江副さんとリクルートと私【第一章①】/小野塚満郎

      2020/10/21

 

江副さんの発想・識見・ビジョン
昭和の時代に、なぜこんな人が生れたのだろう。

 江副さんが稀代の天才経営者であるのは間違いありません。なぜこんな人が生まれたのか、存在するのだろうと、つねに不思議に思っていました。

 第一章では、私が半世紀近く江副さんの傍にいて見聞きしたことを綴りました。江副さんの不可思議な行動や面白エピソードを通じて、常人には理解しがたいその人間像に迫っていければと思います。

なぜ東京大学教育学部なのか

 江副さんは1936年(昭和11年)大阪市生まれ。甲南中学・甲南高校を経て、1960年(昭和35年)に東京大学教育学部教育心理学科を卒業しました。なぜ教育学部を選んだのか、ある会合で江副さんの高校の同級生からその理由を伺ったことがあります。

 その人が言うには、「江副は東京大学教育学部を受けて合格、入学しました。私は難しい学部を受けて失敗しました。高校時代、江副より私の方が成績は良かったんですけどね…」とのこと。そして、なぜ教育学部なのかというと、「江副は学部と言うより、東大というブランドが欲しかったのではないかと思います。将来事業家になるには東大卒と言う肩書がどうしても必要だと考えたのではないでしょうか」と笑いながら教えてくださいました。
 つまり江副さんは高校生の時から、将来事業家になることを見据え、東大への入学もその手段の一つだったというわけです。

芽生えた起業への想い

 江副さんがリクルートを創業したきっかけは、経営難に陥っていた東京大学新聞から経営の立て直しを依頼されたことに端を発します。その手段として、大学新聞に企業からの求人広告掲載を提案し、営業を始めました。これが、大学生への求人広告の始まりです。

 東大在学中のことですから、昭和30年前後の事と思われます。この企画はその後他の旧帝大、早稲田大学、慶応大学新聞へと広がっていきました。大学生への求人広告が、ビジネスになると心の奥に秘めた時期だと思います。

リクルートの原点「企業への招待」

 リクルートは、学生に就職情報を提供する会社としてスタートしました。それまで大学生の就職活動は、教授の推薦か、学校に掲示される求人情報=試験日情報が中心で、それに東洋経済が出していた、会社四季報をチェックして企業内容を知るのが唯一の手段でした。 

 そんな時代に、江副さんの友人がアメリカの大学で配布されていた就職情報誌「プレースメント」を持ち帰り、それをヒントに創刊したのがリクルートブック「企業への招待」です。人材を求める企業と仕事を求める学生たち、両者のニーズを結びつける新しい情報誌ビジネス。今では当たり前ですが、当時としては画期的だった"広告だけの本”の原点です。

 当時情報は無料、ただで受け取るものだというのが常識でした。その分、情報にお金を出して利用するという感覚は弱かったと思います。それを江副さんは、広告そのものをコンテンツにした就職情報の専門誌を発行し、正確で大量で早い提供という三原則を基本方針としたのです。その第一歩がリクルートブックであり、そこから次々と情報のジャンルを拡げ、事業領域を拡げていきました。そのお手本はアメリカの経済であり、社会でした。

最初の10年は苦労の連続

 リクルートは1960年(昭和35年)3月に、大学新聞広告社として創業、10月に法人化しています。60年安保の年です。経済成長はめざましく、会社の求人攻勢が積極的になり、リクルート創業にふさわしい年だったと思われます。しかし事業が上昇ラインに乗るまでには、かなりの苦労があったと聞いています。私が入社する数年前までの10年弱の期間、貸机業をしたり、家財道具を売って資金繰りをしたり、賞与を払えなくて株式を分けたりしたそうです。

窮すれば変ず、変ずれば通ず

 私がリクルートに就職したのは、1969年(昭和44年)4月、創業から9年目です。それまでのリクルートは中途採用のみ、新卒採用は昭和43年からで、私は大卒採用二期目でした。

 社名は株式会社日本リクルートセンター(営業していると、日本レクレーションセンターとか陸送センターとかによく間違えられました)で、年商は数億円。社内の雰囲気は学校の延長で、上司、役員の呼び方も、肩書で呼ぶことは無く、名前を「さん」付けで呼んでいました。つまり社長になっても会長になっても江副さんです。これは77歳で亡くなるまで変わることはありませんでした。

 昼休みになれば、将棋盤を持ちだして早打ち将棋、7月8月の営業が暇な時期は、夏休みの雰囲気でした。この社風がリクルートの卓越した人材を育てた基盤でした。「自由と自主性と責任」これらをバランスよくコントロールしたのです。社訓「自ら機会を創り出し機会によって自らを変えよ」が、それを体現しています。江副さんの好きな言葉「窮すれば変ず、変ずれば通ず、通ずれば即ち久し」が思考と行動の指針でした。

