思い出の川を遡上して「その時、君は? 」体験募集!

      2019/09/16

 

あの日あの時、あの場所で――あなたの青春の“きらめき体験”をお聞かせください。

 私たちも既に古稀を遥かに越え、残りの人生の果粒を一粒一粒味わう気持ちで、毎日新しい朝を迎えております。

 さて先日、旧友住田君から“青春と原潜”とのタイトルのもと、次のような一文が送られてきました。実に懐かしい。その場にいたわけじゃないけど、その時は確かに共に生きていた。同じ空気を吸っていた。

 そこで思いました。皆さんも同じように“わが青春”時代、数奇な経験もしたことでしょう。
あの時自分は確かに輝いていた、あれがわが青春の光だったという体験を、お持ちではないかと思います。というわけで、「その時、君はどこで、何をしていましたか?」そういう思い出を交換し合う場を作ってはどうだろうと思い立った次第です。

 あなたもあの若き時代に戻り、「ねえねえ、あん時はくさ!今、考えると馬鹿んごたぁね」と語り掛けてみませんか。先ずは最初に住田君の原稿を読んでいただき、あなたの思い出を古い箪笥の中から引き摺り出してみてください。そんな、みんなでつくる「100人交換日記」をご提案したいと思います。

企画発起人代表 東京寿禄会幹事 竹田範弘
《全力協賛》 寿禄会ホームページ編集部

 

 

1964 Nov.

 

その時、君は? 【001】 住田 章夫

 

 

弓道ひとすじ”硬派“と呼ばれて

 1964年(昭和39年)11月。福岡市は六本松の九州大学教養部。同年3月、福岡高校を卒業し、憧れの九大の門を潜ったが箱崎の石門ではなく、最初の1年半は全員、本学部へ行く前の教養課程として市内西のはずれ”六本松”の学舎で勉学した。しかしそれまでの厳しい受験勉強から一挙に開放され、制服無用、頭髪自由、飲酒勝手、博打放題。義務教育の縛りの中で「規律遵守のみが美徳」と教えられてきた我々には、途端に箍が外れた生活となった。

 幸い私は弓道部に入部し、秋の新人戦を目指して脇目も振らず稽古に打ち込む毎日で、飲酒だけはコンパの連続で鍛えられたものの、麻雀・パチンコは部の先輩から「勝つようになるには大学生活の半分は注ぎ込まねば無理」と脅かされていたので、はなから“亡国遊戯”と蔑み、近づかなかった。そういう姿勢がいわば”硬派“と写っていたのか、教養部では体よく「クラス委員長」に祭り上げられていた。

学生を構成する4つのグループ

 当時の学生は4つのタイプに分けられ、ひとつは勤勉な学生、次には大学構内には入るが、どちらが本務なのか判らない体育会系、三つめは大学には出入りしているだけで、朝から名曲喫茶、暗くなると学生会館でジルバに興ずるノンポリ組。最後が何を目的に大学に入ったのか、60年安保以降、反体制の坩堝に嵌った学生運動家。その人種で構成されていたクラスで、私は今まで経験したことのない大きな社会的事件に遭遇した。

原潜寄港反対デモの逮捕者を救え!

 11月10日(火)朝、突然クラス会で緊急動議が出された。時の池田内閣が寄港受け入れを承諾した米軍の原子力潜水艦「シードラゴン」が、東京オリンピック閉会式を待って、佐世保に入港して来るという情報で世の中が騒然となっていた。その激しい現地抗議行動の中で、人伝えに、昨日の逮捕者にクラスメイト2名が含まれていることが知らされたのである。「信条が何であれ、このまま級友を見捨てることはでけん。直ぐに釈放願いの代表者を送るべきだ」血気だけは盛んの若者には一人の異論もなく、衆議一決。さっそく旅費のカンパが募られ、委員長の私以下、3名が派遣された。初めての佐世保駅頭に降り立ち、不退転の覚悟で佐世保警察署に直行。顔を引きつらせながら「釈放嘆願書」の束を差出した。

