありました。小切手、手形が主でしたが、偶に数万円の現金もありました。そうです、リクルートの営業マンは、郊外の小さな会社にも営業していました。

 私の役割は、売掛金回収、売り上げ管理です。東京だけではありません、北海道から九州まで、全国の事業所、営業所が対象でした。売り上げ管理、営業マンの売り上げ管理、整理です。当時オイルショック等で、売上キャンセルが発生、営業部門は売り上げ取り消しをしませんでした。江副さんから、真の売り上げが知りたいと要望がありました。営業マンから直接ヒヤリング、実態を把握しました。営業マン経験者だからこそできた仕事ではないかと思います。入社五年も過ぎるとベテラン社員です。営業課長等の意思は無視して営業マンから直接実態の数字を聞き把握していきました。

営業マンの足を止めるな

 受注管理課の整備が進むと今度は財務課でした。受注管理課の仕事に目途がついた一年後財務課へ、現金出納、社内預金、資金繰表作成をすることになりました。現金出納では毎日高卒の女性が夜遅くまで残業していました。江副さん指示で、現金出納は毎日出金です。社内預金引き出しも毎日です。江副さんの『営業マンの足を止めるな』の考えです。営業マンは交通費が必要でした。その日暮らしの社員が多いのがリクルートでした。(社内預金金利は6パーセント、便利で利回りの良い預金でした、決算時に日分で細かく利息計算していました)前日提出された、交通費・経費等の支払伝票を翌日午後には出金するのです。100件以上の件数だったと思います。毎日銀行に現金引き出しに行きます。一日締めて伝票残と金庫残のお金が合うまで残業でした、夜九時、10時過ぎは当たり前でした。銀行と一緒です。それを出金時に、間違いが無いか判明する仕組みを考えました。必要な現金を必要な金種で、銀行から引き出してきたのです。出金封筒に入れて、お金が余るか不足すれば間違いが分かるという仕組みです、銀行の協力を得て行いました。

 これで残業の原因、悩みは無くなりました。しかし絶対的仕事量の多さは増えるばかり、結果残業は減りませんでした。毎晩タクシーで女性社員を京王線つつじヶ丘にある寮へ送り、八王子狭間まで帰る日が続きました。

働きながら税理士資格を取得した女子社員

 こんな中、特異な高卒女性社員がいました。残業ゼロ時間、そう、5時に退社、夜間大学へ通っていました。9時―5時の仕事時間、生産性高い勤務時間でした。寮生活をしながら、仕事と勉学を両立させていました。

 彼女の後輩への指導の一コマ、勤務中後輩の電話での受け答えに、「もっと大きな声で話しなさいと」と注意していました。そうです、はっきり、大きな声で受け答えしないと、答えていることが正しいか間違っているか判らないからです。

 やがて彼女は税理士資格を取得、リクルート退職後は税理士として独立、結婚、子育ても、山歩きの趣味も続けていました、現代の女性の鏡のような存在です。リクルートにはこのような人材がたくさんいました。人材を産む環境がありました。江副さんならではの、環境作りでした。

 江副さんは給与の銀行振り込みは反対でした。時代が変わり、毎月の給与の銀行振り込みは認めましたが、ボーナスだけは、現金支給にこだわっていました。その趣旨は、男子たるもの、家の主として、給与を現金手渡しで女房に渡すことが、重要だという考えです。賞与支給日には、芝信用金庫から現金を引き出し、芝信の部屋を借りて、袋詰めをしました。

 ある時資金繰り表を作っていたら、マイナスになります。どう計算しても、赤字になる。部長に報告、部長が銀行を駆け回って何とか、1億円借りることができ、乗り越えました。

 - 江副さんとリクルートと私 第二章②に続く -

 

 

 

 - コラムの広場