「その時、君は?」【005】1953- 音楽は Femme fatale のように・・・

      2020/01/03

 

人生の節目節目には、いつも音楽がありました。

 「その時、君は?」――あの日あの時あの場所で、あなたは何をしていましたか? そんな問いに対して、思い浮かぶのは音楽のことです。幼い頃、真空管ラジオから流れてきたラジオドラマの主題曲、母に連れられて行ったクラシックの音楽会、友達の家で聴いた沢山のSPレコード…。そんな環境が、今の自分を形作ったような気がします。

 長じてからは大学、会社、海外の赴任先の合唱団、地域の合唱団にも属し、自らもピアノを弾いてみたいと思うようになりました。現在は、歌もピアノも個人指導を受けながら、定年後の趣味の一つとして楽しんでいます。

 折にふれ心を癒し、時には力を与えてくれる…音楽はどんなときも私の心を離れないFemme fatale(運命の女性)のようなものかも知れません。

 

1953―

 

その時、君は? 【005】  相賀  誠

 

1953年頃 初めて音楽にふれたのは、NHKのラジオドラマでした。

 初めて音楽に触れたのは、小学校前のラジオから流れてくるラジオドラマ「新諸国物語」笛吹童子や紅孔雀の歌。それから、母が連れて行ってくれたクラシック音楽会、また、体調をくずして学校を休んだ時に聴いたSPレコード…。ブラームスのハンガリー舞曲などを聴いていました。

◆左:あの頃、全国の子供たちが夢中で聴いていた、NHK第1放送「新諸国物語」の笛吹童子や紅孔雀(写真は映画版) 右:ブラームス/ハンガリー舞曲集

 中学二年からは、箱崎で大学生の兄達と本と机しかない殺風景な部屋で一緒に暮らしていましたが、バイオリンとバスケットが得意な友達の家で、沢山のレコードを聴かせてもらったことは、音楽に親しむうえで有難いことでした。その頃聴いたのが、メンデルスゾーンやベートーベンのバイオリンソナタなどです。

年一回の歌の発表会

 歌は、大学の混声合唱団で定期演奏会に出たり、会社の合唱団、ドイツ・デュッセルドルフ合唱団、地域の合唱団にも属し合唱を楽しみました。ドイツ・デュッセルドルフには1980年代に社の駐在員として4年ほど滞在しましたが、その時のことです。

 現在は、歌劇の公演で時に休みもある歌の先生に個人指導を受けています。私の歌について先生からは、「高音部で力を抜かないよう、フレーズとダイナミックスを意識するよう」に言われています。アドバイス通り実現できたと思う時は楽しいです。

 今は年一回の発表会に向けて、毎日練習しています。今年は三月に発表会があり、「帰れソレントへ」と「砂山」を歌いました。

 
ピアノを弾き、聴いてもらえる楽しさを知って・・・

 ピアノにつきましては、興味はあったのですが、先生について習う事はなく、娘達のバイオリンやピアノの演奏を聴くくらいでした。

 1970年代後半の2年間、会社からテキサスA&M大学に留学した時のこと、学生ホールに置いてあるピアノを、我流で時々弾いていました。ある時、好きなフィンランデイア賛歌を弾いていたところ、何人かの人が寄ってきて聴いてくれました。

注)フィンランド賛歌:フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスにより1899年に作曲された交響詩。その後詩人コスケン二エミによって歌詞がつけられた。たびたびの帝政ロシアの侵略に屈しないフィンランドの勇敢さと誇りが表現されており、現在も国家に次ぐ第二の愛国歌として親しまれている。

 その中にたまたま、大学で世界中のバレーボールのコーチを指導しておられている松平康隆監督がおられて声をかけて頂きました。その時にもう少し、ちゃんと弾けるようになりたいと思った事でした。

 その後1990年代に単身赴任で福岡に帰ってきた際、ピアノ教師の姪にピアノを習い、また1999年から7年間、オランダ・ハーグのOPCW(化学兵器禁止機関)勤務中もピアノのレッスンを受けていました。帰国後現在の先生と出会い指導を受けていますが、ピアノを習い始めて早20年になります。

◆オランダ・ハーグのOPCW
※オランダ・ハーグのOPCW勤務の思い出は、以前に寿禄会HPに書いています。

 オランダ滞在中は、各地のコンサートにもたびたび出かけました。ヨーロッパでは音楽は日本よりさらに身近な存在として人々の生活の中にあり、本場のクラシック音楽を生で聴くことができたのは、得難い経験だったと思っています。

 幼児期から基礎の音楽教育を受けている子や孫とは違い、頭も手も声帯も固くなっていて思うようには動きませんが、毎日、基礎に立ち返って練習しています。歌もピアノも認知症予防、健康維持の為、続けたいと思っています。

 

 

 

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