京都三月書房と河野裕子さん
2021/04/25
昨年の夏ですが、朝日歌壇に「毎日を定休日とするお知らせが貼られた朝の三月書房」という歌が永田和宏選で掲載されました。その前に、京都の友人からも三月書房が閉店したよとメールをもらっていました。そういえば三月書房で買った雑誌があったなと屋根裏を探したら、『短歌研究』2010年10月号が本棚の隅っこに見つかりました。三月書房は、京都の寺町通二条にある本屋ですが、普通の本屋で手に入らないような本があるので、ときどき覗いていました。さいごに訪ねたのが10年前だったのです。
『短歌研究』のこの号には、その年の8月に亡くなった歌人の河野裕子さんの末期の作品13首が「コスモスが咲く頃までは」と題されて、巻頭を飾っています。そこに、俳人、坪内稔典さんの河野裕子さんを追悼する小文がはさまれていました。岩波書店の『図書』2010年10月号から切り取ったものです。稔典さんは、彼女を「大きな柿の木のような歌人だった」と評していくつかの歌を引いています。
わたくしはまつ直に立って此処にゐる風がなくともそよいだりして
たしかに彼女の精神の形姿を想像させます。
死んだ日は能天気にも青かったひとりごちつつ死後帰り来む
稔典さんは、この歌に寄せて、秋になったら青空の「柿日和とでもいうべき日」に彼女がもどってくると結んでいます。
そのとき三月書房でもう1冊買っています。『河野裕子-シリーズ牧水賞の歌人たちVol.7』(青磁社)です。おそらく多くの読者が愛唱する河野さんの初期の作品は、「たとえば君ガサッと落ち葉をすくうように私をさらって行ってはくれぬか」でしょうか。「青林檎与えしことを唯一の積極として別れ来にけり」も、知り初めた二人の自己観察としてユニークです。
たとえば君ガサッと落ち葉をすくうように私をさらって行ってはくれぬか
青林檎与えしことを唯一の積極として別れ来にけり
ところで、この冊子は、表表紙に河野さんの晩年の着物姿の写真と、裏表紙に白いブラウス姿で、前髪をたらし、豊かな黒髪をポニーテールにまとめた横顔の若い日の写真が掲載されています。
河野さんのこの若い日の写真は、雑誌を買ったときにも見ていたはずですが、あらためてながめていて、どこかでみたような、という気持ちにとらわれました。初対面の人なのに、初めて会ったような気がしない、というような感じなのです。
彼女は京都女子大学文学部の学生でした。おつれあいの永田和宏さんは京都大学理学部の学生でした。二人は、歌詠み仲間で、恋をしました。京都で学生時代を過ごしたぼくと、ほぼ同世代です。どこかですれ違っていても、おかしくない。
推理の糸口を与えたのは、また、坪内稔典さんです。ある日の新聞で、彼が「生をラブせよ」と題して北村透谷を語っていました。当然、稔典さんは、あの有名な「恋愛は人生の秘鑰なり」を主題にします。ぼくがこれを教わったのは、教養部の日本文学の講義です。一般教養の科目のなかで一番面白かったのでよく覚えているのですが、阪倉篤義教授(いま確認すると1917年生まれ1994年逝去です)が日本文学論争史をテーマにしてとくに透谷と山路愛山の「人生相渉論争」を詳しく話してくれました。「秘鑰ヒヤク」は「薬ではありません。カギです!」と先生が念を押したことを忘れません。
このころの京都大学は、女子学生が少なく、ですから目立ちました。阪倉先生の講義は大教室で、人気があるといっても「蜜」などとはほど遠い。そのなかに、あまりみかけないけれど、とても熱心な、そしてすっきりと見える女子学生がいました。河野裕子さんは、大学に入るのが病気のために遅れています。ぼくが教養の講義を聴いているころ、国文学志望の彼女は浪人中でした。そこで、当時別段とがめだてもされなかったもぐり聴講で、阪倉先生の話に魅かれていたのではないかと思いつきました。確かめるすべもありませんが、河野裕子さんが一気に身近になるようです。