宮城先生の思い出②new

   

 

【前回のあらすじ】

 僕の生い立ちに大きな影響を及ぼした人物が二人いる。一人は母。もう一人は、6歳のとき母と二人上京し、西大久保小学校で出会った宮城先生である。先生は有島武郎の小説「一房の葡萄」を彷彿とさせるような方で、田舎ものの僕を何かと目を掛け守ってくれた。
※宮城先生は、僕が好きな映画「二十四の瞳」の大石先生にも面影が似ています。

 

僕は小学校でいじめを受けていた。

たとえば僕が受けた「いじめその1」はこんな風 

 あるとき宮城先生が都合で休み、他の教師が臨時で担当をした日があった。僕が通路に足を投げ出していたらクラスメートがわざとぶつかってこう言った。「先生!高原君が足をひっかけました!」
 臨時担当は立ち上がり、「でていけ~!」とボクを校庭に突き飛ばした。1時限が終わったが、誰も呼びに来なかった。放課後になって皆帰り始めた。呼びに来なかった。

いじめその2

 ある日のこと、何もしていないのに、クラスメートがいきなり「やい!おまえ!」と食って掛かってきた。その日の攻撃はひどかった。僕はとうとう学校を飛び出して家に泣いて帰った。母はまだ床で寝ていたが、僕は床に泣き崩れた。
 宮城先生は「迎えに行きなさい」と、クラスメートを呼びによこしてくれた。

母との日常ワンシーン「朝の食事」

 毎朝の朝食の時間になっても母は起きない。「学校に遅れるよ」と何度言っても起きない。そして「パンを買って来なさい」と小銭を出した。
 買って帰り、食べ始めても起きない。ランドセルを背負って登校を始めても「いってらっしゃい」は言わなかった。

陰になり日向となってかばってくれた宮城先生

 当時僕はときどき、近くの文房具店に行ってちょこちょことモノを買うことがあった。僕が行くと店員さんがただで品物をくれることがあった。思いもかけずモノを貰ったボクは「わーい、わーい」と喜んで帰った。その姿を見て店員さんはやや戸惑いを含んだ笑顔で送ってくれた。
 その後時が経ち、17・18歳頃だっただろうか、ふと「あれは宮城先生が店員さんにお金を渡して僕に品物を渡してくれるよう頼んでくれていたんだ…」と気付いた。この時から僕は、人の助けや思いやりに支えられて生きていることに、責任を感じ自覚を持つようになった。そして、東京まで宮城先生に会いに行った。19歳頃のことだったと思う。

「日本社会の3大ルール」について思うこと

 会話のない家庭で育った僕は、日本社会の3大ルールを身につけないまま社会人になった。
1.頂点至上主義、上命下服……親、上司、目上、国家には従順であれ。
2.群集心理
3.他人を敬う、不愉快な思いを与えない……人には親切に接する。常に人には好印象を与え
  る。敬語を常用し、適切な敬語を使う

 「上命下服」については、経済評論家の内橋克人氏が晩年に「頂点同調主義」として警鐘を鳴らしている。「自ら進んで頂点に合わせていく」「異議を呈するものを抹殺する、認めない」。しかもこの頂点同調主義は終わっていない。戦前がそうだったし、現在もそうであると述べている。
 さらに群集心理(多数の意見に同質化していく)は、人と違ったことを言うことを認めない。そしてこの考えが戦争を抑止できなかった、と断じている。

◆内橋克人さん 経済評論家でジャーナリスト。2021年9月1日死去。権力におもねらず、弱い人たちの側に立ち続けた、89年の生涯であった。

 - つづく ー 

 

 

 

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