ベルギー点描②(アントワープ、メッヘレン)

      2020/10/21

 

 

 

  【アントワープ】

少年の日に憧れた「アントワープ」の美しい響き

 千葉県市川市に住んでいた小学校5年生の頃、郵便切手の蒐集がブームになった。記念切手を買いに朝早くから度々郵便局前に並んだ。一度は昔の切手が買えないかと丸の内の東京中央郵便局に行ったこともある。休み時間や放課後にクラスの友達とコレクションを交換し合ったが、中にオリンピック開催記念の外国切手を持っている子がいた。1920年に第7回夏季大会が開かれたアントワープは、その名の美しい響きが強く印象に残っている。

 アントワープ大会は、第一次世界大戦で焦土と化したベルギーの国家再建に大きく貢献した。また、男子テニスで熊谷一弥がシングルスと、柏尾誠一郎と組んだダブルスの両方で銀メダルを獲得。日本人史上初のオリンピックメダリストとなった記念すべき大会でもあった。東京大会が今年予定通り開かれていれば、ちょうど100年前のことになる。

 2008年7月9日朝9時半、娘一家の住むオランダ南部のティルブルクレーソフを各駅停車で出発。途中2回急行に乗り換えて、11時過ぎアントワープに到着。曇り空。

 アントワープはベルギー北部に位置し、オランダとの国境まで30km。人口50万を擁するベルギー第2の都市。15世紀から金融、商業の中心地として発展。アントワープ港は今も世界有数の港として名高く、一帯はヨーロッパ最大のコンビナートを形成している。また、ベルギーファッション発信の地としても知られる。17世紀には、バロック期最大の画家ルーベンスやフランドル派の多くの画家たちが活躍した。

 

「鉄道の大聖堂」と称されるアントワープ中央駅

 アントワープ中央駅の駅舎は「鉄道の大聖堂」とも称され、宮殿かと思うくらいに壮大で、豪華な凝った造りになっている。西欧の駅舎はどこも立派な建物が多いが、中でも群を抜いて美しい。

◆アントワープ中央駅

 1895年から10年かけて建てられたネオバロック様式の、アントワープを代表する建物のひとつ。高いドームの天窓からうっすらと陽光が差し込み、鉄とガラスをふんだんに使った構内は、たくさんの人が行き交う駅でありながら瀟洒な雰囲気。国の重要文化財に指定されている。

◆ネオバッロック様式のアントワープ中央駅

 

 駅近くにはダイヤモンド博物館があり、周辺の1km四方内に1500の宝石店やダイヤモンド取引所、鑑定機関、関連銀行が軒を連ねている。世界のダイヤモンドの70%がこの地区で研磨され、取引でも世界の中枢となっている。ベルギーの輸出総額の7%を占める。
 業界を牛耳っているのがユダヤ人。一帯にはユダヤ教の教会(シナゴーグ)やスーパー、レストランなどがあり、ユダヤ人社会を形成している。

◆ダイヤモンド店

 駅を出てメインストリートのドゥ・ケイゼルレイを西に向かう。アントワープ一番の繁華街。デパートを始めどこもバーゲンセールで賑わっている。進むほどにワッフルの甘い香りが漂って来る。歩きながら頬張るのも楽しい。初めて味わう本場のワッフルに、ベルギーに足を踏み入れたことを実感する。街の佇まいも品があり落ち着いている。小雨がポツリ、ポツリと降ってきた。

◆アントワープのメインストリート ドゥ・ケイゼルレイ

 

2000点以上の作品が生み出されたルーベンスの家 

 11時45分、ルーベンスの家へ。1616年イタリアから帰国後、亡くなるまで30年に亘って住んだ。現在は市立美術館として公開されている。自身が設計した建物は、イタリア建築の影響を色濃く受けている。

 数少ない自画像などの作品が展示されたアトリエと2階の住居を見て回る。音声ガイドもパンフレットも英語。庭に出る頃には傘がいるほどの降りになっていた。庭の正面中ほどにある柱廊は当時のまま残っている。

 ルーベンスは生涯、油彩画だけでも2000点を超える作品を制作した。しかもそのどれもが豊満な肉体をもつ多数の男女が繰り広げる壮大な神話劇で、構想の雄大さに驚かされる。オランダのフェルメールが30数点の小品しか残さなかったのとは対極にある。

 これは、ルーベンスが大きな工房を構え、弟子たちに任せた作品も多数あったことによる。作品が均質でない理由もここにある。彼は7ヶ国語を自由に操り、外交官としても活躍した。30分ほどで出て、ピザの昼食。なかなかの美味。

ルーベンスの家 スライドショー(6枚)

 

「フランダースの犬」で名高いノートルダム大聖堂へ

 フルン広場に立つルーベンスの像を仰ぎ見て、1時、アントワープ最大の見どころノートルダム大聖堂へ。1352年から170年かけて建設されたベルギーで一番大きなゴシック教会。世界遺産にも登録されている。

