小説/「思いでの記」争議 生徒と教師の攻防5日間new

   

◎小説/「思いでの記」争議 生徒と教師の攻防5日間
著者 廣渡 清吾
※編集部注 この物語は著者日記をもとに創作された小説であり、実在する団体・個人・出来事とは直接関係ありません。

 ぼくたちの3年のときの体育祭は、1963年9月最後の日曜日、29日でした。体育祭の3年生のメインイベントは、ホームページの写真集にも見られるように、生徒が工夫し、教師と一緒に出演する思い出の記ですね。これにまつわる歴史的文書があります。「昭和38年9月16日」付の「決議」です。

両親が亡くなって、長く空き家にしたまま、ときどき帰福して管理していた家をこの1月に売却しました。面倒なので家財道具はすべてそのまま処分しましたが、片付けをしているなかで、実家に残していた高校時代までの日記などが段ボールに保管されているのを見つけました。母親の心づかいでした。「決議」は、そのなかの日記に張り付けられていました

 この9月16日「決議」の前後の、職員会(主に3年担任教師)と生徒会(3年生)との「思い出の記」をめぐる5日間の「攻防」が日記に綴られています。そこで、福高文芸部誌「青銅」の創作風に、この5日間を再現してみたいと思います。

 

 体育祭実施の相談のために、生徒側(グループ長、応援団長、思い出の記係長、総務部)と教師側の会合が開かれた。まったく思いもかけないことに、突然、3年学年主任の海崎先生から「思い出の記を廃止する」という提案が行われた。海崎先生は、そうとうに興奮して、その理由を「教師の人権侵害、対外的恥辱、時代に逆行!」とまで言い放った。横に座っていた大野先生が「方法の問題だろうな」となだめたが、海崎先生は、「そんなことではありません。内容がそもそも問題です」と一人感情的な高ぶりを示す。他のクラス担任の教師は口をはさまず、黙して語らずであった。

 生徒側は、一瞬困惑し、そして憤激した。応援団長は、交々に、はげしくなじり、2組の片松は「海崎先生は、いまの提案が3年クラス担当の全員一致によると言われましたが、われわれにはそう思えません」と詰め寄った。
 半時間以上の押し問答が続き、生徒指導主任の仲山先生から、3年生代表とクラス担任の小委員会を設けて思い出の記の「方法論」を検討することが提案され、明日の放課後に小委員会を招集することでまとまった。生徒側にとって、夢想だにしない、思い出の記の全廃だった。

 昨日の約束にもかかわらず、小委員会は招集されず、職員会が開催された。

 思わぬ事態が展開した。放課後、各グループ代表が集められた場で、教頭の大川先生から、昨日の職員会決定として、次のことが伝達された。第1に、思い出の記において、生徒の仮装は認めない。第2に教師の仮装は、軽度のものとし、教師の同意なくしての仮装は許可しない、第3に全体として費用の節約を図る、等である。小委員会で「方法論」について両者で検討するという約束に、職員会はほうかむりをしたのである。唖然とする代表たちを残して、教師は退場した。

 総務室で、朝木が残って仕事をしていると、同じ4組の榊が血相を変えて、やってきた。「朝木、ちょっと来てくれ」、「いま、手がはなせないよ。総務の飛田が運動場にいるはずだ」、「そんなこと言ってる場合じゃないぞ。BグループとCグループの代表たちが集まっているんだ」。そうこうしているうちに、会計委員長の小島、Bグループ応援団長の毛塚、そして書記長の泉も朝木をよびにきた。

 8組の教室では、B、Cグループの主だったメンバーが殺気立った雰囲気で議論していた。毛塚が朝木に議論の経過を説明する。職員会決定に対して闘おうという強硬意見が圧倒的だという。朝木は、みんな落ち着け、ことを荒立てるな、ととりあえず言ったが、体育委員会の副委員長の鶴山がうなずくだけで、だれも聞かない。泉はとくに強硬だった。朝木も本心では、闘うべしと思っていた。みんなのやる気を確かめたかったのだ。最後は全員で「やろう!」と結束した。

 作戦は、次のように決まった。月曜日、授業開始前にグループ代表者会議を開催、昼休みに3年生の全体集会を開催し意思統一、決議の採択、それまで各クラスで意見調整を進める。朝木には、多少の不安が残った。しかし、やる限りはやるんだと心に決めた。

 各クラスでは、朝のホームルームの時間が意見調整にあてられた。泉が、海崎先生に職員会決定に対して、3年生として要求決議を行うことを申し入れた。泉の報告だと「海崎さん、一瞬顔が青ざめた」という。Aグループの3組で多少の異論がでたが、各クラスからの報告によると全体として首尾は上々であった。

 4時間目にグループ代表は、柔道場に集まり、昼休みの3年生全体集会の運営を相談した。決議の採択に絞り、参加者の個々の意見や質問は受け付けないという方針で臨むことにした。

