いつからか銀翼に恋して〔日本航空回顧録〕VOL.12    三十五年目の夏new

   

◆新型コロナ感染防止のため、今年の慰霊登山や灯篭流しなどの慰霊行事は規模を縮小して行われます。

 

 今年は日航123便事故から35年になります。当時の思いを回顧録連載12号として書いてみました。今回は、添付写真は有りません。敢えて出したくないのです。

 

 長いパイロット生活の中で最もつらく悲しかった出来事、それは1985年(昭和60年)8月12日、真夏の夕暮れに起こりました。

 子供たちは夏休みで博多の実家、妻と二人で友人夫妻とバーベキューを楽しんでいたとき、ラジオから「日航ジャンボ機が消息を絶った」とのニュース速報が飛び込んできました。管制レーダーから消えたのは、羽田発大阪空港ゆきの日航123便。当時、私は運航企画部調査役としてパイロットの立場から運航本部の諸問題に取り組む任にあったので、急ぎ羽田のオペレーションセンターに向かいました。

 羽田では事故対策本部が立ち上げられ、社内捜索調査班を組織、燃料残時間も過ぎ騒然としたなかにも重苦しい雰囲気に包まれていました。
 日航123便は社用通信で後方扉破損、急減圧、全油圧喪失、羽田引き返しを決断も操縦不能を伝えて交信を絶っていました。乗員名を見ると、機長はローマ在勤時家族ぐるみでお世話になったTさん、副操縦士はローマで同じアパートに住んだこともあるS君(遺児は日航のパイロットになった)、航空機関士はつい最近一緒に飛行したばかりの温厚なFさん、驚きと悲しみで動転したのを覚えています。

 事故機は伊豆半島東の相模湾上空を飛行中、ドーンと大きな音とともに異常事態が発生。その後、約30分間飛行したのち午後6時56分ごろ、群馬県多野郡上野村山中(御巣鷹の尾根)に墜落。大破し火災が発生、乗客509名及び乗員15名の計524名が搭乗していましたが、520名(乗客505名、乗員15名)が死亡、乗客4名(すべて女性)が重傷を負い救助されました。

 単独の航空事故としては史上空前の大惨事、生存者がいたのはせめてもの救いでした。
社会の第一線で活躍されていた方々、無限の未来があった子供たち、そして生還を期し、最後まで懸命に対処した乗員の皆さんの御冥福をお祈り続けます。

 事故翌日の朝、捜索中の事故機が発見され、悲惨な状況がテレビ画面を覆い、生存者の救出、事故処理が始まる中、私は後ろ髪をひかれる思いでホノルルに飛びたちました。運航の現場では、空港従事者、乗員、そしてすべての社員が沈む気持ちを抑え懸命に業務に励んでいたのを、今でもはっきり覚えています。

 事故原因は、7年前に起きた大阪空港着陸時の機体尾部接触に伴う、ボーイング社による損傷修理が不適切に行われた結果、金属疲労が進展し後部圧力隔壁が損壊、尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊(4系統ある油圧装置すべてを喪失)が生じ操縦不能に陥ったために生じたものと推定(ほぼ断定)されています。

 この年8月の手帳に私は、「今回の事故は今までのものと原因において根本的な違いがある。確率の無に近いものが現れただけに、乗員、航空関係者としては深刻である。また、何故日航に起こったかを考える必要がある。天は日航に罰を与えたのか?」と記しています。

 当時の社内は、諸般の事情により事業計画が想定ほど伸ばせず、大量採用したパイロットの余剰を抱えておりセカンドオフィサーの副操縦士昇格も大幅に遅れていました。
そのうえ、日本航空では創業以来初めてとなる航空機関士を必要としない、パイロット2人だけで運航する新機種B767 型機導入が始まっており労使関係は最悪の状況となっていました。

 このような中、私は月2回ほどのフライトスケジュールをこなしつつ、事故後の組織対応や、導入が決まっていたB767型機以上にコンピュータライズされたB747-400型機を、航空機関士を含めた3名編成とすることに拘る組合と、パイロット2名で安全は十分確保されるとする会社、技術陣との編成を討議する検討会の取り纏め役を務めるなど、地上での業務が主体となり精神的にも辛い日々を過ごしました 。

 ジャンボ機安全神話の崩壊、険しい道のりである信頼の回復、航空輸送の原点である安全の確保をいかに推進するか、これまで以上に必要な施策は何か、どのように実行してゆくのか、運航を担う組織の運営は如何にすべきか等々、大事故を契機に改めて突き付けられた課題に取り組みましたが、この時の経験は航空人生での掛け替えのない財産となったと思っています。

 

 

 

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