 北塔の高さは123m。かつては船がアントワープの港に入ってくる時の目印になった。南塔は資金難で未完のまま現在に至っている。ルーベンス最高傑作の「キリストの昇架」「キリストの降架」「聖母被昇天」をあらゆる角度から心行くまで鑑賞。人はほとんどいないし、時間はたっぷり。撮影は自由とあって写真もビデオも撮り放題。団体旅行では望めない至福のときを楽しむ。

◆フルン広場に立つルーベンスの像 左後方がノートルダム大聖堂の北塔

◆小雨に煙るノートルダム大聖堂

ノートルダム大聖堂の内部 横長スライドショー(4枚)、縦長1枚

 

ルーベンス三つの傑作祭壇画

◈キリスト降架

 「キリスト降架」では、磔刑になったイエスの亡骸が十字架から降ろされる様子が劇的に描かれている。赤い衣服の男がイエスの弟子聖ヨハネ、左から手を差し伸べる青い衣服の女性が聖母マリア、イエスの足を持つ横顔を描かれているのがマグダラのマリア。

 『フランダースの犬』の物語で、ネロ少年と愛犬パトラッシュが息をひきとったのが、この「キリスト降架」の前であったという。

◈キリスト昇架

 「キリスト降架」とは対照的に、男たちがイエス・キリストを十字架にかけようとしている場面で、「降架」よりも躍動感がある。

◈聖母被昇天

 教会の中央には、「聖母被昇天」の絵。聖母マリアの頭には、天使たちの手から花冠が授けられ、足元からは、大勢の天使たちがマリアの腰を支えて天上へと押し上げているのが見える。

◆ほとんど人がいない祭壇画の前で、おごそかな気分で記念撮影

 

意外にもベルギーでは不人気の「フランダースの犬」

 「フランダースの犬」のネロ少年は粉雪舞うクリスマスの夜、激しい嵐の中、稲妻にほんの一瞬浮かび上がったこの絵を観ることができた。死の間際だった。祭壇画は20世紀初頭まではカーテンで覆われて、観覧料を払うと開帳されていた。

 意外なことに「フランダースの犬」は、少し前までベルギーでは全く知られていなかった。物語は、英国人女性がアントワープに住んだ経験を基に書いたものだが、出版されたのは英国と日本だけでベルギーでは本になっていなかったのである。

 訪れる日本人が皆フランダースの犬の足跡を訪ねたがるため、アントワープでも物語が知られるようになった。やがてフラマン語版の本も出版されるに至り、大聖堂の前に「ネロとパトリッシュ」の記念板が設けられた。しかし、悲惨な結末を迎える物語はネガティブ過ぎ、ベルギー人の反応は冷ややかだと言われる。悲しい結末を美しく語る物語が数多く、違和感なく親しまれてきた日本との文化や価値観の違いが表れていて面白い。

 ノートルダム大聖堂は、荘厳な雰囲気の聖堂内部や19世紀に制作された美しいステンドグラスも素晴らしい。

 ノートルダム大聖堂のステンドグラス スライドショー(4枚)

 

市庁舎やギルドハウスが建ち並ぶマルクト広場

 大聖堂の西側にマルクト広場がある。旧市街の中心に位置し、市庁舎やギルドハウスなど様々な時代を代表する建物が周囲を囲んでいる。

◆左:マルクト広場のギルドハウス  右:ノートルダム大聖堂とギルドハウス

 ギルドハウスの屋根には、各ギルドの守護神が祀られている。傘をさしての観光となり思うように写真が撮れない。

◈市庁舎

 1561~64年に建造されたルネサンス建築の壮麗なファサードをもつ市庁舎は、広場でもひときわ豪華。建築にはイタリア人建築家も参加した。当時のフランドル地方では例のないイタリア&フランドル・ルネサンス様式の建物として、スカンジナビア諸国の建築にまで影響を及ぼした。

◈ブラボーの像

 広場の中央にはブラボーの像がついた噴水がある。ブラボーは、ブラバンドという名の起源となった古代ローマの兵士の名前。シュヘルド川で猛威をふるっていた“巨人の手ant”を切り取って”投げたwerpen“という伝説があり、これがアントワープ(アントウェルペン・手を投げる)の都市名の由来とされている。響きは美しいが、意味するところはおぞましい。

◆左と右上:ブラボーの像 右下:市庁舎とブラボーの像

 広場から少し北側には肉市場の名残を伝える精肉業者のギルドハウスがある。16世紀に建てられ、精肉市場のギルドが使用していた後期ゴシック様式の重厚な建物。現在は当時の家具調度やチェンバロなどの古代楽器を中心に陳列する博物館になっている。

 広場の北西のステーン城は、アントワープ最古の建築物。10~16世紀まで使われていた要塞の一部。500年にわたって牢獄、刑場として使用され19世紀に修復された。その後、帆船や汽船の模型、航海道具、海図などを展示する海洋博物館として公開されている。

◆精肉業者のギルドハウス

◆ステーン城

 アントワープには、2009年5月天気のいい時にも下の娘を案内して訪れている。

 

 