「あんたたちゃ、来るとこ間違えちょう。居ったのは初日だけたい。連中は未成年ということで直ぐに家裁送りになったけど、もう居らんかも知れんな。ま~だ子供んくせに、跳ね返らんごと、ちゃんと柱に結わえとかんか」
ガク!…心の中じゃ、お巡りさんに”官憲の横暴!“と叫びに来てくさ、このザマたい…拍子抜けもいい処。署を出た3人はものも言わず、とぼとぼ雑踏の中を当てもなく歩いた。いつもは静かであろうこの漁港は、明日に原潜入港を控え、各所から繰り返し沸き起こるシュプレヒコールに、街中沸き立っていた

「このまんまじゃ帰れんばい。あいつらの分まで反対しちゃろか」誰とは無しに意見がまとまり、渦の中に入った。その夜は宿賃もないので、興奮しているデモ隊とドラム缶の焚火を囲んで、夜通し語り明かした。

デモ隊の最前列に立たされボコボコに

 そして運命の朝、自分等としては岸壁で入港するシードラゴン号に向かって「入港ハンタ~イ!」と叫ぶものと思い込んでいたのだが、各方面のデモ隊は集結して市の中心部、ロータリー広場へと進んだ。すると、正面には盾と警棒を握った青いヘルメットの機動隊がズラッと並んでいるではないか。ギョ!こっちは飛び入り、それも釈放願いにきちんとアイロンを掛けた詰め襟の学生服姿。ヘルメットもなければ角材もない。ギョギョギョッとしている内に、後ろから押され、前には逃げられて、気が付けば最前列で機動隊と正面鉢合わせ。生まれてこの方、こんな怖い目に会ったことが無い。とっさに命より大事な眼鏡を外し、胸に抱え込んだので頭はガラアキ。ボコボコボコ‼地獄の30分が経ったであろうか、デモ隊第一波が退いた後に残されたのは、髪はバラバラ、金ボタンが一つとしてない学生服のヨレヨレ3人。第二波の叫喚を尻目にほうほうの態でロータリーを脱した。結局佐世保まで来て、歴史的な原子力潜水艦の舳先も見れずに、悄然と帰りの汽車に乗った。

文学青年だった平田君

 我々と行き違いに釈放、帰福していたのが平田勝利、狭間嘉明の二人であった。安保当時は「全学連」、この頃は「社青同」「革マル派」などと、私には何がどう違うのかさっぱり判らない学生運動であったが、平田の思い出には過激な印象はなく、どちらかと言うと文学青年であり、クラス誌に投稿された短編に強烈な感動を受けた。原題は忘れたが、40年前のおぼろげな記憶を辿って、添付の「ある渡世人」を私なりに再生してみた。

 

或る渡世人 平田勝利

 荒寥とした冬の空に雪を頂く赤城山から、乾いた空っ風が吹き降ろす上州のとある宿場町。その峠にふらっと現れた一人の渡世人。翻る縞の合羽を押さえながら、三度笠に手をやり、訪ねる当てがあるでもない集落を見下ろした。桑や絹の産物で潤いを得ている上州は、周りに国境が入り組んでいることから、地方の役人はそれを超えてまで危険な凶状持ちを追おうとはしなかったので、多くのやくざや博打うちが絶えず流れ込んでいた。

 ところが眼下の宿場は寂れているわけではないのだが、昼間から人通りがなく、巻き上がる砂埃の中をたまに荷を運ぶ姿が見られるだけであった。渡世人はまずは足を休めるべき、町の入口に構えた小さな居酒屋の縄のれんを潜った。

「じいさん、冷やでいいから酒をくれ。…なんで人が居ねえんだ?ここは」
「昨日の宵の口、賭場の喧嘩騒ぎで3人の流れ者が叩っ斬られてよ。いかさま賭博って言ってるが、果たしてどっちが悪いのか…、仕置きした方の言い分じゃ判らねえ」
「町を仕切ってるのは誰でい?」
「“丑寅”だ。今じゃてめえが掟だと抜かして、やりたい放題。腕の立つ流れ者を次々抱え込んでやがるから、町の役人もうっかり手が出せねえ。それどころが逆に、袖の下でとっくに丸め込まれてる始末さ」
「永いのかい?ここを仕切って」
「かれこれ10年になるか…、おめえさんのように流れて来てな。当時は石場の九六ってやくざが巣食ってて、そりゃひでえもんだった。そこに用心棒として潜り込み、最初は言いなりに誰それを散々叩き斬って、信用された頃合いを見計らい、今度は九六の寝込みを襲いやがった。それもたったの一人でだぜ。当時はこの救いの神のお出ましに、町の者は喜んだもんさ。しかし10年たちゃ、このザマよ」
「ふ~ん、てぇした悪党だ。そういうやつを蔓延らせるから世の中、堅気の衆が泣かされるんだ」

