幾たびか沖縄new

   

 

■首里城再建のいま

 沖縄本島は時々訪ねます。中部くらいまでドライブすることもありますが、殆どは、首里や浦添あたりを巡り歩いて過ごします。今回は5月に足を向けた首里城・浦添城址・識名園のことを少し書いてみたいと思います。

 妻の実家があった首里は特別に懐かしく、毎回足を運びます。首里城は直ぐ近くで、いつも目にして来ましたが、首里城正殿の再建工事が大分進んでいると言うので、今回は再建現場に入って見学しました。

 首里城は、1429年に琉球王国が出来た頃に建立されたと言われています。王国は450年続きましたが、王国時代と昭和20年の沖縄戦、そして令和の火災を含め5回焼失、7回以上再建されたのではないかと言われています。

 戦後置かれた琉球大学は移転し、祖国復帰20年後の1992年(平成4年)に、先ず正殿などが復元され、その後首里城全体が復元整備されました。ところが、2019年(令和元年)10月末日の火災で正殿と北殿・南殿などの中心部が焼失しました。その日、たまたま妻の実家に居た私は、テレビで実況を見た東京の友人からの電話で飛び起き、直ぐ東側城壁の近くに行って、燃え上がる炎を見上げました。その場に居た人達は、胸中で泣きながら、無言で立ち尽くしていました。

◆令和元年10月末日 燃える首里城正殿の炎を見上げる。

 直ぐに復元の声が上がり、政府以下官民が広く力を合わせて来ました。平成の復元では、歴史の記録に基づいての設計や工法、材料や工作技術など、何から何まで大変な苦労を積み重ねたのです。例えば、瓦一枚にしても、何處の土を使い、どの様に成形し、どのように焼くか?などと言うようなことだったと思います。幸い、その汗の結晶の財産が残っているので、今回の復元はスムーズだと思われます。しかし、さらなる研究・検討によって、形や色あいが変わるところなどもあるようです。

 今回の正殿の復元は、大きな素屋根(正殿を包み込む建物)の中で整斉と行われています。その中に木材置き場や加工場もあり、既に3階建の屋根の一番上まで出来ています。今年は、更に木彫刻、屋根の瓦葺き、漆による塗装などに進むそうです。正殿の再建は2026年(令和8年)秋に完成予定だということで、その後、北殿・南殿などの工事に進むそうです。

◆令和6年5月26日 歓会門から城内に入り正殿再建素屋根(建物)を望む。

 ガラス張りの見学順路から、希望して中に入り、ヘルメットを被って建物のすぐ側から見学出来ましたが、出来上がった後では見ることができない目線での素晴らしい光景でした。思い出に残る見学になりました。

◆上左:ガラス張りの見学順路で見学する。上右:希望者見学コースに入り、3階建屋根の頂上部分を見学する。下左:正殿正面の唐破風の部分を見学する。下右:正殿再建現場から那覇市街を望む。

 

■琉球王国初期の王陵「浦添ようどれ」

 那覇市北側に隣接する浦添市は、昭和20年の沖縄戦では、首里直前の激戦地帯でした。その一角に浦添城址があります。城址と言っても古い時代のものです。その北側中腹に「浦添ようどれ」と言うお墓があり、13世紀の英祖王(琉球王国より古い王統)と、首里の玉陵(たまうどぅん)には入っていない17世紀初めの琉球王国尚寧王の墓が左右に並んであります。薩摩に侵攻され降伏した王だからという俗説に対し、違う理由の有力な説もあります。「ようどれ」とは、夕凪という意味です。大変静かな場所で大事にされています。

◆左:令和6年5月25日 浦添ようどれの案内板、右) 浦添ようどれに通じる入口の門

◆浦添城跡北側中腹にある浦添ようどれ(琉球王の陵墓) 向かって右が英祖王、左が尚寧王の墓

 

■中国と日本、沖縄の文化が融合した世界遺産「識名園」

 首里から南に谷を隔てて識名があります。ここに琉球王家の別邸の一つ識名園がありました。

◆左:ユネスコ世界遺産「識名園」、右:六角堂 池に浮かぶ島に作られた中国風の東屋

 国王一家の保養や外国使臣の接待などに使われました。1799年に作られ、1800年には清国の冊封使を迎えています。昭和20年の沖縄戦で破壊されたままでしたが、祖国復帰後の1975年(昭和50年)から約20年を費やして今日の姿を取り戻しました。

 識名園は、池の周りを歩いて楽しむ廻遊式庭園の造園形式ですが、中国風東屋の六角堂も池に溶け込んでおり、各所の石積みなど色々の工夫もみられます。訪れた時は梅雨の雨でした。耳には雨音だけで園内を巡り、静かな荘厳さを感じました。

 なお、この識名園からは市街などが見渡せますが、海は目に入らぬようになっています。中国の冊封使に小国だと侮られないように工夫したと言われています。また、冊封使が滞在している間は、薩摩藩の役人も目につかぬよう隠れていたと言いますが、琉球王国のそのような配慮も、冊封使は判っていただろうと思います。

終わり

 

 

 

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