ホーム > 短歌 > 寿禄短歌の会 市丸幸子(12)◎大暑の候 2024/08/06 さっちゃんと呼ばれたころ 私にも「さっちゃん」と呼ばれた時代がありました。さっちゃんと呼んでくれた人の最初はまず両親、小さなころの遊び友達など。両親はすでになく、幼なじみとも遠く離れてしまった今、当たり前のことですが、永遠に続くと思っていた「さっちゃんと呼ばれる時間」にも限りがあるんだなと思うこの頃です。今回はそんな思いをきっかけに、両親の思い出を詠んでみました。 終戦から8年間満洲に抑留されていた両親は、昭和28年に私と弟をつれて引き揚げ。福岡県粕屋郡古賀町に身ひとつでラジオ店を開業しました。その名は「古賀ラジオ店」。決まった定休日もなく、暮れは大晦日の深夜まで身を粉に働いた両親は、私が高校1年生の時に家を建て、姉弟二人を大学に入れてくれました。昔の人の頑張りは本当にすごい! 私はついにこの両親を抜くことができませんでしたが、楽しく幸せな半生だったことを両親に感謝しています。 ラジオ店は父の兄からもらった棚板を用い、両親が手作りでつくった店。間口は二間ほどしかなく、奥行きはさらに狭小。父が釘を打ち付け棚を作ってラジオを並べ、ガラス戸には母が書いた「鉱石ラヂオを作りませう」の貼紙が貼られていたのを覚えています。 幼児が初めて、自分が自分であることを認識した瞬間の思い出ってありますよね。私の場合それは、誰かに抱き上げられて喜んでいるシーンで、何度も思い出されるのですが、不思議なことに相手が誰だったのか(たぶん父)は映像に出てきません。 店が暇なときは父と、NHKラジオ第1で放送されていた「やん坊にん坊とん坊」のラジオドラマを聴くのが最高に幸せな時間でした。 「仕事が忙しい、大変だタイヘンだ!」と私がこぼすたび、母から言われたのが「仕事は丁寧に、忙しい時はもっと丁寧に…」という言葉でした。スピードが重んじられる今の時代には逆行するのですが、この教えは体に染みついて、生涯離れることがありません。 最後に大人になったあと、ただ一人さっちゃんと呼ばれた思い出を一首。それは京都でのこと、思いがけない場所で「さっちゃん」と懐かしい名で呼びかけられ、ふり返った人は幼なじみのS君でした。以来ときおり会ったりしていたのですが、その人も先年見送って、たった一人さっちゃんと呼んでくれる人もいなくなりました。 - 短歌 市丸幸子