江副さんと不動産取引

 江副さんは不動産事業が好きでした。きっかけは、アメリカの不動産会社T不動産です。T不動産はニューヨークの貧民街の土地を買い占めていきました。その不動産が10年後20年後に大化けしていたのです。土地買収は大成功を収め、現在の会社の土台を作りました。余談ですが、その資金の出どころはユダヤ資金だと言われています。現在のT氏に影響を与えていると考えられます。

 江副さんはなぜか、この不動産取引のことを知っていて、その取引事例を参考に、日本で大都市の中心にある駅裏の土地を買っていったのです。以前は赤線地帯と呼ばれていた土地で、安かったのです。そこに大きなビルを建てていきました。大阪、名古屋、京都、広島、博多、神戸、大宮、仙台と、次々と建設していきました。駅裏ばかりではありません、良い土地があれば買い、ビルを建てていきました。買う目的の一つは、不動産は値が下がらないという神話、不況になった時売却して資金を回収、経営を助けるのだと。バブル崩壊の時、正にその通りになりました。バブルが崩壊しても、土地を安く買って建てたビルは、利益を出して売ることができました。リクルートの子会社を支援する資金になりました。当時銀行は不動産取得資金の貸し付けは積極的だったのです。まだバブルの始まる以前の事です。

リクルートGINZA8ビル建設検討役員会

 1979年(昭和54年)銀座8丁目土橋交差点に、キャバレーショウボートの跡地を取得し、170億円かけてビルを建てる構想を提示した時のことです。江副さんは役員会で趣旨を説明、まだ売り上げが200億円のころに、170億円の借入金をしての買い物です。役員会は全員が反対でした。

 そこで江副さんが話したことは「リクルートは成長する、社員は増えていく、そのスペースが必要だ。内幸町に建設予定の大和生命ビル(高層ビル)の半分は必要だ。その家賃は年間で数十億円になる」と、リクルートの成長を予測、確信していたのです。これを聞いた営業担当の役員二人が「分かりました、営業部門は頑張ります」と答えたのです。銀行向けに10年の事業収支見通し、資金繰り表を手書きで作成、銀行に提出、170億円の借入金を実現させました。その資料を大事に残してあります。
 1981年(昭和56年)3月、リクルート銀座ビル通称G8は竣工しました。私が作成した 10年収支予測表を、大事に保存しています。結果、リクルートの実際の業績結果は計画を上回りました。

人材確保と育成・ROD研修

 江副さんは人材を得るために、あらゆる努力をしていました。採用費にかける金額は10億円をこえていました。高校、大学の新卒、中途採用、ヘッドハンティング、あらゆる手段を講じていました。そしてこの人材を上手く配置して、リクルートを大企業に成長させる基礎を作りました。各所の人材が生きているのです。

 あるとき私は、教育研修部門担当の役員から、人材バランスシートの話を聞きました。確か本にも書かれていたと思います。私は難しい本を読むのは苦手でしたが、この考え方=人材バランスシート論には納得しました。人材バランスシートとは、人材を、資産になる人、負債になる人、資本になる人、稼ぐ人、使う人に分けて、能力・性格を分析し配置していくのです。

 江副さんは、この人材を成長させるための手段としての研修が大好きでした。研修にかける予算も、無制限と言って良いと思います。代表的な研修はROD研修、リーダーシップ・オーガニゼイション・ディベロップメント研修です。新人、入社2~3年生、リーダー、課長、部長、役員すべてが研修対象でした。二泊三日の泊まりこみ、深夜に及ぶ研修です。

 プログラムは、自分の行動を四つの大きな因子に分け、それぞれに10数項目の質問が設けられています。この質問に後輩、自分、上司が5段階評価をつけ、その評価を比較します。三つの折れ線グラフを作成し、差が出てくる項目を選んで、差の原因を自己分析するのです。そしてこの分析結果が正しいか、グループ討議が始まります。この討議が癖ものでした。皆が納得するまで延々と続くのです。深夜いつまでも、最後に泣き出す人も出てくる研修です。私も何回も受けました、並行してこの研修のトレーナーも務めました。そうです、リクルートのマネージャーは何でもする、研修者でありながら指導もしていたのです。

 この研修が人材を育てました。自己分析能力の向上です。自分を冷静に見る習慣と能力を身に着けることができたのです。リクルートで育った人材は、今も多方面で活躍しています。リクルートは学校としても優れていたのです。

 孔子の教えに「過ちは誰でも犯す、この過ちを過ちと認めないことが本当の過ちだ」というのがあります。江副さんは、過ちを問題にしませんでした、過ちを経験し、正して次の成功に繋げれば評価していました。

 - 第一章⓶へつづく -

 

 

 

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