 ほどなく渡世人はこの悪党に草鞋を脱ぎ、いずれ世の為にと、一掃する気を窺った。まずは持ち前の商才を生かし、丑寅の弱い部分に力を貸す形で入り込み、手始めに蚕糸の取引きに首を突っ込んで一家の上りを増やしてみせ、いつの間にか勘定を任される立場についた。

 そして3年、年の暮れ。関八州見廻りを迎えたその夜に、彼は丑寅の横領、賄賂、殺しなど罪の数々を動かぬ証拠を揃えて、お上に訴え出た。もとより用意周到、すでにその方面には手を回し、十分に懐柔し尽くしていた。役人衆にとっても時には大々的に悪事を摘発し、務めの精勤さを世に示す必要がある、そのお膳立てをして、一挙に宿場の粛清を図った。宿場の皆も喜び、さっそく彼を町の大年寄りに推挙し、以後”仏の音吉”と呼んで慕った。

 そしてまた10年。時は流れても荒寥とした上州の冬空は変わらない。吹き降ろす空っ風も冷たく、今日も宿場に砂塵を掻き立てる。その埃の中から縞の合羽で口を覆い、破れた三度笠から眼だけをギラつかせた渡世人が一人現れた。

 「親父!冷やでいいから酒をくれ。…なんで人が居ねえんだ?ここは」
「昨日の宵の口、賭場の喧嘩騒ぎで3人の流れ者が叩っ斬られたのよ。やりたい放題さ」
「町を仕切っているのは誰でい?」
「”仏の音吉”って奴だ」

 完 

 

 

内ゲバの渦の中で

 この小文執筆に当たり、二人の消息を調べると、平田勝利はその後8年掛けて卒業し、北九州市議を経て、昨年まで市議会副議長を務めたとのこと。学生運動の闘士は地方とは言え、最後まで世直しに生きていた。

 一方の狭間嘉明は全く過激な道を往き、九大中退後「革労協」の幹部に就任。その後約10年、党派闘争に明け暮れ、8人もの死者を出し、狭間自身も加藤登紀子(夫は元全学連委員長)から伊東の別荘を借りての作戦会議中、水中銃で武装した革マル派に襲撃された。時のリーダー石井真作は刺殺され、狭間も瀕死の重傷。その時の襲撃者は倒れた狭間の口元に手を当て、死亡確認をするも、狭間本人は咄嗟に息を止めて難を逃れた。そして最高幹部となった彼は、警視庁独身寮爆破事件で首謀者として逮捕され服役。しかし2001年、肝臓ガンで世を去る。狂気ではあったが、彼なりの世直しに生涯を賭けたことを今回知った。享年55歳。

電算センターファントム墜落事故

 しかしまだ我々の居た60年代は”大学の自治を守れ”のスローガンでノンポリも含め、学内はまとまっていた。
 忘れられないのが1968年6月2日(日)深夜、私は校内弓道場で旧帝国大学対抗戦「七帝戦」を目指した強化合宿を終え、皆で片付けをしていたその時、ドガーン!という爆発音。工学部から火の手が上がる。化学研究室が爆発したと思った。袴姿で駆けつけると、何と電算機センターに米軍戦闘ジェット機ファントムが突っ込んでいるではないか。

 すぐさま九大総長水野高明は米軍及び日本政府に抗議声明を発表。全学生・全教職員はバリケードを張り、米軍による撤去を拒み、連日2000人デモを繰り返した。法学部長井上正治が先頭に立ち、全学生が後に続き、柔剣弓道部は稽古着で行進した。これを機に九大の学生運動は高揚し、遂にこの年の卒業式は中止。私は内定していた三菱電機に提出するための「卒業証明書」は頂いたが、「卒業証書」はいまだに手にしていない。

