福高寿禄会|福岡県立福岡高等学校16回卒業同窓会|

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いつからか銀翼に恋して Vol.8new

   

 

世界初の超音速ジェット旅客機「ダグラスDC-8」

 1971年11月、B727での乗務を終え、副操縦士(ファーストオフィサー)昇格訓練に投入されました。機種は空の貴婦人と呼ばれたダグラスDC8型機、ボーイング707型機と並ぶ、当時の主流国際線用旅客機です。
 ボーイング機は軍用機生産が多く、経験に乏しい乗員にも易しい最新の設計思想を取り入れ、操縦舵面は油圧を介しての作動、バルブ類は電気による制御を積極的に取り入れていましたが、ダグラス機は戦前より旅客機を主に生産してきた歴史があり、保守的で手動式装置を多用した頑丈な機体でした。操縦系統も一部を除き油圧を介さずケーブルを介して手動で操縦舵面を作動させる設計で結構腕力を必要とするものでした。

 大型飛行機は機種ごとに国家試験に合格する必要があり、副操縦士昇格訓練は座学、シミュレーター訓練、実機飛行訓練などで約六か月を要します。
 機種限定変更国家試験に合格し、約一か月の路線訓練を終了すると、晴れてDC型機副操縦士に発令され、国内線乗務から東南アジア路線へと飛行地域が広がってゆきます。

 

副操縦士として国際線デビュー

 当時、東南アジアの最長ルートは羽田-香港-バンコク-シンガポール-ジャカルタ便でした。乗員は羽田を出発して香港に寄港。引き続き、南シナ海を南下し珊瑚礁で出来た西沙諸島から西に変針、ベトナムのダナンを経由してバンコクまで飛行し第一日目の勤務を終えます。
 次の日の夕刻、バンコクからマレー半島を南下、シンガポール着陸後、南スマトラのパレンバン上空を飛びインドネシアのジャカルタに深夜到着。市内のホテルでショートステイ後、次の日の早朝、シンガポールまで飛行、シンガポールで1~2泊休養しシンガポールから香港経由羽田に戻るパターン。もしくは、ジャカルタ-シンガポール-バンコクと飛び、次の日に香港、大阪を経由して羽田に戻るかの5~6日の乗務パターンでした。

 

ビル群スレスレを降下する「香港アプローチ」

 各ルート、フライトはそれぞれ特徴がありますが、中でも当時の香港啓徳空港の着陸は圧巻、痺れました。通常、南風が吹く空港には香港島の西側から島伝いに九龍に向かい住宅街のビルすれすれに降下進入、滑走路間近で急旋回し着陸となります。
 世界でも難易度の高い空港でしたが事故は余りありませんでした。パイロットがいつもより少し緊張して操縦していたからでしょうか。

◆世界一着陸が難しいと言われた香港啓徳空港(参考画像)

 また、ベトナムでは、米軍機の爆撃で燃え盛る密林を目の当たりにするなど、地上ではまさに戦闘中の上空を飛行したことも幾度となくありました。北ベトナムの攻勢が強まるとダナン上空が飛行できなくなり、南のニャチャン、サイゴン経由と迂回せざるを得なくなりました。

 

感謝!福高先輩機長にしごかれる

 通常、パイロットは東京基地を出発して帰着するまでのワンパターンを同一機長、航空機関士とクルーを組んで運航に携わります。毎パターン異なる機長と飛ぶのが普通で、戦前派の怖いベテラン機長から兄貴分みたいな若い機長、時には外人機長と飛ぶこともあり、同乗機長の人となり、情報を集めるのも副操縦士にとって大事なことでした。
 福高先輩で、テニスのデビスカップ代表選手であった岡留恒健機長と同乗し香港、バンコクを飛ぶ機会を得たのもこのころ、先輩にはのちに機長昇格シミュレーター訓練でしごかれるなど、大変お世話になりました。

 

いよいよ長距離! モスクワ経由欧州路線へ

 近距離国際線に慣熟したころ、長距離路線のモスクワ経由欧州路線室に移動、当時、本邦欧州間のルートはアンカレッジ経由、北極廻り路線とバンコク、インド、中東経由の南廻り欧州線がメインでした。時間、距離的に最も近いシベリア経由はソビエト連邦が軍事上の理由で、アエロフロート、日航、フランス航空、英国航空など、限られた一部の航空会社にのみ上空通過を認めていました。
 ソ連は乗員の入国ビザも運航に必要な最小人員に制限し、モスクワ滞在中も我々を厳しく監視していました。

◆ソ連時代のモスクワ(参考画像)

 東京ーモスクワ間は約10時間の飛行で、モスクワが悪天候などで着陸できない場合に備え代替飛行場をレニングラード(サンクトペテルブルク)に選定するとDC8型機の航続距離ギリギリ、気象条件によっては途中ハバロフスクに寄って燃料補給することもありました。
 乗員編成も、長い飛行時間であり機長2名、副操縦士1名、2名の航空機関士で編成され飛行中交代で短い休養を取っての運航。また、ビザ発給人数が限定されていたので同じメンバーと飛ぶことが多くなりました。

 

剣道部ライバルとコペンハーゲンで巡り会う

 モスクワ以遠は通常の3名編成でロンドン、パリ、コペンハーゲンの何れかに一泊で往復、共産圏特有の窮屈な滞在から僅か一夜でしたが、つかの間の自由を満喫したものです。
 コペンハーゲン便では思いがけない再会もありました。高校時代、筑紫丘高校剣道部の主将であった山田三雄君がモスクワに出発前の操縦室を訪れ、声をかけてきたのにはびっくり。北欧女性と結婚しカストラップ空港の日航支店で勤務していたのです。彼も、まさか私がパイロットに成ったとは思ってなかったようでした。

 副操縦士に昇格した1972年は6月14日に南廻り欧州線のDC8型機がインド、ニューデリー近郊に墜落、11月28日にはモスクワ離陸後に同じくDC8型機が墜落するなど、世界に路線を拡張していた日航は「伸びすぎた翼」とマスコミに非難されましたが、モスクワ経由ローマ線が就航するなど新路線を飛ぶ喜びもありました。
 ローマ・フミチノ空港からテルミニ駅そばのホテルに向かう途中、車中から見た夕闇迫るサンタマリアマジョーレ寺院の階段にたたずむ多くの若い男女が印象的でした。

◆クアラルンプール空港にて  1972.11.15

 結局、2年ほどシベリア横断欧州線を飛びましたが、その間モスクワでの墜落事故もあり重苦しい雰囲気が漂い、特に冬場のモスクワはホテルの外観とは程遠く暖房も十分でない部屋で過ごし、日本からトイレットペーパーを持参しなければなりませんでした。
 洗面所に置いてあるのは、使用をためらう硬い藁半紙でしたから。

 

 

 

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