  【メッヘレン】

 

かつてネーデルランドの首都として君臨した古都

 ベルギー北東部のメッヘレンを訪れたのは、2012年8月17日。宿泊ホテル近くのブリュセル中央駅から、オランダのアムステルダム行き急行で20分ほどの距離。2人で往復10.6ユーロ。このとき円高で1ユーロが101円だったので1070円。片道にすれば270円である。空は晴れ渡り、25~6℃の快適な気候。着いたのは10時40分過ぎ。駅構内で昼食用のサンドイッチを買う。

◆(左)メッヘレン駅の表示、(右) ブリュセル中央駅

◆ベルギー国鉄の車輌

 メッヘレンは、ブリュセルとアントワープの中間に位置する人口8万人の町。8世紀の頃から町ができ始め、12~3世紀には繊維産業で大きな発展を遂げる。

 最も華やかだったのは、ネーデルランド(オランダ、ベルギー両国)の首都として君臨した時代。マキシミリアン皇帝の娘マルガレータが、幼い神聖ローマ帝国皇帝カール5世に代わり政治を司った1506年からの25年間は、ヨーロッパの政治、文化、芸術の中心地として栄えた。

 第二次世界大戦で町は破壊されたが、修復され、14世紀の頃からの建造物がよく保存されている。現在は、アスパラガスや鶏など、食通をうならせる食材の宝庫となっている。

◆メッヘレンの街

 メッヘレンの街(スライドショー 6枚)

◈グローテ・マルクト広場

◆結婚式のカップル

 聖ロンバウツ大聖堂の塔と巨大な建物、市庁舎が目に入る。圧倒される見事さ。広場の向かい側には現在の市庁舎があるがこれもまた美しい。広場の一角では、白人の花婿と黒人の花嫁、親族、友人の一団が華やかな雰囲気をふりまきながらさんざめいている。日差しが強くなってきて、暑い。

 この日の最高気温は29℃。大聖堂裏の日陰のベンチに腰かけて、サンドイッチとホテルから持ってきたリンゴの昼食。いずれもなかなかの美味。

◆グローテ・マルクト広場と聖ロンバウツ大聖堂

◈聖ロンバウツ大聖堂

 聖ロンバウツ大聖堂は、13世紀から300年かけて建てられた典型的なベルギー・ゴシック様式の教会。97mの塔には、ヨーロッパ最重量級、合計80トンのカリヨンが掛けられている。内部にはヴァン・ダイクの「十字架のキリスト」の祭壇画や宗教画が多数収蔵されている。

 聖ロンバウツ大聖堂の内部(横長スライドショー3枚)

 聖ロンバウツ大聖堂の内部(縦長スライドショー8枚)

◈市庁舎

 市庁舎は、1370年に繊維取引所として建設された。3館からなっており、中央は物見櫓、右はラシャ市場、左は評定院。資金不足のため櫓は低く、左側の評定院(宮殿)も下半分は16世紀に造られ、上部は20世紀に完成した。現在は郵便局として使われている。

 市庁舎(スライドショー5枚)

◈マルガレータの宮殿

 広場の東にはマルガレータの宮殿がある。16世紀のゴシック様式で現在は裁判所として使用されている。北に行くと、おとぎ話に出てくるような可愛い建物がある。赤い屋根に白い壁、小さな緑の扉の、世界で最初に創立された王立カリヨン学校。

◈ブリュセルの門

 町の南西には、ブリュセルの門がある。1300年に築かれた城壁の一部で、1810年にこの門のみを残して取り壊された。どっしりとした重量感に圧倒される。当時の町の繁栄を偲ぶことができる。

 ブリュセルの門(横長1枚、縦長スライドショー3枚)

 メッヘレンは観光コースから外れ、今は、訪れる人も少ない静かな町。どこか懐かしい感じのする町であった。

 

二国の国旗が入り乱れる国境の町

 2009年11月30日、オランダ南部の小さな村々をドライブしていると、オランダ国旗を掲げる家と、ベルギー国旗の家が交互に頻繁に現れる。ベルギーとの国境の町バールレ・ナッソー。町内にベルギーの飛び地が21ヶ所もある。その飛び地の中にさらに8つのオランダの飛び地がある。

 12世紀、中世ヨーロッパでは戦争や権力闘争が続けられ、この町も2人の領主によって領有された。1648年、オランダが独立したときの条約でも、モザイク状の領有状態のまま2つの国に引き裂かれ、現在まで受け継がれてきた。

 その後、異常状態の解決が試みられてきたが、9000人の住民は現状に慣れきってしまい、解決には至っていない。町には町長が2人、役所や学校、警察も2つある。1軒の家が2つの国に分断されている例も多い。オランダのブレダ、ティルブルクからバスの便があり、30分で行くことができる。

 ベルギー人は、レンガをお腹に入れて生まれてくると言われ、家を造ることに執念を持っている。家族や友人と家で過ごすことを大事にし、お客を家に招くことを無上の喜びとしている。

 - ベルギー点描③に続く - 

 

 

 

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