大義を見失った学生運動

 我が国の学生運動は10年ごとに変貌を遂げ、60年代は1960年の日米安保条約改定をめぐる反対運動であり、「全学連(全日本学生自治会総連合)」が中心となった。樺美智子さんが機動隊との揉み合いの中で死亡したのが象徴的である。

 70年代に入ると、それまでの政治色が濃い学生自治会を核とする運動から脱し、党派を超えた「全共闘(全学共闘会議)」と呼ばれる運動形態に変容。武装した過激な闘争に発展すると共に凄惨な内ゲバを生み、そして赤軍派に代表される爆弾・武器の使用へとエスカレートして行った。その中で生じた72年の連合赤軍の集団リンチ殺人、浅間山荘事件は、多くの国民の支持を失うものであった。

三菱重工ビル爆破事件の当事者として

 その時期、またも驚愕する事件が私を襲った。1974年8月30日(金)。その日、三菱電機和歌山勤務の私は、東京本社出張を来客のため、翌週月曜に延期していた。同日12:45。東京丸の内の”三菱村“。重工本社ビル玄関前のフラワーポット脇に置かれた時限爆弾が炸裂。ダイナマイト700本分の塩素酸爆弾は昼食帰りでごった返すサラリーマンを直撃。死者8名、負傷者400名の大惨事となり、出張していれば当然、近場で外食する私は確実に巻き込まれていた。これが連続企業爆破事件の端緒となり、東アジア反日武装戦線「狼」と名乗る犯人グループはその後、2年に亘って三井・大成・鹿島などを狙い打ちすることになる。

 あとで知ったが、当初は関東大震災で朝鮮人が虐殺された9月1日を予定していたが、この年は日曜であったため、月曜にずらさずに、金曜に切り上げたことで私は難を逃れた。そもそもこの計画は戦争責任の天皇を処刑すべく、8月15日に那須御用邸から走る「お召し列車」を荒川橋梁で爆破する計画であったが、前夜の仕掛け中に邪魔が入り断念。代わりに後日、アジアを経済侵略する帝国主義企業攻撃に切り替えたとの供述であった。

 余談になるが、重工の対面にある9階建ての三菱電機ビルも窓ガラスが全壊したが、私が上京した月曜の朝には何と完全に修復されていた。それが旧三菱財閥というものか、グループ会社である旭硝子は夜を徹して新品と入れ替え、まさしく忠臣蔵における江戸城「畳の入れ替え」の段を大時代的に再現した。

 80年以降になると、線香花火が消えていくように、学生運動は衰微して行ったが、しかしその時代に生きた私にとっては、原潜も、ファントム機も、そして時限爆弾も自身が歴史に触れた、紛れもない”青春“であった。

 = 了 = 

 

 

 

 応  募  要  項 

●思い出の川を遡上して・・・。○○年〇月あの場所で、僕は私は、こんなことをしていた、こんなことに夢中になっていたという体験をお寄せください。
※正確な年月が不明な場合は、おおよその年月(年だけで月はなくても)で結構です。

●輝いていたあの頃の思い出、共感を呼びそうな出来事、今や時効の失敗談、ヒミツの恋愛事件など、勉学・仕事・私生活の広範にわたって、お好きなテーマで自由にお書きください。
●美文or拙文、内容が崇高であるか否か、真面目不真面目度、お笑いウケ狙いはどうなのかなど、一切不問の企画ですのでご安心ください。あなたの言葉で、イキイキのびのびとお書きいただけば嬉しいです。
※文字数800文字~5000文字ほど ※当時の写真が残っていればご提供ください。

●ご投稿いただいた方は、次の方を指名してバトンをつなぎ、「100人の交換日記」完成をめざすという、無謀にも壮大な目標を掲げていますのでご協力ください。
●不明な点がありましたら、企画発起人代表・竹田範弘さん、または編集部(藤本・市丸)までお気軽にお問合せください。

編集部

 

 

 

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