ケ・セラ・セラ Que Sera Sera 古稀をふり返って

      2016/06/21

向野 昌邦

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福高寿禄会ホームページ開設とのこと実に素晴らしい!
事も有ろうに新会長青柳君の発案とは思いも寄らぬことだが、誠に感服しました。エッセイなど全く縁のない私であるが、これまでの人生を振り返ることとしました。
しかともない同級生の話ですが許してください。

アルバムに浮かぶ懐かしい風景

さて、これまで改まって高校時代、それ以後を振り返ったことは全く記憶にない。
久しぶりに、えんじ色の「卒業アルバム」を開いてみた。3年生の時は、1組で担任は森貞二郎先生、懐かしい!

初々しい学生服姿のクラスメイトが楕円形の中に居ました。教室での授業風景、通学電車の風景、運動会や文化祭の風景がかすかながら瞼に浮かびます。実に頼りない記憶であるが。高校時代は今思うに、消極的で真面目な方だった?!と思う。あああ

部活については、中学校時代頑張っていた事もあり、先輩から卓球部に誘われたが入らず、なんと図書部に入った。未だにその理由は分からないが、体操着置き場とトランプ(ナポレオン)で遊べるのが理由のような気がする。図書部員としては、文化祭で全く興味が無かった「読書会(草枕)」を一回やった。全く苦笑いものであった。

製薬会社を入社辞退

大学は九大理学部化学科に進んだ。この4年間は実に充実した楽しい学生生活だった。もちろん研究の方も順調だったと思っている!?
引き続き大学院(有機反応教室)に進み、実験に明け暮れていたが、研究成果が上がらず、ついにはスポーツにウツツを抜かし研究のストレスを解消していた。
このような大学院での状況が今の私の人生を決定付けたと思われる。

大学院終了の年、就職先が5月頃早々に決まった。製薬会社の研究室であった。
その頃、毎日の研究に行き詰まり、研究者としての生活に違和感を抱きつつあったのに・・・果たして大学院終了間近の12月、決まった会社に対し入社辞退のお願いをする事となった。

そして仕事に就いたのは、なんと父が経営している個人会社『向野製作所』、配電盤・キュービクル等を造る下請けの小さな鉄工所である。将来何とか特許を目指し、下請けを脱し、大きくしていこう、実業家になろう等と意気込んでいた。

特許の夢やぶれ心が折れて・・・

5年間油にまみれ、肉体労働のみならず経営の方にも頑張った。しかし、景気も低成長期に入り、特許も幻となり、下請けという事もあり苦しいことばかり続き、ついに将来の夢を持てなくなり、心が折れて方向転換を考えてしまった。社員のことが一番心苦しく心配だったが、親父が後をフォロウしてくれた。

背水の陣で選んだ「不動産鑑定士」の道

そして選んだのが『不動産鑑定士』の道であった。三大国家試験ともいわれ、裸一貫から出直すのには資格業が良いのではと、確たるものはなかったが決断した。それは28歳の春だった。

試験科目は文系の科目ばかりで初めて勉強する分野ばかりであったが、背水の陣で勉強した。29歳の7月二次試験を受けた。その年の9月結婚した。11月に運良く合格発表があった。11月末、不動産鑑定創設の母胎となっていた『財団法人日本不動産研究所』に入所でき、単身東京に行った(未だ新婚生活2ケ月足らずであった)。
そして正月に福岡に戻り、正月明け早々には妻共々東京へ引っ越しをした。
なんと、凄まじい一年で有ったろうか。今思い起こすだけで恐ろしい一年であった。

恩師がくださった餞の言葉

そこで忘れてはならないのは『結婚式』、仲人は中学校の恩師、その恩師が私にくださった『餞の言葉』がいつも気になっている。それは、『ケセラセラ』という言葉である。恩師は言った。最も嫌いな言葉は『ケセラセラ』だと。私に、決して『ケセラセラ』になるなということなのだ。

恩師は、それまでの私の生き方、性格をよくよく見抜いていたのだろう。
思えば、これまで大学志望選択にしても、大学での研究にしても、製薬会社への入社辞退にしても、向野製作所への入社、そして退社、不動産鑑定士の受験等々全てが『ケセラセラ』に思えてならない。

恩師の言葉を思い出した時には、『ケセラセラ』には絶対ならないぞと思うのだが、結果はいつも『ケセラセラ』の様なのだ
ダイビング向野人生訓に『昨日・今日・明日』という言葉がある。簡単に言えば原因があって結果があるという事だろう。
古希を迎え、『昨日・今日』まで『ケセラセラ』でやってきたわけだから、『明日』も当然『ケセラセラ』・・・!
同窓生の皆さん!これからもこんな私ですが、楽しいお付き合いを宜しくお願いします。

2011年モルジブにて(写真中央)、青柳君や仲間たちと。ダイビングは趣味の一つで、潜友会(青柳君が会長)に所属し、毎年2回程度海外で潜っています。

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