「その時、君は?」【003】1981 Autumn 伝説のTVCM「雨と子犬」に出会った日

      2019/09/16

 

その時、私は、コピーライターの道に悩んでいました。

 竹田範弘さん発信の当企画に応え、私も何かドラマティックな青春の1ページをと思ったのですが、言うほどのことはありませんでした。

 ただ、京都の「八坂神社」にまつわる思い出で、後の人生にも影響を及ぼした三つの出来事がありますので、「幸子の八坂神社アンソロジーBEST3」(笑)として、紹介しようと思います。

 

1981 Autumn

 

その時、君は? 【003】  市丸 幸子

 

1981 Autumn  雨の京都をさまよい歩く子犬の姿に、心を奪われました。

 私は同志社大学卒業後、「コピーライター養成講座」で学び、大阪の広告会社で13年間コピーライターとして働きました。帰福は事故で全身麻痺となった父の介護のためでしたが、その父も無事退院し、さて福岡で何をして働こうかと迷っていた頃のことです。

 大阪を引き払う際、多少なりとも積み重ねたキャリア、友人知人、仕事上のネットワークなどを切り捨てて帰ってきましたので、福岡で同じ仕事をすることは無理だろうと、途方に暮れていたのです。「コピーライターは35歳が定年」と言われる歳を既に過ぎていました。

 そんな時、ふと目にしたのが、このトリスウィスキーのTVCMです。

 映像は、雨の京都の町中をトコトコ歩く子犬の姿を、60秒にわたって捉えたもの。河原町の雑踏から東大路通りへ。行き交う人々、自転車との遭遇、激しくなる雨足、木陰での雨宿り…。そんな姿を、遠近のカメラが優しい眼差しで追っていく。そんな内容でした。

 そして八坂神社の石段を登る姿にかぶせて、ナレーションが流れました。

いろんな命が生きてるんだなあ。
元気で。
とりあえず元気で。
みんな、元気で…。

 企画立案・コピーは、尊敬する中畑貴志さん。音楽はビリー・バンバン。広告は評判を呼び、その年のカンヌ国際広告映画祭/CM部門で金賞を受賞しましたので、覚えている方もいるのではないでしょうか。因みに素晴らしい演技を見せてくれた子犬は、スタッフが保健所からもらい受けてきた本物のノラだそうで、危うく処分されるところ、その後飼い主が見つかって幸せに暮らしたとのことです。

 そして私は…このCMを見て、「やっぱり広告っていい、広告が好きだ!」「コピーライターの仕事を続けていこう」と気持ちを新たにしたのでした。

 CMの動画はコチラです。

 

1986 May ローハイドを見ていた少年

 そんな中畑さんの仕事に憧れて、"物語"のある広告をと私が作ったのが、大分県久住町飯田高原にある「EL RANCHO GRANDE(エル・ランチョ・グランデ)」の広告です。

※「エル・ランチョ・グランデ」は、飯田高原の広大な敷地に設けられたアメリカ南西部風の宿舎に滞在しながら、乗馬のレッスンやカウボーイの食事、高原を疾駆するトレイル・ライディングなどが楽しめる体験型施設です。

ローハイドを見ていた少年(ポスター・電車中吊り広告用)

企画立案・コピー/市丸幸子

 

 

 

← これは「カンプ」と言って、プレゼン用に完成作に似せて作ったデザイン見本です。

昔、ローハイドというTV映画を夢中で見ていた。
牛を追って旅を続ける、優しい眼をした男たち。グレート・ウェスタンの四季。通り過ぎる街と、そこに住む個性的な住人たち。試練とつかの間の安息。荒野に咲いた恋。なぜか、彼らの恋はいつも実らなかった。

数年後、ボス役を演じた俳優が、撮影中に南米の川で事故死したことを小さな記事で読んだ。
ずっと後になって、準主役級だった朴訥な青年はマカロニ・ウェスタンのスーパースターになり、もう一つの男のドラマは、何だか切ないほどに心を揺さぶったのを覚えている。

大分県久住、飯田高原の原生林に広がる大西部――エル・ランチョ・グランデ。
大いなる安息と野生の暮らし。大草原を渡る緑の風。満天の星空。置き忘れてきた風景と思い出の男たちに出逢いに、あなたは時の川を超える。

野生をあやす男の揺りかご COME BACK AGAIN!(TVCM用)

企画立案・コピー/市丸幸子

鳥たちは朝を告げるもの。月光は道を照らすもの。
森は馬で駆けるもの。火は自らの手で熾すもの。
歌は星空の下で唄うもの…。
COME BACK AGAIN!

