江副さんとリクルートと私【第二章 ②】/小野塚満郎new

      2020/08/20

 

事務処理の合理化に努めた経理課時代

 財務課の次は、経理課です。当時の事務処理の電算化は一部でした、試算表、バランスシートは、伝票をソロバンで集計、手組していました。一か月分の伝票を手分けして、日計表、月計表を作成、前月末残に加算減産、試算表を作っていました。この日は完成するまで残業でした。競争で楽しんで処理していました。ベテラン社員がいて、最後は彼が仕上げていました。

 経理課の仕事は増える一方でした、子会社化も進み始め、その経理もしました。やがて関連会社課、関連企業室へ成長し、私が日本中、世界中を飛び回ることになりました。別稿で書きます。

 経理課時代の事です、ベテラン営業経験者のメンバーが一言、『営業部門の業績評価、営業マンの業績評価で、利益率が高い商品を売っている人と、低い商品を売っている人の評価が、売上高評価で、同じなのはおかしい、利益高で評価すべきだ・・・』と言ったのです。そこで考えたのがPC会計、プロフィットセンター会計=部門別会計の仕組みです、別稿で紹介します。後に部門別会計課へ成長しました。

 経理課時代に勉強したことがあります、税務会計です。簿記の簿の字も知らない私が、税務会計の分厚い本を読みながら、税務申告書を書いたのです。

 その理由は、江副さんが決算期変更を指示してきたからです。11月末決算を一か月決算、三か月決算、二回もして、今の3月末決算にしました。会計士の谷尾先生に相談しながら、会計全書を片手に勉強、大間違いをしながらも、修正申告をして乗り越えました。営業所が全国にありましたから、地方の申告書も含めると、30近くは書いたと思います。お蔭で税務に詳しくなりました。失敗は成功の元です。

 リクルートは、失敗は問題にしませんでした、失敗しても取り戻せば高評価をしていました。社員が成長する大きな要因です。その時知った事ですが、三か月決算は赤字です。赤字だと前年度の納付した国税が還付されたのです。地方税は戻ってきませんでした、翌年度納税額との調整でした。国税の還付金は億単位です。

 納税を手形でするよう指示されたことがあります。私は芝税務署、東京都税事務所、大阪府税事務所、愛知県県税事務所を訪問、交渉、認めさせました。経理課時代は勉強時代でした。

 何故手形で納税したのか、それは、オイルショック、ニクソンショック、ドルショックと言われ、一時的に不況の風が吹き、企業が内定取り消し、採用手控えが起きた時のことです。リクルートブック等の売り上げが落ち、時期も後ろにずれていきました。当然売上金の入金も後ろにずれ込みました。江副さんは不動産投資に積極的で、納税資金等で借りていた資金を、それに使っていましたから、資金不足が生じていたのです。

 

20を超える金融機関との付き合い

 経理処理、税務の仕事については、優秀な仲間が来て担当してくれましたので、私は財務課へ再度行くことになりました。
 江副さんは、銀行との付き合いに大きな関心を持ち、大事にしていました。年末年始の届け物、機会あるごとの会食など、積極的に行いました。江副さんが行くのは部長と二人で、相手は銀行トップクラスの方達でした。役員、支店長以下と対応するときは部長、私も同席、お酒が飲めない部長の代わりの飲む役割を務めました。取引のある金融機関は、銀行、生命保険、損害保険合わせると、20を超えていました。平日会食と週末のゴルフ接待、月に4~5回、年にすると数十回です。こちらが接待をすると、必ずお返しがあります。今思い出すとよく体が続いたなと思います。家庭のことなど、全く女房任せでした。

 江副さんが事業を成長、拡大していくのに資金は、絶対必要条件でした。リクルートの収益力は高く、金利負担力は十分にありました。資金は借りられるだけ借りようが,江副さんの方針でした。当時の銀行金利は6~7パーセントの時代です。今思うと夢のような金利です。定期預金等の利息も同様に高く、ある程度の預金をすれば、定年後は年金生活にプラスして、その預金利息で豊かに暮らせると思っていた時代です。

 

金融機関からの信頼を得た『営業報告書』

 経理課時代は、経理事務=伝票処理、試算表作成、税務、利益管理等、知識を習得した時代でした。そして決算時期になると、営業報告書作成という役割がありました。リクルート100ページを超える、中身の濃い営業報告書を作成していました。主な内容は各事業部門報告、特に営業部門のデーターペースの詳細な内容でした。目的は社員に会社の業績を詳細に伝えること、リクルートは情報公開100%の会社でした。社員あってのリクルートです。同時に金融関係はもちろん、印刷会社等取引先に配布することも大事な目的でした。江副さんの考えです。

 この営業報告書、創業時からしばらくは、原稿全てを江副さんが作成していました。私の知らない時代です。やがて江副さんが原稿を書く余裕がなくなり、私が担当するようになりました。各部門担当役員に原稿を書かせ、それを江副さんが推敲していました。

 時期になると毎晩8時か9時ごろから、読み合わせが始まります。社長室で二人、私は黒と赤の鉛筆を持ち、江副さんが口頭で修正していくのを、記入、訂正していきました。何度も何度も行ったり来たり、「小野塚君読んでみて」と言われては、書き直していました。そのたびに原稿が読みやすくなっていきました。副詞、形容詞が削られていくのです、主語述語が、ハッキリしてきました。勉強になりました。前後の流れが繋がって行きました。何度も何度も読み返しをしながら、深夜遅くまで、こんな毎日が何日も続きました。

 江副さんが自分の考える事業展開をして行くために必要なのは資金と人材です。資金を得るために、最大限の努力を重ねていました。営業報告書の配布で重要なこと、それは銀行に配布すること、その効果は絶大でした。金融機関から信頼を得たことです。私が財務部長時代、銀行の方から営業報告書の高い評価を耳にしました。彼らがリクルートへの融資申請稟議書作成に大きな役割を果たしていたのです。

 

東京五輪後の不況、オイルショックを経て、高度経済成長期に突入

 江副さんの事業展開に必要なのは、資金と人材でした。資金を得るためにはあらゆる努力をしています。昭和47年8月に最初の自社ビル・西新橋ビルを竣工しています。これを手始めに、新大阪ビル第一、第二、名古屋ビル、福岡ビル、広島ビル、大宮ビル、フロムーAビル、RCPビル、G8,G7と次々と支社、営業所、関連会社ビルを建設、取得していきました。相当の資金が必要、借入金が必要でした。金融機関から信頼を得るためには、あらゆる手段を尽くしました。そのベースになったのが営業報告書です。オリンピック後の不況、オイルショック、ニクソンショックを経て、所得三倍増方針が政府から出て、やがて高度経済成長時代へ突入、リクルートは、大きく成長していきました。

 

 

 

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