宮城先生の思い出①new

   

◆衛藤 忠興(旧姓 高原)

 ボクは3歳ごろから6歳まで、現在は福岡教育大学がある福岡県宗像市赤間で、祖母に預けられていた。赤間の小川でどじょっこ、ふなっこを取って楽しんでいた。麦の季節には夕暮れには蝶々が麦穂に泊りにくるので手づかみで好きなだけ取れた。

 6歳で母に引き取られて上京し、新宿に住んだ。そして西大久保小学校に入学し、宮城先生に遇う。西大久保小学校は校庭はアスファルトで既に給食があった。晴れた日は校舎の2階からはるか富士山を望められた。担任の宮城先生は有島武郎の「一房の葡萄」を彷彿させる方で、田舎っぺのボクを何かと目と掛け守ってくれた。小1の図画で雨傘を画いたら宮城先生は「こう画くのよ」と言って手を取って雨傘を画いてくれた。ボクの画いた雨傘は真っ黒でとても汚かった。でも宮城先生はこの絵にボクの孤独を読み取ったのでしょうか。

 ボクはガキ大将だったが、ある時を境にいきなりおとなしい子になった。学校からの報告を受けた母は一晩でボクをおとなしい子に変えた。ガキ大将がいきなりおとなしい子に豹変したらどうなるか。ボクはクラスメートから虐めを受けた。豹変したボクを安心して虐めた。ボクは何もできなかった。虐めより母の暴力が怖かった。宮城先生は「あまり無茶なことをなさらないように」と母に懇願した。

 にわか雨が降った日は出迎えの母達で校舎は混雑したがボクは一人だった。「高原君、傘がないの?」と呼び掛けてくれる人は一人もいなかった。ボクは雨の中を平気で歩いて帰った。帰宅しても「おかえり!」という人は居なかった。母は毎晩10時過ぎの帰りだった。

 留守中に会話は無かった。夜にはチックタックと時計の音だけを聞いた。夕食は「親子丼ぶりを食べなさい」と母のメモがあり、小銭が置いてあった。800~900mほど離れたお店で注文し出前箱で家まで歩いて持って帰り、一人で食べた。「ここで食べていかん?」とお店の人は言ってくれたが、持って帰った。小学一年からである。「親子丼ぶりを食べなさい」との母のメモも、お金も置いてない日もあった。

 - つづく ー 

◆写真は、富士山フォトの第一人者・大山行男氏の作品。春夏秋冬、また朝昼夜と、氏が見せてくれる変幻自在な富士山の山容、その神秘的で荘厳な作風にはファンも多く、僕もその一人である。

 

 

 

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