いつからか銀翼に恋して VOL.9
2019/05/01
大量輸送を可能にしたジャンボジェット機登場
1970年代は日本国内の航空需要が急速に高まってきた時期でした。羽田空港をはじめ国内主要空港の離着陸容量は満杯となり不足、空港周辺の騒音規制もあり増便も儘ならず。そこで旺盛な需要に対応するために国内線機材を大型化し大量輸送することでこの問題を克服することとしました。
日本航空はボーイング社に国内路線での単距離多頻度離着陸に適した機材の開発を依頼、ボーイング社は機体構造、降着装置(足回り)の強化、ブレーキ冷却効果を高める装備等を付加したB747-SR(Short range)の生産を開始、1973年10月客席数498席の単距離路線用機材が国内線に就航しました。のちに二階部分が延長されたSUD(Stretched Upper Deck)が就航すると客席は最大573席まで増加します。
また、同時に国際線仕様のB747-LR(Long range)の導入も相次ぎ、B747乗員の増加配置が必要となり、私もDC8型機からB747型機への機種移行訓練に投入されることになりました。
1974年9月5日、モスクワ・シェレメチボ空港から羽田空港まで9時間31分の乗務を終了、DC8型機での総飛行時間は1189時間37分でした。
10月に入ると、B747型機の座学訓練が始まり、暫しの地上勤務となりました。B747型機は人間工学をもとにした多重装備による安全性を高めた設計と、アポロ宇宙計画で使用された慣性航法装置を搭載し航法精度に優れた最新の機材でした。
一方で、油圧装置が4系統装備されたことから全油圧が失われた場合の操縦が想定されておらず疑問を抱くも、確率上有り得ないとされていました。このことはのちに御巣鷹山の大事故で垂直尾翼損傷による全油圧パイプが切断された結果、操縦不能に陥ることとなった痛恨の設計ミスと言えるかもしれません。
B747型機副操縦士として南廻り欧州路線配属
1975年2月2日、大雪で一面銀世界であったアメリカ・ワシントン州モーゼスレークでの局地飛行国家試験に合格、B747型機副操縦士に発令されました。当初は憧れのハワイ、太平洋路線に配属される予定になっていましたが、増便著しい国内及び近距離国際路線要員となり暫く国内線主体の勤務となってしまいます。
そうこうするうち、その年の10月より南廻り欧州線の一部(バンコク→ニューデリー→テヘラン→ベイルート→ロ-マ→ロンドン、またはパリ便)がDC8からB747に変更されることになり南廻り欧州路線に配属されました。
当時、日本からヨーロッパへは、B747でのアラスカ・アンカレッジ経由北極回り、シベリヤ経由(ソ連との協定でB747は就航不可)、そして南廻り欧州線の3ルートを運航していました。客層も北極回りは観光客主体、飛行時間はシベリヤ経由が一番短く、その日の夕刻にヨーロッパ各地に到着するのでビジネス客に好評でしたが運航頻度と機材がDC8のため輸送量に限りがありました。南回りはヨーロッパまで延々丸一日を要したので日本からの乗客は南西アジア、中近東地域までがほとんどでヨーロッパ諸国への利用客は僅かでした。
途中寄港地のインドからは旧宗主国イギリスで成功した親族を頼ってロンドンまで大挙して出稼ぎに行くインド人が数多く利用、彼らのほとんどは飛行機が初めてでマナーも最悪、客室乗務員には不興を買っていました。
林立する積乱雲をぬって
バンコクからの運航は夜間飛行となるうえ、ベンガル湾上はいつも積乱雲が林立、その高さは優に一万三千メートルを超え、しかも発雷で電球のように不気味に光るなかを回避しながらの飛行、そのうえ地上無線施設の信頼性も低く、短波による通信は混信と雑音に悩まされる日本航空の路線としては最悪の運航環境でした。途中インドのニューデリーまたはボンベイ(ムンバイ)に寄港、給油と乗客の乗降を済ませイランのテヘランまで飛行し現地時間の深夜に乗務を終了、テヘランは標高1200Mの高地にあり空気も薄く乾燥気味でした。
