日本航空パイロット回顧録 最終章 いつからか銀翼に恋して
■
国産ジェット旅客機開発凍結に想いを残して
この回顧録、最初に投稿したのが2016年(平成28年)5月、6年半前のこと、そろそろエピローグにしたいと思います。
当時は三菱のリジョナルゼットMRJ(のち、三菱スペースゼットに改名)が飛行に成功し、2020年開催の東京オリンピックに花を添えると期待されました。しかしながら、設計上の不具合もあり米国連邦航空局の型式証明審査に合格できず、ついには開発そのものの凍結に至ってしまいました。型式証明は製造国日本が発行するものですが、米国当局の認可が得られなければ世界での飛行が不可能でビジネスになりません。
米国で認可されない理由は、旅客機製造ノウハウの蓄積がない日本の航空機産業が自前に拘るあまり、航空機製造先進国の助言協力を求めなかったことも一因と言われています。
■
NHK朝ドラ「舞い上がれ」を楽しく視聴
今、NHKの朝ドラで「舞いあがれ」が放送されています。空に魅せられた女性主人公が航空大学校に入校し宮崎での基礎座学訓練を終え帯広分校での初期飛行訓練、厳しい教官のもと同期生と助け合いながら目標に向かって逞しく生きるストーリーのようです。
私は初期飛行訓練を米国の飛行学校に委託され、カリフォルニアの空でおおらかに育ったので、このドラマと環境、教育技法も少し違いますが、飛び始めたころに思いをはせ毎朝楽しく視聴しています。
■
役員昇任か現役続行か――悩んだ末の決断は
■
ラストフライトはハワイ航路
現役機長としてのラストフライトはハワイ航路をお願いし、2001年(平成13年)3月30日、ハワイ大学在学中の娘や空港スタッフにレイを架けてもらいJAL73便(B747-300、登録番号JA8186)に乗り込みました。お客様は443人、ホノルル国際空港サンゴ礁滑走路をダイアモンドヘッド方向に向け現役最後の離陸でした。
巡航中は季節の変わり目で所々揺れがあったものの、針路を千葉県の犬吠埼に向け、太平洋上で日付変更線を跨ぎ何事もなく飛行。お客様への機内アナウンスは60歳でのハッピイリタイアではなかったので通常の挨拶に留めました。
機長として最後の到着地、成田は3月も晦日なのに雲が低く垂れ込め小雪が舞う天候でした。このような気象状態では自動操縦での進入が無難ですが、最後の進入は手動での操縦を選択、高度200ft(60m)でアプローチライト(進入灯火)を視認、滑走路34に着陸、ホノルルから成田まで9時間9分のラストフライトでした。
■
今も心は世界の空に
パイロット飛行時間約1万5千時間、カリフォルニア州サンディエゴでの初飛行以来33年、機長としては20年間の現役生活を終えて翼をたたみました。
現役中は南極を除くすべての大陸を飛行、と言っても南米は1997年(平成9年)4月にペルー・リマの日本大使公邸占拠事件で人質が解放された際に救援機で飛んだ一回だけですが、JALの定期便就航地の殆どを飛びまわりました。
リタイア後は、急に世界が遠くなってしまったという感じです。現役中は自分の操縦で、遠くでも15時間ほどで行き来していたものですから。
■
飛ぶことは天職――素晴らしいパイロット人生でした
我が思い出の空港、それは何といっても福岡板付空港、そしてローマ・レオナルドダヴィンチ空港、最後のホノルル国際空港でしょう。
私は、素晴らしいパイロット人生を送ることができました。