 講堂での昼休みの集会は、飛田が議長をつとめ、朝木が壇上で「決議」を読みあげた。賛成者の挙手を求めたが、手のあがらないクラスがある。しかたがないので、今度は、反対者の起立をうながした。これはさすがに立てない。そこで、最後に賛成者の起立をうながす、とにかく全員が起立した。朝木には、多少の冷や汗だった。強行路線は一部の者の熱意の先走りがあるかもしれない、しかし、代表たちの結束が乱れない限り大丈夫だと思った。

 3年生代表とクラス担任教師の会議が始まった(当時はその言葉を知らなかったが「団交」である)。開始早々、海崎先生に生徒側を牽制するような一席をぶたれた。朝木は、苦々しく泉と顔を見合せた。飛田が議長として、「今日は、3年生全体の意見をまとめてきましたので、先生方にこれを聞いていただきたい」と口火を切り、泉が「決議」を読んだ。教師は、あるいはうつむき加減に、あるいは天を仰いで、聞いていた。
 「決議」は次の通りである(実物のうつしが別掲の写真)。

決議  昭和38年9月16日

 一 職員会決定条項に関して
   1.生徒の仮装許可を要求する。
   2.思い出の記全員参加を要求する。
 二 思い出の記の詳細について
   各グループ2名の代表者を以て構成する思い出の記小委員会に全権を委任する。

 大野先生が決議にいたった詳細な説明を求めた。大野先生の軽妙な話しぶりに少しばかり拍子抜けしたが、今日は絶対に要求を貫徹しなければならないと朝木は思った。「先生方は、生徒と立場が違うことを強調されますが、しかし、その立場の違う先生方が決定したことを生徒側に押し付けることは、矛盾していませんか。」

 生徒側はつぎつぎに、思い出の記への思い入れを語り、同時に、職員会の一方的決定の理不尽さを非難した。討論が1時間ほど続いたところで、大野先生が「先生方の意見をまとめたいので5分間休憩してくれ」と発言した。「5分ですね」と念を押された大野先生は、「じゃー10分だ」と苦笑した。

 休憩直前に、林先生から、打開策らしき提案があった。討論のなかで、クラス担任の教師たちは、攻撃されるままで、海崎先生にいたっては、生徒側が学校経営の非民主性を追及すると、大きくうなずく始末。生徒側が完全にイニシアチブをとる展開になった。休憩で会議室をでる生徒側代表は、顔が上気して赤く、眼も充血してみえたそうだ。

 再開後、林先生から生徒側要求に対する妥協案が示された。それは、「職員会決定事項は変更できないので、『仮装』ではなく、『デコレーション』としてはどうか」というものであった(老獪な提案であると今なら思う)。朝木は、先生方の誠意をくんで同意してはどうかと心が動いたが、隣にいた文化委員長の長谷田は「駄目だ」と一蹴する。生徒側は、一応、林案を生徒側全体で協議検討するということで、会議を終ることにした。

 早朝、グループ代表は、柔道場にあつまり、林案について協議した。「デコレーションなどと体よくごまかされるな、最後まで闘え」という強硬意見が多かった。朝木は、実質的に要求が通ったと理解できると説いた。結局「デコレーション」の定義を「昨年のCグループの出し物オリンピックの線まで認める」ことを条件に、教師側の確認をとることになった。
  1時間目に、大野先生に代表5人が会い、林案の取り扱いについて生徒側の意見を伝えた。「デコレーションとして昨年Cグループの線まで認めることを3年生の要求としますから、それを校務委員会に諮ってください。」 昼休みに3年生は運動場に集まり、飛田が教師側との交渉の経緯と、生徒側の修正した要求について報告した。

 放課後、海崎先生からグループ代表がよばれ、校務委員会での決定が伝えられた。それによると、「職員会の決定は基本線として崩せないが、校務委員会として、①昨年のCグループ程度まで、②生徒1人2点以下、ならば、『仮装』とせずに認める。実施の詳細については、クラス担任教師の責任で生徒側との話し合いで決定する」であった。

 以上が日記に綴られた経過の再現です。日記の日付は、9月18日で、12日以降のことを、18日にまとめたようです。「不満も浮かんだが、一応、僕等の要求は入れられたと解釈する」、「海崎さんの人柄、単純で、怒りっぽくて、でも、いい人だね」、そしていかにも高校生らしく「僕等の結束が学校の力だ」と結んでいます。

  この決着のあと、各グループとも自粛しつつクラス担任との話し合いで準備が進み、体育祭当日は、これまでになく創意的で、教師の側も楽しんだ思い出の記になりました。ただし、3年生と教師のトラブルは、火種がくすぶり、体育祭後にひと悶着ありました。これについては「記録」がなく、「記憶」だけなので、書かないことにします。

 ひとつだけ感想です。当時は、なんとも思っていなかったのですが、この5日間の攻防に女性がだれも登場しません。まるで旧制中学のようです。いまではもちろん、まったく変わったでしょう。

 

 

 

 - コラムの広場