 

 この仕事は受注を済ませた案件で、数か月かけてコンセプトを練り、5月のGW明けのプレゼンテーションに向けて準備をしたものでした。紙媒体のポスター・電車中吊り広告、TVCF用のプロモーションムービーの他に、パンフレット20ページの見本をフィニッシュ原稿同様に作り、連休最後の5日間はグラフィック・デザイナーやイラストレーター、CMプランナーたちと徹夜仕事で準備をしたのですが…。

 連休明けの朝一番、疲れた身体とは裏腹に、期日に間に合わせた満足感いっぱいの私たちに、広告代理店からかかってきたのは、「もう、いらなくなったから…」という電話でした。 
 こんな時、理由が告げられることはないのですが、噂によると代理店の若い担当者がクライアントの機嫌を損ねたとのこと。チーム全員が寝食を忘れ情熱を傾けた仕事だっただけに、最終作品として現物が残っていないのが残念です。

 見返してみると、時代を感じて苦笑します。今ではもう「エル・ランチョ・グランデ」のターゲットとなる父親に、かつて「ローハイド」を見ていた少年はいないし、ましてその子供たちとなれば、親子で「キョトン」ということになるでしょう。

 そして何より、元気を失った日本経済とともに、こういうイメージ広告が作られることはほとんど無くなりました。今の広告で重要なことは、情報の量とスピード、どれだけ安くサービスを利用できるかというお得感です。もうこのような広告にOKが出る、企業と広告と消費者の蜜月の日々は戻ってくることはないでしょう。

 

1967 Oct.国際反戦デーと鞍馬の火祭り

 年代は前後します。あれは大学3回生か4回生(関西ではこう呼ぶ)のことだったので、1966年か1967年頃の10月21日だったと思います。その日は国際反戦デーで、私は八坂神社の石段にいて、過激派学生たちが石段下の公道を埋め尽くし、機動隊と激しくぶつかり合う"フランスデモ"を見ていました。

 当時学生運動は暴走を始め、「ベトナム戦争反対」という大義名分には共感しながらも、私のようなごく一般の女子大生にとって、彼らの姿は現実感がなく、見知らぬ国のニュース映像のように遠い存在に見えました。新聞に「学生は親がかりの身で、自らは安全な場所にいながら、破壊活動をするのは甘えではないか…」そんな論調が見え始めていたのもこの頃です。

 そして翌10月22日、私は友人たちと「鞍馬の火祭り」の熱狂の中にいました。

 鞍馬の火祭りは、京都市の北、鞍馬・由岐神社で行われる秋の例祭で、動乱や天災が相次いだ平安時代に、御所に祀っていた由岐明神を鞍馬寺境内に遷宮し、北から都の平安を願ったことが起源だとか。集落各所に焚かれた篝火が、次々と大きな松明に移し替えられ、勇壮な鞍馬太鼓が打ち鳴らされる中、最後には100キロ超・数メートルにまで巨大化した百数十基の大松明の群れが参道を練り歩き、日頃は静かな鞍馬の夜空を焦がします。

 大松明の行列と、迫力ある神事を少しでも近くで見ようと押し寄せる大観衆の間は縄で仕切られ、府警の若い警察官たちが警護に当たっていました。押された群衆が倒れないよう、また飛び散る火の粉がかからないよう守ってくれているのです。

 とその時、ひときわ大きな火の粉を顔に受けた一人の若い警察官が、私たちの方をふり返り、「大丈夫、大丈夫だからね」と言っているように見えました。

 その時、私は思ったのです。こうして国や警察官に守られて暮らしている以上、学生の身で"破壊活動"をするのは間違いではないだろうか。僅かながら残っていた学生運動への共感は、この日を境に静かに消えていきました。

 

1972 Mar. 二人で消えた日

 八坂神社にはもう一つ忘れられない思い出があります。

 大阪で勤めていた広告会社の社員旅行で本栖湖に行った帰り、京都で皆と別れ、当時付き合っていた同僚と二人途中下車をしたことがありました。その頃「二人で消えた日」というTVCMがあったのですが、誰にも気づかれないようドキドキの体験でした。

 八坂神社の桜門をくぐり、参拝客で賑わう屋台や花見茶屋を通り抜け、たどり着いたのがライトアップされた円山公園のしだれ桜です。暮れなずむ空はかすかに青みを残して月が見え、そばには篝火も焚かれて、それは夢のように美しく幻想的な光景でした。

 「また、来年もここに来られるといいね」口には出さず彼を見ると、「うん、きっとまた来ようね」と応えてくれたような気がしたのですが…。春に始まった付き合いは季節がひと巡りした冬には終わり、"また来年"という日はやって来なかったのです。あっ、ここまで読んでくれた人、泣かないでね。(笑)

 

 

 

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