二人の恩師

      2020/10/21

◆戦闘機「橘花」 全幅10,00m 、全長9.25m、 総重量3,950kg、 最大速度693km/h/1,000m

 

S.20.8.7 わが国初の国産ジェット戦闘機が空を飛んだ。

 日本で初のジェット機が昭和20年8月7日午後1時頃千葉県木更津基地を飛び立ちまし
た。戦闘機「橘花」試作機が約12分間の試験飛行をしたのです。

◆試験飛行に臨んだ海軍戦闘機「橘花」の試作機 エンジン推力はBMW・ユンカースより小さく、機体もメッサーシュミットの4/5ほどの大きさに設計された。

 海軍は数年前からジェットエンジンの研究・試作をしていましたが、ドイツから潜水艦で運んだ「メッサーシュミット262戦闘機」のエンジンBMW003Aの資料を参考に自ら設計し、半年足らずの短期間に、望む材料も欠乏する中で苦心惨憺して「ネ-20」という軸流型ターボジェットエンジンを完成させました。ドイツの資料は小さなキャビネ判写真の断面図1枚のみで、シンガポールから直ぐに空路で持ち帰った僅かのものの1つでした。日本に向かった潜水艦は撃沈されたのです。

◆メッサーシュミット262戦闘機 1400機余りが生産され爆撃機としても使用された。1944年後半から本格的に実戦配備されたが、運動性やエンジンの安定性を欠き、大きな戦果は得られなかった。

 私は「ネ-20」エンジンに関わられたお二人の恩師とのご縁に恵まれました。責任者であった海軍機関大佐の種子島時休先生と技師であった井口泉先生です。お二人とも他界されて久しくなりますが懐かしく思い出します。

 防大で機械工学を学んだ時、種子島教授に熱力学を教わりました。先生は海軍機関学校卒業後東京帝大で学ばれました。初回の講義で、先生は開口一番「私が日本で最初のジェット機を作った」と話されました。先生は厳格な反面優しいお方で分かり易い講義でした。

 井口先生は東京工大を卒業され、石川島を経て土光社長の下で東芝の技師長を勤められて退社、防大教授となられました。初めて担当された研究科学生2名の一人が私でした。先生は日本のガスタービン界を牽引して来られたお一人で、温厚で立派なお方でした。

 井口先生に種子島先生からお聞きした開口一番の「ジェット機を作った」の話をしたところ、笑いながら「竹田君、それは間違いじゃないけど、種子島大佐に尻を叩かれながら実際に作ったのは僕達ですよ」と言われました。

 ドイツの小さな断面図では識別・判別出来ないところが多くあり、「ああでもない、こうでもない」と検討しながら進めたそうです。終戦となるや直ぐに設計図やエンジン・機体などを処分したそうですが、米国と日本に1つずつ「ネ-20」が残っています。

 米軍が進駐して来るとGHQG-4から召喚されたそうです。家族と「水さかずき」をするような気持ちだったそうです。出頭すると、当時口に出来なかったコーヒーやケーキなどを出してもてなすので、「酷いことをする前にはご馳走するのか?と思った」と冗談半分のお話でした。

 井口先生のガスタービン講義は実際的で興味に満ちたものでした。ご一緒に三菱や石川島の工場見学に行ったのも楽しい思い出です。防大教授という官の立場になられた先生は、業界での遠慮も要らないので、「行こう行こう」と言われたのでした。研究科卒業後も何度も先生とお会いする機会があり、その度に嬉しい思いを持ちました。

◆平成16年横浜パシフィコでの国際航空宇宙展で石川島播磨ブースに展示された「ネ-20」、現在も株式会社IHIが保有している。 ※関係日本人の熱い懇請を受け容れて、所有者の米国ノースロップ工科大学が、「永久無償貸与・返還請求なし」とした。

◆米国の国立航空宇宙博物館(スミソニアン博物館群)に展示されている「ネ-20」、復元した機体も所有。

◆国立航空宇宙博物館には、復元された「橘花」も展示されている。

 お二人の恩師を想い感謝しつつ思い出の一端を書かせていただきました。

 

 

 

 - コラムの広場