江副さんとリクルートと私【第一章 ④】/小野塚満郎
2020/10/21
「江副さんとリクルートと私 第一章 ③」から続く。
異能の天才――江副さんと織田信長
江副さんの考えや行動は、戦国時代の覇者・織田信長と似たところがありました。数々の大胆な変革を成し遂げた風雲児でありながら、天下統一を目前に躓いた信長。リクルートを創業し、時代の寵児と賞賛されながら、「リクルート事件」で表舞台から姿を消した江副さん。功罪両面を併せ持ち、人の評価でも好きと嫌いが相半ばする点もよく似ているような気がします。
日本の戦を変えた「長篠の戦い」
日本の軍事戦術を根本から変えたと言われる「長篠の戦い」。織田信長は鉄砲を駆使した近代戦術で、勇壮無敵と謳われた武田の騎馬軍団を打ち破りました。1575年の事です。海外から情報を得た信長は、火縄銃の扱い方をいち早く習熟し、また数を揃えることで100%勝てる圧倒的な軍隊を作りあげたのです。
並行して、城の周囲に楽市楽座を設け、商業の発展を促し、そこから得る利益で軍隊を強化しました。それまで農業兼務だった兵隊をプロ化した、戦闘専門の部隊です。さらに堺での鉄砲作りに、高性能で修理が可能な分業制を取り入れ、大量の武器を確保できる体制を作りました。堺も利益を得ることで、生産増に応えることができたのです。つまり信長は、外国の情報を基に、長期的展望に立って、戦略戦術を練り、常勝軍団を作り上げたのです。
一方で、江副さんも同様でした。アメリカ経済の躍進ぶりを見、10年20年後の日本を予見して、経営戦略を立て、事業として成功100%の戦いを進めて行ったのです。鉄砲の代わりは、資金と人材でした。
二人には驚くほどの共通点が
1)二人とも情報を得ることに長けていました。
戦をするにあたって信長には、相手方の動きを読む卓抜した力がありました。また、宣教
師などから外国の情報を得、戦略に取り入れました。
江副さんも、事業を拡大する際にアメリカ経済の動きを注視し、P.F.ドラッカーを愛読、新聞を下から読む(まっ先に広告欄をチェック)等、情報を得ることに努力を惜しまない人でした。また、細かいことですが、毎週月曜日部長会議などがあるときは、1階から階段で上がり、各フロアを回り、女子社員の間をめぐって、何らかの情報を得ることを習慣にしていました。そして、一度決意すると、あらゆる手段を講じて達成へと結びつけました。
2)人材活用に壁を作りませんでした。
信長はあらゆる人材を受け入れ、使えなくなると容赦なく外して行きました。江副さんも中途採用に積極的で、プロパーの社員、たとえ部長クラス、役員であっても、使えないと判断すると地方や子会社に外していきました。
3)信長は本城を作りませんでした。
信長は幾つもの城を建設しましたが、ここが本拠地という「本城」を持たず、その目は世界に向けられていました。江副さんも、ビルを建てても「本社ビル」とは呼びませんでした。
4)二人とも派手なイベントが好きでした。
5)ストレス解消のためつねに“苛め”の対象となる人間を用意していました。
選ばれた人間はたまったものではありません。
6)自分の関心事の意思決定には、人の意見に耳を貸しませんでした。
信長は、部下が勝手なことをして戦に勝っても褒めなかったそうです。
江副さんも同じ、自分の関心事、特に総務マターの事が好きで、それを総務部長などが相談なしに進め、決めるとあとで怒っていました。
7)粘着質でしつこい性格
8)根は弱い人間 等々
あの戦国時代に、なぜ織田信長という異能の天才が登場したのか。農耕民族の日本において、戦後の混沌とした昭和の時代に、なぜ江副さんという攻撃的な人が育ったのか。今でも解き明かせない謎です。
1989年リクルート事件発生、2014年江副さん逝去。江副さんの逝去は今から6年前ですが、それよりさらに25年前に、日本経済は江副浩正という稀有な才能を失ってしまったと言えるかもしれません。
もし、江副さんが事件で躓くことなく、その後も経済人として思うまま辣腕をふるっていたら、たぶんYahooもなかったし、楽天も、ソフトバンクも現在のような形では存在していなかったのではないかという人がいます。なぜか、それはリクルートがそうした事業をやっていたのではないかというのです。そんな「たられば」に答えを示すことなく、江副さんが私たちの目の前から立ち去ったことを、残念に思わずにいられません。
- 第二章へつづく -