次の日は人々で溢れ、ごった返す街中に出てチェロカバブなどのペルシャ料理で少し早めの夕食をとり仮眠。帰路は真夜中のテヘランを発ち、3時間半程の飛行でニューデリーまたはボンベイに寄港。再び離陸すると程なく夜が明け、強烈な睡魔が襲うなか林立する積乱雲を回避しつつベンガル湾を東進、ビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)上空を経て約3時間半の飛行でバンコク・ドンムアン空港に着陸すると自国に戻ったかのように安堵したものです。
この南回り欧州線、客室乗務員は延々とヨーロッパまで行き約2週間かけて東京に戻ってくる過酷な勤務でしたが、途中のローマで2~3泊出来るのが救いであったようです。かたや運航乗務員は勤務効率と運航環境慣熟を考慮し、イタリアのローマにステーションクルー(駐在乗員)を配置。中東以西ヨーロッパ各地の便の運航を担当、東京のクルーはテヘランで折り返す約1週間の乗務パターンとなっていました。
家族3人でローマ赴任
1977年(昭和52年)5月、所属長から「DC10型機に移行して機長昇格コースに入るか、機長昇格は少し遅れるがローマ駐在を希望するか」との打診を受けました。
ちょうど息子が1歳になるころで学校の心配もなく、かねてから憧れていたローマへの赴任を希望、その年の8月から1979年(昭和54年)8月までの2年間、妻子と共にローマ市郊外のEUR(新ローマ)地区で過ごしました。現地では大根とこんにゃく(粉末を持参)以外は何でも手に入り食生活の心配もなく、イタリア料理も堪能しました。
ローマには機長、副操縦士、航空機関士がそれぞれ4名配置され、テヘラン以西、(ベイルートはレバノン内戦で寄港中止)、アテネ経由またはローマ直行便とモンブランとマッターホーン間のアルプスを越えレマン湖上空を飛行するパリ、ロンドン便を日帰り往復で担当しました。中東便はのちにエジプトのカイロにも寄港するようになります。
所属したローマ支店には給料日に小切手を取りに行くくらいで、勤務日以外は全くのフリー、妻と物心ついたばかりの幼い息子の3人で長い旅行をしているような感じで、愛車アルファロメオでのイタリア国内はもとより提携航空会社の割引を活用しヨーロッパ各地を観光して廻りました。たまに有償旅客優先で搭乗後に降ろされることもありましたが・・・。マッターホーンを見てジェラート(イタリア語でアイスクリーム)みたいと息子が言ったのを覚えています。
ローマに着任して、そこ此処にある遺跡、聖ペトロとキリストが出会った場所とされるアッピア街道のクオバディス教会などの旧跡に出会うにつけ、福高のときに世界史を選択しなかったこと、聖書の知識がゼロであることを後悔せざるを得ませんでした。
歴史的事件にも数々遭遇
ローマ教皇が短期間で二人誕生したのもこの頃、1978年(昭和53年)の夏の出来事で、ヨハネパウロ2世が選ばれた10月のコンクラーベのときはミケランジェロの天井画が描かれた「シスチーナ礼拝堂」の煙突から立ち昇る白い煙をバチカンのサンピエトロ広場で目撃することが出来ました。
また、駐在員の子弟に剣道を教えていたこともあり、現地テレビ局の日本紹介番組に出演し、心得のある日本人留学生と演武したのも思い出の一つです。
1979年(昭和54年)1月16日、パーレビ国王が国外亡命し王政が倒れたイランイスラム革命に遭遇。街中の銃撃戦に命の危険を感じる経験をしたのもこのころで、その後の混乱によりイラン領空の飛行ができなくなり、イラク領空経由パキスタンのカラチやアラブ首長国連邦のアブダビに寄港することになりました。
二年間の海外生活はときに厳しくも、楽しい思い出でいっぱいですが日本の良さをしみじみと感じたときでも有ります。‘アリベデルチ・ローマ’任期を終え、帰国するモスクワ線の機内で見た「寅さん」映画は感無量でした。