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【時代の証人】三島由紀夫と[盾の会]事件に思うことnew

   

 

三島由紀夫と[楯の会]事件とは

1970年11月25日、小説家の三島由紀夫が、自身が主宰する「楯の会」メンバー4名と防衛庁自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問。東部方面総監室で総監を拘束し、本館前に集合させた駐屯地全隊員約800名に向けて、憲法改正のため決起を呼び掛けたのち割腹自殺を遂げた事件である。三島を介錯したメンバーの森田必勝も後を追い割腹自殺した。三島由紀夫享年45歳、森田必勝享年25歳。

◆写真左:演説をする三島由紀夫 中:現在の市ヶ谷記念館(旧1号館)、このバルコニーから三島由紀夫は集まった自衛隊員に向けて檄を飛ばした。右:同行した[楯の会]メンバー。左から森田必勝(25)、小賀正義(22)、小川正洋(22)、古賀浩靖(23)の4名と三島由紀夫(中央)。

 

 

三島事件の当日、竹田さんはどこにおられましたか?

竹田 三島事件が起きた昭和45年は大阪の連隊勤務でした。高度成長期の只中で万博も開催されましたが、自衛官の募集は特に難しい時期でした。私は夜遅くまで中隊に残り、若い隊員に陸曹(下士官)候補生を受験するように勧めて勉強をさせました。この年日米安保条約が自動延長されましたが、2年前から治安出動を想定した訓練を重ねていました。

この年、竹田さんは現在の奥様とお見合いをされたんですよね?

竹田 はい。高校新卒の3月隊員教育を担当していた私は、急に大学院受験準備を命ぜられて、防大に行き受験勉強を始めました。9月末連隊に帰ることになりましたが、その直前に知人に勧められ妻と見合いをしました。連隊に復帰し訓練最盛期の中で、福岡・横浜の両家を駆け足で回って婚約が決まり、初めて二人で会う約束をしたのがまさに事件があった11月25日でした。二重に忘れることができません。

 

どこでニュースを聞かれたのですか?

竹田 当日新幹線の新横浜駅で会った二人は、タクシーで横浜の元町に向かいましたが、途中ラジオ放送で三島事件の発生を知り、細部は不明のまま元町に着きました。その時は敢えて話題にせず過ごし、夕方妻の家に至り事件の細部が分かりました。
 妻の父(防大訓練課長)が帰宅しましたが、多くは語りませんでした。益田総監や怪我をされた方などの心配を口にしたように思います。

一報を聞いてどんな気持ちでしたか?

竹田 大変驚きショックの状態で、何も考えられませんでした。少し落ち着いて事件の経過が分かるに従い、お二人の死を悼む気持の後に反発を覚える面白くない気持が出てきました。

それは、どういう種類の反発ですか?

竹田 三島氏は生涯にわたって日本的な美を追い求められた方だと思いますが、私達が見聞きしたその日の行動は決して美しいとは思えないものでした。三島氏は、日本的美しさの一つである「武士道」を口にされましたが、私には違うものに思えました。これらの思いから、私は三島氏の死を残念に思う反面反発を覚えたのです。

三島由紀夫氏の主張について、共感できる部分はありましたか?

竹田 その時、私には強く共感を覚えたという記憶はありません。「楯の会」の思想背景などが詳しく報道されても私の思いは変わりませんでした。

それは何故ですか?

竹田 それには2つの思いがありました。1つは、三島氏の命を賭した訴えを否定はしないが、そのまま受け入れることはできないとの思いでした。三島氏は自衛官に「武士」の心を求めましたが、振る舞いは無礼であると思いました。日本人が世界に誇れる「武士道」とは、礼儀正しく思いやりがあるものだと私は信じていました。

――やり方に問題があると?

竹田 そのとおりです。三島氏の主張には賛同出来るが、やり方には賛同できないということです。

 2つ目は、私には三島氏の自害動機の核心が何であるのか、疑問に思う点があったからです。実は、福岡に防大1年の時から兄事している人がいます。その人は民族派の学生に知られていましたが、三島氏からの面談したいと言う意向に応じませんでした。「三島氏の言が本物なら既に自害しておられるはず。」との思いだったと聞きました。私はそのことを知っていましたから、自害された動機には、政治的信念の他に大きなものがあるのではないかという疑問があったのです。

――それはどういうことですか?

竹田 三島氏の決行が、「この方法以外にない。これ以上待てない。」という思いに基づくものであること、また自害して訴えるほど強かったのは間違いないと思います。しかし、それが当時の国民や自衛官たちに受け入れられるとは三島氏自身も考えておられなかったと思います。

 憂国の情を現実的活動で具現して行こうという道もあることは、当然理解されていたと思います。それでも、あのような道を選ばれたのは、自分で自分の生きる道を決められたのだと思います。それが「死して生きる」ことだったのだと思います。三島氏自身の人生の完結を図られたのだと思います。政治的な憂国の心のほかに、三島文学を完結するという意味の心情も入っていたかもしれません。ですからあのような形でなければならなかったのではないでしょうか。

殉死をした森田必勝氏についてはどう思われましたか?

竹田 哀惜の念しかありません。ほぼ同年齢の有意の青年が自害して残念だという気持です。死生観や立場の違いなど理屈が入り込む余地はなく、私の中では「痛ましい!」という友人に対するような気持しかなく、それ以上は考えたくないというのが正直なところです。

 三島氏に対しては、森田氏を「道ずれにして・・・死なせた。」という怒りの気持もありました。

私たち民間人にとって一番の疑問ですが・・・あの時「檄」を受けた隊員の皆さんが、怒号やヤジで三島氏の声をかき消し、まったく耳を傾けようとしなかったのは何故だったのでしょうか?

竹田 その場に集まった全ての隊員が耳を傾けなかったわけではないと思います。ただ、「隊員から怒号やヤジがあって騒然とした」のは、反発した多くの人達がいたからだと思います。

 反発した理由は、三島氏の主張の内容というより「東部方面総監を人質にして自分達を集まらせたことは許せない。」という気持だったと思います。ですから聞く耳にもなりようがありません。また、「日々真面目に隊務に励む自分達に対し押しつけがましいではないか!」と受け取ったと思います。

 当時、「隊員が整斉と各部隊等へ帰って行った」ことを揶揄した報道がありましたが、私は「何を言っているのか分かって言っているのだろうか。」と思いました。もしあの時、集まった隊員たちが「そうだ!そうだ!」と言って盛り上がり、その場を離れなかったらどうでしょうか。これは武力を持つ集団として自衛隊の危機、ある意味で国家の重大問題です。
 ですから、「当たり前のことではないか。隊員個人が勝手な行動を取ったら、それは国民の負託に応える自衛隊ではなくなるではないか!」と心の中で叫びました。

三島氏の決行について、当時自衛隊から何か公式の説明はありましたか?

竹田 事件当時中央や上官からの指示・指導などは特別にありませんでした。中曽根防衛庁長官の発言がありましたが、組織として総括が示されたことはありません。

同僚の皆さんとは、事件についてどんな話をされましたか?

竹田 連隊の独身幹部数名は同じ宿舎でしたから話題になりましたが、やはり私の思いと同じ、三島氏の主張・行動のすべてを是として賛同するという人はいませんでした。

今40数年の時を経て、三島事件についてどう考えておられますか?

竹田 三島氏は憂国の士であったと思っています。憲法と自衛隊の関係については、この1、2年の間にようやく国民的議論の芽が見えてきました。三島氏は日本及び日本人のあるべき姿を求められたさきがけの人だったと言えます。

 ただ問題は、「自衛隊よ立ちあがれ。」という主張です。その主張と訴える手段はやはり間違っていたのではないかと思っています。

 任官中また今現在も、私を一貫して支えている思いは「自衛官は日本国と国民のためにある。」ということです。ですから、海外や国内において危険を顧みず行動する隊員の姿を見る時、「自分達が引き継いで来たことの証」としてとても誇りに思うのです。

――今回もインタビューにご協力いただき、ありがとうございました。

 

 

 

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